207 対話と記憶
カレンは光に満ちた草むらに立っていた。
これは現実なのだろうか。どこまでも広がる萌黄色の絨毯の中にいろいろな色形の幹を持つ木が並んでいるが、いったいどれがレイの長なのかさっぱりわからない。
「よく決心した、カレリーナ」
長は頭の中に直接語りかけてきた。シアとは何となく口に出して話をしているから、この方法にはあまり慣れていない。
返事をするまでに少し手こずる。
「あなたのことはどうお呼びすればよいのですか?」
「われわれに名前はない。使い手には接触する相手が判別できるよう名前を与えているが」
「わかりました、レイの長」
「この世界はこれまでにない変局のときを迎えておる。それも先立つ協約が放置されたままになっているためだ。未だに前の輪術式が効力を持ち続けており、あらゆるものを飲み込もうとしている」
「協約というのはどのようなことでしょうか」
「レイとダイアナの間で交わされたものだ」
「それはシアから聞きました。ダイアナ……」
「アダルのユアンが寄り添いし者のこと」
「あ、はい、母の姉ですね?」
「……そうだ」
「ダイアナは何のために……」
「そう急かすな」
「申し訳ありません」
「よいか。先の作用者間の抗争により大陸の大部分が不毛と化した。それは記憶にあるだろう。それ以来、この世界に満ちる精気は激減し力も弱まってしまった。これを取り戻すには大地に緑と活力が必要なのだ」
大戦争のことだと気づいた。そんな昔の影響が今の時代に及んでいる。
「ユアンはこの死せる大地を蘇らせる計画を立て、ダイアナはシルに協力を求めにやって来た。われわれはシルのためにその計画に賛同し、ダイアナと協約を交わした。ユアンは大勢の術者を連れて大陸の中心に向かい、レイはその一分にあたるシルの使いとレイの手を送り込んだ。レイはここから動くことはないが、使い手を通して術者とつながれば、この大陸を蘇らせる見込みが十分にあった。自然が復活すれば世界に精気が満ち力が戻る、と考えたのだ」
「でも、失敗したのですね」
「そうだ。力のかけらによって乱された輪術式は間違った方向に転がり暴走した。その結果大地を潤す代わりにこの地を刻むものたちが生まれてしまった。異質の力に囚われた術者と使い手はすべてかのものの中に取り込まれてあの海が出現した」
そうだとすると、幻精の集団が核になっているから、転移能力を使ってトランサーは南の現所まで運ばれている。そういうことなのかしら。
「つまり、トランサーの源は大勢の作用者たちとシルの幻精たちということですか?」
「そのとおりだ。かのものたちが芯となり、大地と作用をむさぼり新たな破壊者を生み続けている」
「それで、その協約は……」
「ダイアナは消滅して海に取り込まれ、協約は成就も停廃もされずになお生き続けている。それ以来、シルの力、この世界の力をひたすら吸収し続けている」
「では、どうすれば?」
「この協約を引き継ぐことのできる資格のある者が必要だった。それはダイアナの血を継ぐ者でなければならない。そして、われわれと対話ができ、使い手との橋渡しとなる人でなければならない」
「おまえは、自分の記憶を糧として、その仲立ちを果たすことが可能だろう。おまえが協約を引き継げば」
「協約を引き継いだら、ユアンとダイアナの立てた計画を続けなければいけないということですね?」
「違う。かの計画には優れた何百もの術者と使い手が投じられた。今はとてもそんな数はない。使い手も残りわずかになっている。あの海に力を吸収され続けているためだ。あれを断ち切れば、また、いつかシルの力は戻るだろう」
「それでは、何をすれば……」
「まず、あの海の膨張を止めなければならない。これ以上の力の吸収が治まればわれわれも海に対抗できる。いまの状況下でこれ以上を望むのは浅はかというものだ。あの海を消滅させることも、ましてや、大地を蘇らせる力はこの世界のどこにも残されていない」
「なぜ、今なのですか?」
「この協約を終わらせるためには、大勢の術者と使い手の変容した原初を消滅させなければならない。それには、根源が結ばれた六人の長けた術者と、この者たちと組む二界四素の使い手がいる。この六人とつながるさらに六人の術者も要する。それは、未だ完全な形でそろってはいない」
ケタリではないからだろうか。
「どうすればそろうのですか」
「かの海の深部に臨み、おまえの片割れに会うがいい。おまえが本来の力を取り戻せれば、全員がおまえのもとにそろい、輪術式が可能になるはずだ」
「あなたは、わたしの夢に出てきた方ですよね?」
「おまえは、夢の中でなら意識だけの存在とも対話が可能だ。これまでは遠すぎて十分に接触できなかったが、このように近ければ何の障がいも起こり得ない」
「あなたは、わたしの記憶をお持ちなのですか?」
「いいや。おまえの記憶は、おまえの根源に今でも存在する」
「でも、わたしは……」
「おまえの片割れが、おまえが取り出せない記憶を代わりに引き出してくれるだろう」
「でも、それでは……」
「おまえは、夢の中ではなく、現実界で記憶の門を開きたいのか?」
「ええ」
「夢の中と違って、現実界はとても辛いぞ」
「たぶん、そうだと思います。それでも考えるのです。昔の思い出とかを……」
「記憶の中に楽しいことはごくわずかだ。残りは苦いものになるだろう」
「できるのですね?」
「おまえが協約を引き継ぎ、シルのもとに立つなら、シルによってひとつだけ何なりとおまえの願いを叶えることが許されている」
「えっ、それでは?」
「記憶の扉を開く鍵をおまえに与えることもできる。でも、いいか、一度扉が開かれても、おまえが力を行使するたびに記憶が消費されるのに変わりはない。それでもいいかね?」
つまり、いったん記憶が戻っても、再び徐々に失われるということ? でも、一時的にでも昔の記憶を思いだせるのならば……。
でも、本当にそうなのだろうか?
誰にでも知りたくない、忘れたいことがあるものだと言われた。
「迷っておるな。何を求めるか決まったら再び来るがいい。それまで、レイは協約を終結させるための準備を進めておくとしよう」
よく考えろという意味か。
一度記憶の扉を開いたらもう閉じることはできない。あふれ出る思いを忘れることも……。
「さて、こうやって人と話すのは変に力を使う。少し疲れた。では気をつけて行くがいい」
「待ってください……」
返事はなかった。ぷつりと何も感じなくなった。
目を開く。別に眠っていたわけではなかった。眠りの間の夢はすぐに消え去るが、今日の話はそのまま記憶として鮮明に残っていた。
もっと聞きたいことがあった……。
それでもとにかく、北の海に行きケイトと話をする必要があることだけは確かめられた。




