226 セインの行政館
「寒い……」
そうつぶやくとカレンは羽織を首の周りに引き寄せてしっかりと押さえた。
いつものように、短くてふわりと軽いスカートと襟なし短丈の上服を選んだのは間違いだった。見渡す限りの平原で唯一の丘の上に立っているせいもある。
突風が吹き荒れ羽織がバサバサとあおられた。外服が薄手なのは失敗。セインはここより暖かいはずだが、早朝に出発することを考えていなかった。この荒れた天気についても。
隣で先ほどから空を見上げているペトラが応じる。
「これからいい天気になると言っていたけど、風が強くてほんと、凍えそうだよ」
ペトラは両手を羽織の中にしまったまま体をブルッとさせたあと口にした。
「そういえば、明日から十一の月になるんだっけ。本格的な冬の到来かなあ……」
トントンと交互に足を踏みならしながら続ける。
「カティアから聞いた話だと、このあたりは雪がかなり積もるらしいよ」
雪か……。
雪が降ればトランサーの動きにも少しは変化があるのかしら。大雨の日のように停滞とかするのだろうか。しかし、雪と雨では全然違うのかもしれない……。
ロイスで過ごした昨年の冬の記憶はない。
これからまた新しい経験を得るのだと前向きに考えるようにしているけれど、近頃はそれもだんだん難しくなってきた。
「ああ、来た、来た」
ペトラが手を出して指さした先の空をしばらく探してからようやく、見逃してしまいそうな小さな点が動いているのを発見した。
周りを見回すがほかの人たちはまだ出てきていない。まあ、このような寒い中、わざわざ外で凍えながら待つ人はいないわね。そう考えている間に、空の黒点はどんどん大きくなり、ついにはそれがオリエノールの青っぽい空艇だとわかるまでになった。
船が少し離れた空き地に降下するころには、背後の建物からぞろぞろと大勢の人が出てくるのが感じられた。
こちらに歩いてきたザナに挨拶をする。
「それでは先に行きます」
「カレン、くれぐれも行動は慎重にね。わたしも、残りの仕事を片付けしだい行くから。たぶん、三、四日くらいあとになりそう」
「はい。それまでにはシャーリンたちも戻っているだろうし、ノアに対する処置も始められると思います」
「そうね」
「荷物の整理はもう終わったのですか?」
「うーん。それが、あまり進んでいなくて。あれを運べるように箱詰めするのにけっこう時間を取られてね」
「あれって? ああ、あのおとぎの世界のことね?」
ザナはうなずいた。
「どういうわけか片付けるのに時間がかかっていて……」
「ああ、何となくわかります。作業がはかどらない理由も……」
「まあね。今日、明日中には何とかするつもりなんだけどね」
それからすっと顔を近づけると小声で付け加えた。
「ティアがいないともう少しはかどるんだけどね。いちいち質問とか感想を言うものだから……」
思わず笑い声が漏れてしまい、ザナが顔をしかめた。
慌てて口を押さえたが、向こうからペトラが「なに?」という顔でこちらを見た。
しかし、ザナとティアが並んで座って箱庭を真剣に点検している様子が目に浮かび、さらに顔がほころんでしまう。
小声で言う。
「それはつまり、ティアもあれを気に入っているということでしょ。ペトラにも見せたいなあ……」
「それは勘弁してよ。あれを彼女にまで見られたら、きっとさらに大変な事態になるわ。それに、あれはアトインカンに送ってしまうつもりよ。だからしばらく……会えないことになる」
「そうなのですか。残念だわ。レタニカンにはザナの部屋以外にも特別な場所を用意しますよ。そこに広げればいいと思うけど。部屋ひとつ丸ごと使ってもらってもいいわ」
「それはだめ。あそこだとほかの人たち皆に知られてしまう」
「いいじゃないの。みんな気に入ると思うけど」
「わかった、わかった。また、今度ね」
空艇から降りてきた人たちとカティアが話を交わしている。
それを眺めるザナの髪は、イリマーンで買ってきた二本のスティングでまとめられていた。想像していたとおり、彼女の美しい黒髪に調和している。風が吹くと、ザナがディステインと称した、一本挿しの軸に並ぶ赤い葉飾りが一斉に揺れ動いた。
「これからはわたしも自分の役目をきちんと果たすつもり。いい? イリマーンに赴くときはわたしも一緒に行くから。絶対にひとりで行動してはだめよ」
「はい。しばらくはノアの様子を看なければならないし、ザナが来るまですることがいっぱいあって忙しいと思うから大丈夫です。ご心配なく。これからもザナを頼りにしていますので」
そのあとザナの体を軽く抱きしめたが、いつの間にか隣に立っていたペトラにさっと横取りされる。
「ザナ、レタニカンに来たら見てもらいたいものがあるの」
「それは楽しみ、ペトラ。ああ、カレンとシャーリンのこと、お願いね」
「まかせてちょうだい。妙なことをしないようにちゃんと見張っているから」
「どっちかというと見張られる側じゃないの?」
カレンは口を出した。
「そんなことない。さあ、出発するみたいよ。急いで」
***
空艇に乗り込んだ作用者はかなりの人数だ。
オリエノールはここに数千人の正軍と優に百人を超える力軍を派遣しているはずだが、それ以外の関係する多くの人たちも含めて、これから順次撤退することになる。船内をぐるりと見回せば座席は全部埋まっていた。
空艇が上昇を始めると、窓から下を眺めていたペトラがぼそっと言った。
「もう、ここに来ることもないね」
「うん」
「この基地も春になったらもっと南に、ウルブ7の近くに移すらしいよ。そうすると、タリもなくなるのかなあ」
「そうね。あそこは基地の補給拠点としての役割なのだから、お役目を終えたら……。あそこで仕事をしているたくさんの人たちも、南に引っ越さなければならないわね」
「うん。誰もがこれからは大変。オリエノールの前線もすごいことになっているらしいし……」
ペトラはフーッと息を吐き出すと、目を瞑って横を向いた。
少しの間、彼女の寝顔を眺めていたが、ふと思い立ち巾着から隠避帳と色ペンを取り出す。しばらくパラパラとめくって今まで書いたところを確認してから、新しいページを開き絵を描き始めた。
移動中も空の上なら揺れもなく集中できる。
ペンをとっかえひっかえしながら、頭の中の記憶をそのままどんどんと形にしていると、突然聞こえた小さな声で現実に引き戻される。
「それはなに?」
「えっ?」
思いがけない質問にビクッとする。
顔を上げるといつの間にか隣のペトラが脇から覗き込んでいた。
手に持っていたペンをほかのと一緒にそろえて脇に置くと、帳面を持ち上げて出来映えをあらためて確認する。ページの中の絵は記憶にある光景そのもの。一つ前のページをめくってみると別の情景が現れた。我ながら少しはうまく描けるようになったと思う。
「こっちはね……箱庭よ。正確には、その一部。縮小された空想の世界……」
「す、すごいねー。どこかの町かと思った。うーんと、これの本物が……ロイスにあるの? 見たことないけど……」
「もちろんないわよ」
「それじゃあ、どうやって……こんなに……」
「それは秘密よ、まだね」
「ふーん……」
ペトラの顔はかなり不満そうだったがすぐに表情が変わる。
「やっぱり細いペンはいいね」
目を近づけるペトラの横顔を見ながらそっとため息をつく。
「今日、マックスの店に行ってみる?」
うっかり口にしたとたんに、いつものようにがしっと抱きつかれる。
もはや何の驚きも感じない。ペトラの背中をポンポンとたたきながら言う。
「はい、はい」
それに、あそこで何か掘り出しものが見つかるかもしれない。しかし、その前に済ませなければならないことがある。
作業を続けながら、別の話を始めたペトラの声に耳を傾ける。
「……今日の事前協議は、明日からの本会議の段取りについてらしいよ。メイのお父さんとの話も移住計画の件だと思う」
「頑張ってお仕事してちょうだい。さぼっちゃだめよ」
「わかっているよ」
「このまま何ごともなく全員が移住できるといいけど……」
「あのさ、原初を消滅させれば、移住の必要がなくなったりしないのかなあ」
「それは難しいわね。原初を消すことができても、すでに存在するトランサーが消えるわけではない。そして、地上よりずっとずっと多い地下のトランサーが大陸を中から破壊してしまうわ。それはもう何者にも止められない」
手を休めてペトラと目を合わせる。
「見たでしょ。北の広大な大地が何千メトレも深くえぐられているのを。何十年もたっているとはいえ、あんなに地面が低くなるなんてすごい破壊力よね。きっといつかこの大陸は崩れてしまうわ。そして、海だけが……トランサーを食い止められる」
「うーん、それはわかっているけど。やはり、どうしようもないのかなあ……」
***
セインの南側にある小高い丘の空艇場に着陸する。降りてすぐ、近くの建物に歩いて向かった。
「あれが、セインの行政館よ」
「てっきり軍の司令部に行くのかと考えていたわ」
「アリーとメイのお父さんもここにいるのだと思う」
「ああ、そうか」
向こうから見覚えのある人が近づいてきた。
「ペトラさま、メイさま、お待ちしておりました。総司令官の部屋までご案内します」
それからこちらを向いて挨拶する。
「カレンさまも息災で何よりです。モリーが控え室にお連れしますので、そちらでしばらくお待ちください」
「はい。それにしても、ここでカイ指揮官とお会いするとは思っていませんでした」
カイはちょっと眉間にしわを寄せて答えた。
「あれから、わが隊はそっくり衛府に転属になりまして。まあ、これでやっと本来の任務に就くことができるわけです」
「任務?」
「国子の侍衛です。つまり、ペトラ国子、シャーリン国子、そして、カレン相事の」
「はあ……」
「先日、カレンさんが襲われた件で、後ほどご報告にあがります。くれぐれも外出はおひとりでなさいませんように」
「はい、わかりました」
ここでも自由はないらしい……。どこもかしこも窮屈になってきた。ロイスにいたころは何て気楽だったのかしら。今ではただ懐かしい……。
歩みを少し緩めてカイの副官と並ぶ。
「モリー、先日いただいたこれのことですが、さっそくとても役に立ちました」
「そうですか」
「ええ。イリマーンでチャックという方に助けていただきました」
「ええっ? チャックとおっしゃいました? ひょっとしてグウェンタのですか?」
「はい」
「それは……何というか、あの方に向こうでお会いするとは……世界は意外に狭いですね」
「彼をご存じなのですか?」
「ご存じも何も、以前、彼の指揮下にいたことがあるんですよ」
「へえー? それは知りませんでした。チャックはオリエノールの力軍の指揮官だったのですか?」
「はい。彼はとっつきにくいですけど、とてもいい方でした。あんなに早くやめるとは思っていなかったんですけどね」
「早く?」
少し小声になった。
「ちょっと複雑な事情がありましてね。たまにはこちらにも来るようですよ」
モリーからそれ以上のことは聞き出せなかった。
そういえば、オリエノールにも家を持っていると言っていたっけ。つまり、軍をやめたあともオリエノールとつながりがあるという意味だ。それに、こちらでの仕事にはたぶんメイジーも関わっている。彼女の力は……。
ぞろぞろと建物の中を進む途中、見覚えのある何人かとすれ違った。ミンの執政館からも大勢が来ているのは、ここで行われるという会議のためなのだろう。




