229 約束の行方
「すごく……辛そうだけど……」
そう言う声が耳に届きカレンは視線を上げた。
顔をしかめてこちらを見下ろすペトラの顔をマヤの肩越しに発見した。
「ふうー。今まで少しは経験を積んだつもりだったけど、こんなのは初めて。こういうのを自業自得っていうのかしら……うわっ」
おなかがヒクヒクとけいれんし、何度も息をつく。
「片手にしておけばよかった……」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
ペトラが感心したような声を出した。
そういう問題だわ。だって、片手ならこんなに力は入らないでしょう?
「もう十分じゃないの? そろそろ半時間になるよ」
「そんなに?」
ペトラは何度も首を振る。また時間感覚が……。
「あのさ、お母さんがすごく我慢強いのは十分にわかったから……。見ているだけで痛そうだから……もう終わりにしたら?」
「ええ、この練習はこれで十分。力絡の流れは大人顔負けだし、力髄はすでに完全に活性……ううっ」
とっさに体をよじって堪える。しびれが広がったかと思うと焼けつくような痛みに変わった。お願い、誰か助けて。もうだめ。
「マヤ、もういいわ。終わりにしましょう」
「……え、ええーっ!? こんな短時間で? しかもマヤの歳で?」
「やれやれ、ふうーっ。そうなのよ。こんなことをするのは初めてだから全然知らなかったわ。マヤはすごい子よ。それとも……これが普通なの? って、うわわっ……あうーっ!」
予想外のことに心の準備ができていなかった。針が突き刺さったような痛みに、無防備だった体が勝手に反応してしまう。
背中がのけぞり、張りつめていた糸が次々と切れたように感じると、自分の中から何かが解き放たれた。
次の瞬間、今までにない作用を感じる。これは……ファセシグ。どうして? わたしだけでは使えないはず……。どんどん膨れ上がる破壊作用に手を握りしめて抑え込む。
助けを求めて見上げれば、ペトラは目を閉じてあきれたように何度も首を振っていた。
「ねえ、マヤ! くうーっ!」
一気にしびれが広がり気を失いそうになる。
次々と襲う痛みの中、体をよじったまま必死に耐え忍ぶ。何これ? どうして急にこんな強烈になったの? これは間違いなく本物の……完成された力だわ。何とか抑え込まないと。
それにしても聞こえていないのかしら。
マヤの腕に手を伸ばしたところで次の波が到来し、おなかに力を込めて燃え立つ痛みが去るのを待つ。吹き出た汗が目に流れ込んでくる。どんどん膨れ上がる痛みに耐えながら左、右と体をよじった。
自分の中で広がる作用とマヤから放たれる力の両方に必死に抵抗する。どちらも何とかして止めないと……。
滲む涙か汗のせいか、目の前がかすみよく見えない。もう一度手を伸ばすが、体からどんどん力が抜けていく。……ビクともしない。どうしてよ?
腕は力なくだらんと落ち、体がまったく動かない。
「ペトラ!」と叫んだつもりが声が出ない。
何を考え込んでいるのか、彼女はこちらを見てくれない。
再び破壊作用が膨れ上がるが、抑えられそうもない。背中を冷たい恐怖が駆け抜けた。これを使ってしまったら……力を解放してしまったら……。
どんなことがあってもこれをマヤに向けてはならない。絶対に。
次々と襲来する激痛に、上体がこれでもかと反り返る。ああ、だめ、力が……。
もう堪えられない。これ以上自分を抑えられない。
「マヤー!! ペトラー!!」
叫んだつもりでも自分の耳にすら届かない。
その時、ようやく聞こえたのかそれとも手の運動に飽きたのか、マヤが顔をすっと起こして何ごともなかったかのように宣言した。
「おしまい」
まさに解放される寸前の作用に必死に抵抗し全力で抑え込む。しばらく格闘すると、突然、作用がすーっと退散していくのを感じ、あたりが静寂に包まれた。
ゼイゼイと咳き込み息を長々と吐き出す。心臓がものすごい勢いでバクバクしていた。何度も大きく息をつくが、おなかのけいれんが止まらない。
見ればマヤの額にも大粒の汗がたくさん浮かんでいた。本当によく頑張ってくれたわね。こっちはくたくたよ……。もう手を動かすことすらできない。このまま気を失って寝てしまいたい……。
ふとマヤの手が置かれていたところに目を向けギクリとする。赤く染まっていた。もう一度よく見れば、単に変色しているだけで出血はなさそうだ。とりあえずホッとする。
しかし、先ほどまで続いていた疼痛が嘘のように消えている。まるで他人のものを眺めているように実感がなくなっていた。
マヤの手がもう一度伸びてきて触るのを放心状態のまま見つめる。触られたはずなのに何も感じなかった。
「赤いの……」
「……うん」
「夕日みたい……」
「……うん」
「きれい……」
「……マヤはとても力持ちなのね」
ゆっくりと体を倒して顔をピタッとくっ付けてくる。
「あったかい……」
ささやくマヤの鼓動も割れんばかりの早鐘のよう。
力を振り絞って腕を持ち上げ彼女の背中に回す。
わたしの自惚れから力の暴走を招いてしまった。抑えられなかったら大変なことになっていた。あそこでマヤがやめてくれなかったら……わたしは彼女に力を向けないようにできただろうか。
ああ、もう少しでマヤを傷つけてしまうところだった。最悪の結果を想像したとたんに、再び冷や汗がどっと吹き出てくる。動悸がまた激しくなる。
しばらくマヤをぎゅっと抱きしめたままじっとしていた。
ようやく気が落ち着いたところで話しかける。
「マヤの作用力はとても強いわ。すごくよく伝わってくるもの。きっといい作用者になれるわ」
「ほんとう?」
「ええ、本当よ」
マヤの中には、イサベラやペトラの中に視た種と同じような、それでいてまだふわりとした、素とも言うべきものがある。
彼女は優れた作用者に、あるいは、権威ある者になるのかもしれない……。
突然、すべての感覚が戻ってきた。ジーンとしびれるような少し熱い感じがだんだん強くなる。
「あのね……おかあさんと呼んでいい?」
「それはだめよ」
「でも、ペトラおねえちゃんのおかあさんでしょ? それならあたしの……」
「マヤのお母さまはアリシアさんよ」
「うん。おかあさまと……もうひとりおかあさんがいるの……」
いつの間にか起き上がっていたマヤは、肩の後ろからペンダントを引っ張り出して二つのリングをカチャカチャとさせていた。
子どもの発想は理解に苦しむ……。まあ、わたしも去年産まれた子どもみたいなものだけれど。
ふと見上げると、ペトラがマヤの後ろに突っ立ったまま思案顔をしていた。
「ねえ、マヤ、すごいよ。とてもいい考えだと思うな」
「どうしてそこでペトラが賛成するのよ?」
「カレンはシャーリンのお母さんなんだよ」
マヤは体をよじってペトラを見上げたが、すぐに両手をパシッと打ち鳴らした。
「ほんとう? やっぱり、カレンはみんなのおかあさんなのね」
「ペトラ……」
***
まだ難しい顔を見せているペトラに尋ねる。
「どうしたの?」
「マヤが残りのひとりのはずはないよね……」
マヤに目を向けると、今度は紐に通したままの二つの符環を持ち上げて両目に当てていた。
先ほどからやけに体が熱い。視線を下げたとたんにギョッとする。先ほどより明らかに色が濃くなっている。今や鮮やかな紅に染め上げられたものが目の前にあった。それにこれは……見るからに成長している。
なぜこんなことに? あのチクチク、ズキズキと関係あるのかしら。
「いったい何を言い出すの? マヤはまだ子どもよ」
「どうして指にしないの?」
「大事なお守りだからしまっておいたのよ、マヤ。でも、忘れていたわ。ひとつ外してはめなければ……」
「……それはわかっているよ。つまりね、カルと一緒にいるとこう、何か見えない強いつながりができるんじゃないかと……」
「そんなわけないでしょ。もしそうなってしまったら会った人がみんな……」
反論しかけたものの、マヤの中に見つけた素は、わたしが一番よく知っている存在だった。
イサベラの中にあった種はペトラとシャーリンのものと同じ。メイにも同じ種が存在していた。そして、マヤとは……。
パメラと姉妹の契りを結び、小さなアリシアと暮らし約束を交わしたというのが、本当のことだったのかもという思いが、突然、確信に変わり一瞬息が止まった。
ついで心が激しく揺さぶられる。最初に会った瞬間から何か特別な感情を覚えたのはそのせいなのかしら。十七年前に為した契りの結果はアリシアの中で眠って時を越えたのだろうか……。
アリシアは第三を持っていないのにマヤには存在することに気づいていた。まるで力覚した子のように。
……因果。そうだとしたら、それは直接マヤに受け継がれたのかしら。そして今、約束は……果たされたのだろうか。
どんどん思考だけが先走りする。
考えすぎだわ、カレン。思念を暴走させるのは悪い癖よ。




