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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第2部 第2章

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220 思わぬ後会

 最初は気のせいだとカレンは考えた。

 耳元に感じるのは頬を撫でる風のささやき。遠くでざわめき擦れ合うのは大地を覆う緑か、それとも頭上にそびえる木々の(こずえ)だろうか。


 心を研ぎ澄まして待ち受ければ、ムズムズと落ち着かない感覚の中にも、形をなす調べが浮かび上がってくる。しばらくはほとんど意味を持たなかったが、突然それが人の声らしいと気がついた。


「……レ……ン……」


 誰かが呼んでいる、わたしを。

 とっくに見えているはずだが、首を動かしても視界には何も入らない。真っ暗なのか単にここでは目が使えないだけなのか……。




「レン……レン……」


 今度ははっきり聞こえた。やはり自分が呼ばれている。

 すぐに答えようとしたが、ものが引っかかったような変な音が出ただけだった。

 口の中がカラカラに干からびて痛いことに気づく。こわばった舌を動かしつばを飲み込もうとするが、なかなかうまくいかない。繰り返しているうちに、ようやく自分の耳にも音が伝わってきた。


「……だ、れ?」


 そう聞こえたと思った瞬間に、視界の隅っこに光が感じられた。そこを起点としてしだいに明るくなってくる。


 これは……前と違う。

 すぐに疑問が湧き上がる。何が前と異なるのだろう?




 突然、相手の名前が浮かび上がってきた。反射的に口を開くが、出てきた声はまるでほかの人が発したように太くしゃがれている。


「ラン……なの?」


 そう口にした瞬間に、これまでの記憶が洪水のようにどっと襲ってきた。

 頭の中に無数の場面が次々と現れては消えていく。そのめまぐるしさ、光が明滅するような激しい映像に圧倒され目を閉じたが、見えるものは変わらずじっと耐え忍ぶ。


 しばらくすると記憶の再生が緩やかになり、しまいには落ち着いてきた。

 空艇で壁を越えて遥か北まで飛行して……何とか原初にたどり着くことができた。そこでケイトと話をしていたところ……。


 いや、そうではなかった。対話はずっと前に終わっていて……それから……船で帰途についた。長い時間かかって……前線を越えて、基地に帰ってきた……。

 それなら、これはどういうこと?




 あたりを見回している間に、目に入る景色がかすかに色づき、本当に見覚えのある場所になった。

 どこまでも広がる緑の草原の中、少し先には記憶にも存在する木製のベンチがポツンと置かれていた。そこに誰かが座っているのもわかるが、その姿までははっきりしない。


「本当にランなの?」


 どんなに目を細めてもぼやけた姿は変わらなかったが、こちらに向いた顔がしかめられたように感じた。単なる想像だったかもしれない。


「レンの姿がはっきりしない……遠いせいかしらね」

「遠い……」

「レンは帰ってしま……ここからは遥か離れて……」

「近くにいないと話はできないはず」

「そうだった、前は。たぶん、一度ここで会って話をしたことで……ができたのかもしれ……」




「よく聞こえないわ」


 ケイトのすぐ隣に座り、体を傾け耳を近づけるが、もちろん何も改善されなかった。

 言葉が聞き取りにくいのは相変わらずだ。それに、自分の着ている服もケイトの姿も周りの草木さえも、まるで誰かが画帳に色ペンで描いたように薄い色彩。


「これから……離れていても……できるわね……」

「よく見えないし、声が小さくなったり聞こえなくなったり。何を言っているのかわからない時も……」

「それは……遠いからよ」


 姿がはっきりしないのも、声がぶつぶつ切れるのも、お互いが離れすぎているせいか……。それでも、こうやって話ができるのは……たぶんすごいこと。

 

「あのね……ラン。この前は……少し言いすぎたかも」

「あなた、トーマスから……聞かずに消えちゃったわね」

「ああ……ごめんなさい。お父さんは何か言っていた?」

「レンが眠っていた……こと」

「えっ? 何のこと?」

「レタニカンの……調力……」

「ちょうりき?」

「医務室……ベッドの……」

「あっ、そうだった。あの医療用ベッドの使い方を教えてもらおうと思っていたのに」

「まずはその……しましょ。よく聞いて、いい? トーマス……調力(ちょうりき)装具……二つの機能が……」




 ケイトの声は頻繁に聞こえづらくなり、何度も聞き返す羽目になったけれど、だいたいのことは理解できた。

 あの医療用ベッドには調力(ちょうりき)装具という機器が備わっていて、体の回復を助ける機能に加えて、力髄の衰弱を防ぎ正常に保つ効用を持っている。それも、両方に使えるすごい機械らしい。


 はっきりしたのは、あれを使えば、ノアを今の眠った状態から現実に引き戻せる。

 心の底から安堵した。これでイオナ、それにオリビアとの約束を果たせそうだ……。




「ねえ、ラン、フランクと話すのは……無理よね」

「うん……」

「……そうよね。ランとまた会えただけでも奇跡のようなのに、これ以上を求めたらバチが当たるわね。でも……どんな代償を払ってもいいから、もう一度フランクと話したい……」

「あたしたちはもう……できない。エレイン……トーマスもフランクすら。……一部になってしまった。だからもう……あたしもいつまでこうやって……。それに……フランクの記憶は……きっと……にもある」


 カレンは首を横に振った。ここに、わたしの中に存在したとしても、その扉を開くことができなければ……。


「……レンはザナンと町で……いたけど……あの最後の夏……みんなはレタニカンで暮らし……フランクも一緒に……」

「ランは別のところに住んでいたの?」

「エレインの養成所……四歳から六歳……子どもたちの基礎訓練……。レン、あなたもね」


 養成所。それはシャーリンたちが訪れたという、ウルブ5に残された学校のことかしら。


「あたしたちはふたりで一人……代わり番こだったけどね。……あのころは楽し……」




 ケイトは青い空を見上げてうっとりとした。そのあと体をかすかに震わせたように見えた。何となく思い出し笑いのように感じる。


「あたしたち……同じ話し方、同じ振る舞い……完璧にこなせ……そろいの服を着れば、入れ代わっているのには誰も……」


 ああ、そういうことなのね……。


「どうしてそんなことをする必要があったの?」

「要らぬ関心を引き寄せ……。ほら、エレインは……双子だとなると余計な注意を……。インペカール……イリマーンとか」


 耳に神経を集中して聞いていなければ、肝心なところを聞き逃してしまう。


「でもね、レンは大人になっても……頻繁に心がお留守……訓練の真っ最中によ」


 笑みがこぼれるのが見えた。


「……だから、最後のころは……子どもたち……と怪しんで……。あの最後の年、レンは養成所をやめて……ザナンと……。あたしが全部……」

「ごめんなさい……」

「いいの。あたしは教えるのが好き……。それに、教えるのはたぶんレンよりうまい……」

「うん、それはわかるような気がする」




「レンがやめちゃう……当然のように……パムたちはレタニカンに……仮の養成所に……」

「パムたち?」

「パメラとアリシア。パムはレンと姉妹の……妹になったんだし」


 パメラが……わたしの妹に?


「それに、おませなアリシアはあなたたちにべったり……だから、あそこで……を続けることに……」

「アリシアって、もしかして……」

「以前から、イリスの人たち……メリデマールの……で学ぶのが習わし……。ユーリもフランクも……ユーリと……決まっていたセシルも……」

「それで、アリシアとは……」

「セシルの娘は国に帰る前……レンと……の約束を……。だから、彼女が二度目に……あなたがいなくて……ずーっと落ち込んで……しかたなく記憶を……」


 遠くを見るようなケイトの瞳が暗くなった。

 十七年以上前。初動時の訓練ではなく数歳のころの話だ。約束……。やはり、アリシアはわたしのことを知っていたのか。しかし、それなら……。




 さらにケイトの話は続いていたが、それを遮って口を開く。


「ランに言われたことについてだけど……」


 隣から大きなため息が聞こえた。


「レン、わたしもあなたともう一度一緒……したい。まだやり残した……ある。でもね、それは無理だということもわかって……」

「どうしてわかるの? そんなの、やってみないとわからないじゃない」


 こちらを向いたケイトが微笑むのが見え、その目をまじまじと見つめる。


「全然変わらない……レンは。一度こうと決めたら本当に……」

「レイの(おさ)から言われたの。協約を実行すれば、この世界の力が枯渇し崩壊するのを防げると。だから……」

「それは、シルの考え……。シルは……のためじゃない、自分たちの……に実行する。それに、この前は失敗……」

「失敗……そうね。でも、それは何か不可抗力のせいだと言ったじゃない。お母さんの……」

「ううん、……は、エレインの……であって証拠があるわけ……。もともと……計画だったのかもしれない。それをまた繰り返して……しれないじゃない」




「ランはシルには行ったことがあるの?」

「ない」

「わたしは……レイの長を信じる。それに、シアの言葉を頼りにする……。たとえみんながシルのために動いているのだとしても。だって……わたしに残されたのはそれしかないもの。自分の直感を信じて……それに従うわ」

「エレインはシルに行ったこと……から望みを……。でも、わたしたちは……死んでいる。わたしには無理だと知って……それでも……レンがどうしてもやってみたいと言う……」

「言うわ」


 今は離れていても会話ができるのを見いだした。それは、わたしたちの間の結びつきが、以前より強くなっていることを意味している。だから、ケイトの意識を引き戻すのだってきっと可能なはず。


「確かに、レンは頑固……だけど……直感が正しかったこと……」

「わたしが思うに、ランのほうがよっぽど強情だけど」

「それは……どうかしらね?」

「わたしにはランと一緒に過ごした記憶がない。それでも、何となくわかるの」

「それは……今度じっくりと教えて……」




「レイの長に言われたの。記憶は取り戻せると……。一時的にだけれど」

「それはよかった……今までで一番の、そして唯一の朗報……」

「でも……」


 こちらを見るケイトの気遣わしげな目にさらに憂愁の色が浮かんだ。


「……迷っているのね?」

「ねえ、ラン、どうしたらいいと思う? 記憶というのは苦しいものなの?」

「わたしには……想像できない。……忘れないことがどういう……」


 嫌な経験も忘れたいできごとも、決してぼやけることなく、すべてがはっきり見えてしまうのは確かに(つら)い。それに、いったん呼び出してしまうと、もはや止められない。それはちゃんと理解しているつもり。




 それでも、あの時に何があったのか、みんなが何を考えどんなことをしたのか。そして、わたしの関わってきた人たちと、これまで何を分かち合ってきたのか。それを知りたいという欲求は時々抑えきれなくなる。


「うん、そうね」


 結局これは自分で決めなければならないことなのはわかっていた……。


「……また、会える?」

「この意識を消滅してもらうまで……ね」


 ケイトの答えからは、心なしかよそよそしい響きを感じた。

 意図せず声がきつくなってしまう。


「消さないわ、絶対に。これ以上何も失いたくない……」


 返事はなかった。


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