214 月白
壁を越える前から違いは明らかだった。
カレンは、ペトラの唸るような声を耳にした。
「本当にこのすべてがあの紫黒の海の変化したものなの? まったく別に見えるよ」
防御面の向こう側には日の光を浴びた乳白色の世界がどこまでも広がっていた。
「確かにこの景色を見ると、壁の向こうが月白の海と呼ばれるようになったのも納得できるわね。こんなに明るくて白いのなら、夜でも地面が光っていそう。そんな気がするわ」
「カレン、新しい海ですが、以前と何か違いは感じますか?」
「それだけどね、エム、トランサーからは前と同じように何かが伝わってくるのよ」
「また、その伝達経路が復活したんでしょうか?」
カレンは首を横に動かした。
「まだわからないけれど、前のような集団に向けての意思の伝達とかトランサーの間で交わされる波とは全然違うの。これは、どう言ったらいいかしら、そう、まとまりのないざわめきがどこまでも広がっている。うまく言えないけど、少なくとも統一された意志は感じられないわ」
「ここから見ると、壁のところでのフィールドとの衝突は以前と変わりないように見えますね。つまり、トランサーの本能は少しも変わってないということか」
「本当に、作用力に反応しているんでしょうか?」
「そうね、メイ、ここからじゃわからないわね。もっと進んで平らなところで一度、下に降りて確認してみないとだめね。遮へいがどこまで有効なのかを。ミアが効果があると言ったのは、結局は第二形態のことだから、この下の第三形態では少し違う可能性もあり得る」
それからは、ただひたすら飛び続けた。
同じくらいの高度を保ちつつ、斜面に沿って徐々に降下していく。この空艇の足がザナの船よりもかなり速いことがわかり一安心した。
長時間連続して飛び続けると、エメラインとペトラは休む暇がない。
ふたりが後で休憩できるように、高いところを飛行している間はメイには何もしないで力を温存してもらう。
誰も何も言わずに眼下を流れる白と銀色の混じった地面だけを見続ける。どこまで行っても月白の海は見渡す限り続いていた。
もう、以前の紫黒のトランサーは影も形もない。この世界のすべてが変わってしまったようだ。
「エム、地面が水平になってからもう一時間よ。そろそろ高度を下げて反応を見てみる?」
「わかりました」
振り返って言う。
「メイ、出番よ。お願い」
すぐに、弱いレセシグを感じる。
「飛翔装置を含めて遮へいできているかしら?」
メイは眉間にしわを寄せた。
「それを確かめる方法はないの。トランサーの反応を招かないためには、どれくらいの遮へいが必要かが、まったくわからないから」
外に向けていたペトラの顔がくるっと回ってこちらを見る。
「ザナはさほど強い遮へいは必要ないと言っていた。大型艇と単純に比較はできない。でも、これくらい小さければかなり弱くてもいいんじゃないの?」
「それはそうだけど、長時間張る必要があるから可能な限り弱くしたいのよね。遮へいは離れるほど効果が急減するの。まあ、とりあえず強めに張って、降りてからトランサーの様子を見ることにする」
「エム、ゆっくりね。もし、トランサーがこちらに関心を示したらすぐに中止よ。メイは遮へいか防御のどちらかしか使えないから、向こうが攻撃してきたら防御に切り換えて船を守らなければならない。ここで船を失ったらおしまいだから。だから、そうなったらとにかく逃げるしかない」
船は徐々に降下を始めた。
カレンはペトラと手をつないで、飛翔術の手助けをしながらも、トランサーから変化の兆しが届かないか注意深く耳を澄ましていた。
「まだ、大丈夫ね」
そうつぶやくと、メイが計器の表示を読み上げた。
「だいぶ降下した。このセンサの情報が正しければ下まで百メトレ」
「前はこれくらいでトランサーが反応したと思うけど」
エメラインは異なる考えのようだった。
「下にいるやつらはこの前と同じトランサーじゃない。第三形態だから違う行動をする可能性がある。あいつらの感じる距離も前と異なるかもしれない」
「ザナは、今度のトランサーも同じくらい近づけば殺到してくると言っていたけれど……」
「カル、反転して高速で上昇するときは……ちゃんと支えてよ。切り換えるのはうまくできそうもないから」
「わかっているわ。心配しないで。きちんとやるから」
下からざわめきが広がってきた。
「何か起こりそう……」
「えっ? 気づかれたってこと?」
「うーん、違うと思う。そこら中で何か湧き上がるようなざわつきを感じる。何かしら、この感じ。前にもどこかで……」
その時、眼下の白い大地がぽこっと盛り上がったように見えた。続いて、なめらかな板がバラバラになったように至る所に亀裂が入った。次の瞬間には、たくさんの白いかたまりが膨張し沸き上がる無数の雲のごとく迫ってきた。
船が雲に突っ込むように急降下しているのを感じる。
「落ちる!」
ペトラの大声が響いたが、目の前のモニターを見れば実際は逆だった。眼下に見えていた白い地面がもくもくと登ってくる。
続いてメイが叫び声を上げた。
「衝突する!」
次の瞬間、メイが遮へいを捨てて防御に切り換えたのがわかった。
白い吹雪が視界を覆い、一瞬後にはフィールドに火がついたように真っ赤に燃え上がった。船がさらにぐいっと突き上げられるのを足から感じる。
先ほどからエメラインの大声が繰り返し聞こえていることに気づく。
「ペトラ! もっと! 最大に!」
ペトラの慌てたような声が耳に届いた。
「カル! 何とかして!」
カレンはペトラに対してつないでいた細い流れの関所をはずした。
とたんに作用力がペトラに向かって押し寄せていき、ついで飛翔装置に濁流のように流れ込むのを感じる。
下から一気に突き上げる力が生まれると、船ははじけたように急上昇し、体がぐぐっと押しつけられ胸が苦しくなった。
しばらくそのまま我慢していると、ポンと白い霧を突き抜け視界が開ける。気がつくと青空の中を上昇していた。
眼下には真っ白い世界が沸き立つ雲のようにうごめき形を変えつつ広がっていった。
いったい何だったのだろう。遮へいの効果はちゃんとあったと思うけれど……。
単にあれは第三形態がとる行動のひとつなのだろうか。トランサーが軽々と舞っている様は、この前の重々しい第二形態とはまるで違って見える。
ペトラがかみしめるように言った。
「さっきのは飛行じゃなくて、上昇気流に乗って上がってきただけじゃないかな」
「どうして、そう思うの?」
「こっちの船も風に煽られるように上昇したでしょ。カルが切り換えてくれる前から」
エムが同意するように首を動かした。
「それは、わたしも感じた。突風に遭ったみたいだった。この船は小さくて軽いから風にすごく弱い」
「わかったわ。それじゃ、もう少し先に行ってからもう一度試しましょう。遮へい効果を確かめるところまで降りられなかったし。さあ、急ぎましょう。まだ、半分も来ていないわ」
***
「下は静かになったわね」
高いところから見る限りでは、地面は鏡のようになめらかに見える。
「もう一度、降りてみる?」
そうメイに聞かれた。
「そうしましょ。地上に降りて休憩できないと原初にたどり着くことができない。降りられないなら引き返すしかない。それに原初についても着陸できないと意味がないから」
前と同じように船を徐々に降下させる。
今度は何の変化も感じないまま、高度が五十メトレを下回る。
ペトラがこちらを向いて心配そうに言う。
「まだ何も起きない。大丈夫?」
「まったく何の反応もないわ」
「さっきのは何だったんだろう。やはり、風のしわざというだけだったの?」
「そうかもしれない」
「今度のトランサーはとても軽いのかな。風で簡単に移動できるほど」
「それはあり得るかも」
モニターを睨んでいるメイの声が聞こえる。
「あと十メトレよ。このまま、トランサーの上に降りて大丈夫なの?」
エメラインの声は静かだが力強い。
「わからない。とにかくギリギリまで降りる」
「五メトレ」




