217 記憶と戸惑い
「子ども?」
「そうよ。時縮はその時が来るまで解除はできない。どうしようもないので、トーマスがあんたの中から取りだして人工子宮に入れたの」
ケイトは空を見上げた。
「レンを発見した時にはギリギリだった。もう待てなかった。すぐに処置しなければ危なかった。おかげでもうひとりは……」
「ちょっと待って、レン。本当にわたしはシャーリンの母親なのね?」
「当たり前でしょ。でもふたり目は……」
ケイトの断定を聞くなりカレンは大きく息をついた。ザナはそうだと言ったけれど、当時、彼女は小さい子ども。勘違いしている可能性もあったが、これで安心した。シャーリンが自分の娘であって本当によかった。
突然、ケイトが黙って遠くを見る目つきになった。
「……フランクが話したがってる」
「ほかの人とは話せないのじゃなかったの?」
「フランクはここに来て一年くらいだから、あたしが仲立ちすればまだ何とかなると思う。うまくいくかどうかわからないけど頑張ってみる。ちょっと待ってね」
フランクのことは何も知らない。
外見はわかっている。シャーリンの部屋に父娘で撮った写真、あれの記憶はまだ残っている。それに、ユーリ国主には会って話したこともある。たぶんそっくりのはず。
目の前のケイトの姿がぼやけ、ほかの形になろうとうごめいた。それをじっと見ながら想像する。フランクはわたしのことをどう思っているのだろうか。
最後に話したのは十七年以上前のはず。わたしには記憶がないし、フランクのことをどう思っていたのかもまるでわからない。
「……カレン、もう一度会うことができて、こうやって話せてよかった」
目の前の姿はぼんやりとはっきりしない。霞がかかったように輪郭がぼやけている。
「フランクなの? あまりよく見えないのだけど」
しばらく返事がなかった。
「ぼくの姿を思い出せないからかもしれない。お互い見える姿は記憶に基づくらしい。そうケイトは言っている」
「それでも、話はできるのね」
「ああ。シャーリンは元気にしているか?」
「ええ、ええ。シャーリンは何もできなかったわたしをずっと支えてくれた。それにペトラはとてもいい子よ……」
「ペトラ?」
「アリシアさんから彼女の相事に指名されたのだけれど、あのふたりは姉妹同然の……」
「ああ、ああ……そういうことだったのか。そうか、ペトラが……」
「それに、ロイスの家の人たちはみんなとても親切で……」
「それはよかった、よかった。でも、最後にちゃんと話をしたかったな……」
「どうして、あなたは海に囚われてしまったの?」
「ああ、あれはいつだっけ? ディオナからの連絡を受けたのが始まりだ。ぼくは、それまで、君のこともディオナのことも全部忘れていた。シャーリンに関することで話があると言われ、ウルブ6まで出かけた」
フランクの記憶はディオナによって封印されたのかしら。
「そこでディオナと会い、尾根のレタニカンまで行った。あの家に入ってまっすぐに、君が眠っている部屋に連れていかれた。あの部屋に入ったとたんに、いろいろなことを思い出し始めた。君のこと、君の両親のこと。それに、どうしてシャーリンを連れてロイスに戻ることになったのか、それ以外のことも全部」
「それからディオナと一緒に君が目覚めるのを待った。そして知った、君の記憶がまっさらになってしまったことを。君はぼくたちを見ても何の関心も示さないばかりか、すぐにまた眠ってしまった」
「ディオナから、ケイトたちがずっと前から行方不明だと聞き、トランサーの海に向かったんだと思った。それで海に行くことにした」
「えっ、壁を越えたの?」
「いや、エオリア湖をボートで渡った」
「エオリア湖?」
「オリエノールの北東に位置する巨大な湖だよ。あれがあるおかげでオリエノールは東側からの侵略を心配する必要がない。エオリア湖とそれにつながる多くの川がトランサーから守ってくれているから……」
少し声が途絶えた。
「……どうかしていた。君の記憶からすべてが消えたことを知った瞬間、どういうわけか、トランサーが君の記憶を奪ったのだと確信したんだ。ずっと前からそうだったんだと思い、海に行けば何かわかると考えた。それで、船で湖を横断したんだ。もちろん、とんでもない行動だった。どうしてあんなことをしたのか今でもよくわからない」
目の前の姿がはっきりしてきた。今は話している相手がフランクだとすぐにわかる。
「それで?」
「対岸に上陸して、やつらの、海の中を歩いても別に何も起きなかった。当然何もわからなかった。しばらくは襲われることもなくただ歩き続けた。本当にどうかしていた」
襲われなかった?
「ああ、でも、ケイトに助けられたんだ。たぶん、海とつながるケイトにはエオリア湖に現れてトランサーの中をほっつき歩いているばかな存在に気づき、見に来てくれたんだと思う。トランサーに消される前に、彼女が意識を取り込んで……」
また声が途切れる。
「……会えた。君が何も覚えてないのは知っているけど、ぼくは君を知っているし、こうやって君と向き合っていると、あの当時のままだよ。記憶の中の君と寸分も違わない。話し方も、その仕草も、驚き方すらも、何もかも」
「それは、フランク、全部あなたの想像の産物じゃないの? この世界では……」
「ああ、そうかもしれない。それでもいいんだ。これで、ぼくは思い残すことが何もない。シャーリンのことも君が帰ってきたので大丈夫だし。彼女にとっては、よく留守にする父親でしかなかったが、いまではちゃんと母親がいる。ペトラのことだけは心残りだが……」
また霧がかかったようにぼやけてきた。
「わたしは今からでも母親になれるかしら?」
「もちろん、君の娘たちだから」
「理由になってないわ」
「そうかい。カレン、君はとてもいい母親になれる。十何年の不在なんかちっとも問題にならない」
「わたしはどうやって十六年を生き延びたの?」
答えがない、と思ったら霧が晴れてケイトの姿が形作られた。
「それは、トーマスが作った装置のおかげよ。あたしにはよくわからないけど……」
「そうだ、実は助けたい人がいるの。その人はわたしと同じように時縮で眠っているけど、どんどん弱っていて……」
「うん、時縮は本人にしか解けない。それにね、時縮は代謝機能は落とすけど、力髄は現実時間で動き続けている。だから何年も眠り続けることはできないの。力髄を回復させないと数年で止まってしまう。あたしたちにとって力髄の停止は死を意味する。でも、あの装置はそうならないように助けてくれる」
ノアは単に体が衰弱しているのではなく、力髄が弱っていたのか。だから……。
再び姿がぼやけた。フランクに替わったのがわかる。
「カレンが眠っていた装置ならその人を救えるんじゃないかな」
「本当?」
「トーマスにも聞いてみよう」
「待って! フランク、もう少しだけ」
「なんだい?」
「わたしは……あなたを愛していた?」
目の前の姿が揺らめいたが、すぐに答えが返ってきた。
「ぼくは君を愛していたし、君もそう言ってくれた」
再びフランクの姿がぼやけてくる。
「君は何度もぼくに、最初の出会いについて語らせた。そのころの記憶がないからと言って……。とてもかわいらしいよ。まるで愛娘に何度も物語をせがまれる父親みたいなものだったな……」
どういうわけか胸が震え、そして熱くなってくる。
「ねえ、フランク。その話を聞かせて」
「うん、いいよ。ぼくは……十四で……そうすると君はまだ六歳か……。君に初めて会ったのは……どこだったかな、レタニカンではないしウルブ3でもない……」
「ウルブ5にも家があるらしいけど……」
「あっ、そうか。きっとそこだ。……おかしいな、どういう話をしたのか思い出せない。意識だけの存在になるとあやふやになるのか……それともトランサーのせいかな……」
最後にはフランクの戸惑いだけが伝わってきた。
記憶がなくなるって、それってわたしと同じじゃない。どうしてそうなっちゃうの?
思わず泣きそうになるが、どういうわけかちっとも涙が出てこない。
「……わたしはあなたの信頼を裏切ったかもしれない。もうひとりの……」
「しーっ。それ以上言う必要はないよ。君にはそうするだけのちゃんとした理由があったに違いない。君は目の前の困っている者をほっておくような人ではないから」
目の前のゆらゆらとはっきりしないフランクを見つめる。
「自分にできることをとことん実行する人だから。パメラのことも体を張って守り抜いたじゃないか。ねえ、カレン、ぼくを信じて。君は間違ったことはしていないとわかっている。それに、みんな君に助けられた」
また目頭が熱くなってきた。わたしはどうすればいいの?
「わたしもみんなに助けられた。そして、ここまで来ることができた」
「ああ、そうだな。もう平気かい? そろそろ行かないと。これでお別れだ。体に気をつけて……むちゃするなよ……」
「うん、気をつける。さようなら、フランク……」




