231 因果と報い
ガチャッという音にカレンは目を開いた。焦点が合うとアリシアの顔が見えた。
見下ろせばマヤはまだスヤスヤと寝ている。慌てて体を起こしマヤを抱き上げたものの、どうしようかと考えているうちに、すぐ近くまで来た母親が小声で言った。
「カレン、そのままでいいわ」
「あっ、はい、こんな……失礼な格好で申し訳ありません。その、お久しぶりです、アリシアさん」
見上げたアリシアの顔はいつになく穏やかな表情を見せていた。それにひとりではなかった。
「とてもやつれているわ。大丈夫? ペトラからいろいろ聞いてはいたけれど、すごく心配したのよ」
「すみません、いつもご迷惑をおかけして……」
アリシアは首を横に振った。
「カレンには心から感謝しているわ。オリエノールを代表してお礼を言わせてもらいたいの」
どうしてだろう? わたしが何かしたっけ? 戸惑いが顔に出たのかアリシアが微笑んだ。
「前線の壁のことよ」
「それが何か?」
「トランサーが静かになったので、わたしたちにも猶予が生まれた。これからは前線をあまり心配せずに、移住計画をどんどん推し進めることができる」
「それは……」
マヤが身じろぎしたので見下ろす。右手がピクッと動き見えたものは深い紅色。また少し濃くなっている。
視線を戻すと、こちらを見下ろすアリシアは気遣わしげな表情を浮かべている。
「それに、アンドエンとも協力関係を結ぶことができたし、ウルブ1のロメルが移住計画を全面的に支援すると言ってくれたわ。全部カレンのおかげよ」
「待ってください。あれを見つけたのはロメルのところのミアであって、わたしではありません」
「ええ、承知しています。そのようにステファンにも伝えたし、おかげでこれからの協力も得られた」
「それはよかったです。でも、どうしてアンドエンが?」
「カレンはアンドエンのヤンに会ったことがあるそうね?」
「はい。そういえば、ここセインででした」
アリシアはうなずいた。
「それでは、ヤンが言っていたことは……」
これ以上話していいのかどうかわからず黙ってしまう。
「そうよ。彼が主張していた精分を吸い上げる際の副作用の話は概ね本当よ。わたしもつい先日までは知りませんでした」
「そうなのですか……。そのような大事なことなのに、わたしは何もわかっていませんでした。これまで大勢の人が……」
「ええ、オリエノールが今あるのは多くの人たちの献身と犠牲のたまもの。でも、もう壁を頑張って維持する必要がなくなったから、これ以上の不利益は生まれない。それにアンドエンとも和解できた」
「それでは、これで一安心ですね」
ペトラが口をはさんだ。
「でも、反体制派は?」
「そうね、そっちは今はどうしようもないわね」
「どういうことですか?」
「反体制派は今回の件をもとに、トランサーは作用者が招いたという主張を展開していて」
それは実に正しいのだから、何をもってしても反論のしようがないわね。
「カレンをも名指しで非難している」
「どうして? お母さんはトランサーからウルブ7を守ったんだよ。北の海の奥まで行き大変な思いをして動きを止めたんだよ。そして、今回も……」
「ペトラ、それはわたしたち皆が知っているわ。わかってはいても、彼らは誰かを批判することで自分たちの主張を正当化するの。わたしたちもきちんと説明したし、彼らの自由にはさせない」
「その反体制派のボスに……」
「ペトラ、わかっている。できれば避けたいけれど、万一向こうが仕掛けてきたら覚悟を決めるしかない」
「そう。アリーがそこまで言うなら……」
「こちらから先に手を出すわけにはいかないの。とにかく正しい情報は国民に随時伝えている。移住計画の進捗についてもよ。それに、どちらにしてもわたしたちに残された手段は、誰の主張に関わらず移住を進めることだけだから……」
会話が途切れると、後ろに控えていた女性が進み出てきたので、マヤを膝の上に下ろす。側事がマヤを抱き上げてくれたので立ち上がるが、こわばった足と背中がギシギシと嫌な音を立てた。
袖ぐりを引っ張り上げ打ち合わせを引き寄せる……あらら。下衣は諦め上服をたぐり寄せる。……もうちょっとなのに。……これは無理だわ。
どうしようと焦っていると、ペトラが羽織をぐいっと押しつけてきた。ありがたく受け取りそそくさと着込んだ。
それにしても、エメラインが一緒でなくてよかった。こんなのを見つかったら彼女から散々お説教されるのは確かだもの……。
みんなに見られたからには、ここで何をやっていたのかと勘ぐっているに違いない。あの人たちが好奇心をあらわにするのは当然だし、そうしてもわたしはちっとも気にしないけれど。
人生経験が浅いわたしは間違いをしでかしてばかりだけれど、直感を拠り所に生きてきた。この直感は、信じるに足る人を見分けてくれるはず。
自分に成すべきことが与えられたならば、正しいと思う道を最後まで貫く心構えは持ちたいし、その行為の結果はいかなるものでも素直に受け入れるつもり。
一部始終を心配そうに見つめていたアリシアが、顔を上げかすかな笑顔をこちらに向けた。
彼女は体の具合について常に気遣ってくるけれど、その理由もあるまじき格好のことも尋ねたりはしない。
わたしはそんなアリシアが好きだ。
「アリシアさん……わたしはアリシアさんと以前に……」
何をどう聞けばいいか迷い口ごもると、アリシアはこちらをまっすぐに見て言った。
「あの時、アッセンであなたに会った時、とても不思議な感じがしたのよ。なぜかあなたを知っているような。それに、何か大事なことを忘れているような。うまく説明できないけれど、何となく……つながりを感じたのよ。とてもおかしいでしょう?」
彼女は側事の腕の中で寝ているマヤをじっと見ながら続けた。
「いえ、変ではないのかもしれないわね……」
アリシアはひとり納得したようにうなずくと、カレンに目を向け微笑んだ。
「マヤはカレンのことが大好きみたいね。ペトラのように格上げしたのかしら?」
うわっ、大変。すべてが見透かされているような気がする。
「マヤと一緒にいられるようにといつも連れてきているのだけど、最近は忙しくてあまりかまってあげられていないの。きっと寂しい……」
「大丈夫です、アリシアさん。マヤはとても賢いからよくわかっていると思います。それに……いいお姉さんになります」
隣のペトラが何か言いかけたので、彼女の腕をぐっと引っ張る。
「そうだといいけれど……」
つぶやいたアリシアはすぐに顔を上げて続けた。
「いつもお願いしてばかりだけれど、時間のあるときに、今日のようにマヤの相手をしてもらえるとすごくうれしいわ。……母親と相事の二役を押しつけることになって、とても心苦しいのだけれど……」
国主が不在の今、アリシアの仕事はこれからますます大変になるはず。本当に申し訳なさそうな顔のアリシアを見て答える。
「はい、承知しました。わたしもマヤが大好きですから……」
頭を下げれば右手のオリエノールの青が以前より明るくなったように感じた。気のせいかしら。
隣を見ればしたり顔のペトラと視線が合ってしまう。大勢の前で公言したということは、つまりこれでふたりの……公認の母になってしまったのかしら……。そっとため息を漏らす。
***
「メイはまだ戻ってこないわね」
「隣の建物の会議室にいると思うけど。暇だし様子を見に行ってみる? 動いても大丈夫ならだけど……」
「大丈夫よ、これくらい……。それより、仕事はどうするの?」
「今日はもうないよ。明日の朝からはびっちりだけど……」
はっきりとため息が聞こえてきた。
「そう、それなら連れていって」
羽織の前をしっかり合わせてから外に出たが、ペトラが話していたように風がとても冷たかった。これは確かに寒いわ。
隣の建物はそう遠くなかったが、少し歩いただけで冷えてしまいそう。
二階に上がりすぐの部屋に向かい扉の前で立ち止まる。
「確かここだと思うけど、まだ終わっていないのかな?」
「それじゃあ、そこで待ってましょ」
通路に並んでいる椅子を指さした。
まもなく、扉が開きメイが出てくると、腕を上げて体を思い切り伸ばすのが見えた。
「メイ、こっち」
ペトラが声をかけると、ギクッとしたようにメイがこちらを振り向いた。
「まあ、来ていたのですか? お待たせしちゃってすみません」
「いや、たったいま着いたところだから。それにしても、メイも大変そうだね……」
「あら、もうこんな時間。データを検討するだけで何時間もかかっちゃうなんて、まったくどうかしているわ。もう少し何とか効率よく進めないとだめね。さあ、そんなところにいないで中に入って。父がお会いしたがっています」
メイに続いて部屋に踏み入れるなり、すでに立ち上がっていたステファンと向かい合うことになった。
「こんにちは、ステファンさん」
「カレンさん、いらっしゃい。すみません。終わったらうかがうはずが長引いてしまって……。とりあえずおかけになってください」
「会議は終了したのですか?」
「今日の分はだいぶ前に終わってね。今ちょっとふたりで確認作業をしていたところなんだよ。これから戻って明日の準備を始めなければならない。すまないけど、しばらく娘を借りるよ」
「ええ、もちろんです。メイは次の当主なのですから、ちゃんとその責任を果たさないと」
「この部屋、寒いですか? 温度を上げましょうか」
「あ、いえ、いえ、大丈夫です……これは、ちょっと薄着なもので……」
ステファンは少し心配そうな顔を見せていたがすぐに話を再開した。
「実はね、カレンさんがわたしの娘でなくてホッとしているんだよ」
「ああ、すみません。シャーリンが大変な誤解を与えてしまったようで」
「そんなことありませんよ。一時とは言え、あなたがわたしの娘であってくれて喜んでいたんですよ。でも、ケイトの妹だと知らされた時にはもっとうれしかったです」
「えっ、どうしてですか?」
「それは、何と言えばいいか、あなたがケイトとまったく同じだからですよ。今のこの関係のほうが納得できるし、これからもずっとお付き合いできる。今度、時間ができたらゆっくりお話ししたいです。シャーリンにも話しましたけど、ロメルはあなた方の家でもありますから、いつでも好きなときに好きなだけ滞在してください。その時に時間を作っていろいろと……」
「はい。お招きありがとうございます。いずれ機会がありましたら寄らせていただきます。ロメルのお屋敷もお話に聞いています庭園もぜひ拝見したいですし」
ステファンは笑顔で何度もうなずいた。
「慌ただしくてすみませんが、これから戻って準備をしないといけなくて。これで失礼させてもらいます」
「はい、よろしくお願いします」
たくさんの荷物を抱え込んだメイに話しかける。
「それじゃあ、メイ、先に行って待っているわね」
「はい、こっちの仕事が片付いたらわたしもすぐに追いかけますから」




