205 協約
皆の質問攻めから解放されると、カレンは自室に戻りすぐベッドに体を投げ出した。このぐったりした感覚。とても長く疲れる一日だったわ。たちまち睡魔が襲ってくる。
「カレン?」
ビクッとする。眠りかけていた目を無理やりこじあけてシアの顔を見る。
「お帰り……」
「今日も元気ないね」
「いろいろあって疲れたの。聞きたい?」
カレンは手の平を差し出した。
シアは手に降りて膝を折って座ると、小さな手を伸ばした。
しばらくたってシアがぼそりと言った。
「カレンはすべてを視た。これで条件は整った」
「何の条件?」
「カレンは協約の修正をレイに求める?」
「協約?」
「レイとダイアナの間で交わされた協約を引き継ぐ意志があるかどうかを聞いている」
「ダイアナ? 何のことかさっぱりわからないわ、シア」
シアの説明はいつでも途中がはしょられている。
すでに閉店した頭ではついていけない。
「ユアンが伴侶たるダイアナとレイが三十六年前に交わした協約。それは未だ達成も解除もされずそのままになっている。ダイアナの血脈たるカレンがこの協約を受け継ぐ意志を示すなら、レイもカレンに協力する用意がある」
「シア? あなたはいったい誰?」
「あたしはレイの長の手だよ。言ったと思うけど? 記憶からあふれてしまった? でも、あたしは……カレンの友人でありたい」
カレンはシアをのせた手を引き寄せてじっと見た。シアはまっすぐにこちらを見上げた。緑色の髪が後ろに流れ顔には光と影が交錯する。
長の手? それはレイの手足となりレイを代表するということだろうか。シアが?
「前の協約は成就されず撤回もなされないまま、ダイアナは姿を消してしまった。そしてトランサーはこの大陸を崩壊させつつある。レイはシルの使命を全うする役割を担っている。それにはまずこの協約をいかなる形にせよ終結させる必要がある。あれは、レイと人が交わした協約ゆえ、レイだけではどうにもならない。もちろん人だけでもいかんともしがたい」
ようやく脳が起動してきた。
「三十六年前と言ったわね。それは、ユアンたちが行なった実験……」
「そう。レイはユアンの計画がシルのためになると考え、ダイアナの求めに応じた」
「どうして、ダイアナなの? ユアンではなくて」
「レイは人の男とは対話ができない」
「ええっ? そうなの?」
「あたしが感情を共有することのできる相手は、カレンに近しい人の女だけよ」
「ダイアナはどうなったの?」
「あの計画に参画した人はこの世からいなくなってしまったし、あたしの家族も大勢が消滅した」
「それは……ごめんなさい」
「間違ってる。カレンが謝ることじゃない」
「それで、協約って具体的には何をするの」
「ダイアナの、つまりユアンの計画は干渉を受け失敗した。こうなってしまった以上、できるのは、トランサーの新たなる出現、これ以上の変貌を止めること。そうしないといつかはシルも消滅してしまう」
カレンはうなずいた。
「カレンに先人の失敗の責任をとらせるのは間違いだとあたし自身は理解している。カレンには何の責務もないのだから……。それでも、この世界を、シルを、自分たちを、そして、あたしたちを助けようと行動するならば、レイもあたしも力を尽くしてカレンを援助する。だから、考えてみて」
今夜のシアはめったにないほど饒舌だ。それだけ、真剣だということかしら。
「……わかったわ、シア」
「決心がついたら、森に来てくれる?」
「森? どこの?」
そう聞いたときにはシアの姿は消えていた。
次の瞬間にはまぶたが下がり眠りに落ちていた。
***
ドンドンと扉を激しくたたく音で目が覚めた。頭を回して窓を見る。まだ暗い。
押し殺した声が聞こえた。
「カル?」
ペトラの声だ。感知で近くを探るが特に変なものは感じない。
のそのそっと起きると入り口まで歩み、差し金を引いて扉をあける。腰に手をあてたペトラがひとり立っていた。しかも外服を着込んでいる。
「何なの? まだ夜明け前じゃない……」
「ムリンガがついた」
「そう、よかったわ」
何も感じなかった。感知を広げる。とたんに遮へいを感じる。それに、ディード? 川のほうだ。
「それで?」
「追いつかれたらしいの」
「ああ、何に?」
「カイルよ、たぶんね……」
カレンはペトラの不安そうな顔を凝視した。
彼女の後ろにメイの姿が現れる。同じように心許ない顔をしている。当然だ。彼女は一度カイルに支配されている。
「大変、ほかの人は?」
「シャルとエムはディードと船に向かった。どうすればいい?」
カイルか。やっかいなことになった。今回は、ザナはいないし、イオナはたぶん日が昇らないとやって来ないだろう。自分たちだけで何とかしなければ。
対抗者なしでカイルの軍を相手にするのは危険だ。港から上陸してきたら、彼らと直接対峙してしまったらきっと防げない。
着替えながら聞く。
「ムリンガはまだ港にいるのね?」
「うん」
「急ぎましょう、ムリンガまで。ここを出ないと」
「車はどうするの?」
「置いていくしかない。あとで何とかする。とにかくすぐに港を出ないと。カイルを近づけてはいけないわ」
全員が港に向かって走り、すぐに川が見下ろせる場所に着いた。すばやく力を使う。すでに近くまでカイルが来ているのがわかる。
「急いで。港から出られなくなるわ」
川港への道を下り始めたところで、下から登ってくる一団が視え立ち止まる。
カレンは下流に目を向けた。真っ暗で何も見えないが、いくつかの集団を感知した。こんなにいただろうか? あの時は三艘に分かれてきた。
今度も同じくらいだとしたら……。
「カル、どこまで来てるの?」
カレンは指さした。
「すぐそこよ。たぶん、二艘か三艘か」
「それじゃあ、もう港から出られないね」
「みんながもうすぐ合流する。ムリンガを出すのは諦めたようね」
あたりを見回した。どうする? 鏡のような水面がかすかに見えてくる。夜明けが近い。さあ、どうしよう。どこかに逃げないと。
先頭はシャーリンだ。その後ろから、ムリンガに乗っていた人たちが続く。
全員が無言でひと所に集まった。誰もひと言も発しなかった。
かすかに船の灯りが見える。最後に現れたエメラインが港のほうを単眼鏡で見ながら言った。
「どうします? カレン、やつらと一戦交えますか?」
カレンは全員の顔をすばやく見回した。フィオナが目隠しされているのが見え驚く。
それに気づいたらしいクリスが説明した。
「支配されるかもしれないから……」
目を隠しても力は使われるのかもしれない。シャーリンかメイが近くにいることがわかりさえすれば。オベイシャがどういう力を発揮するのか実際には何も知らない。
このような場所でも元気なフェリシアの姿がある。リンモアで一緒だったロメルの人たちもいる。
見たことがない女性がいた。たぶん彼女がニコラだろう。確かに陰陽。ここにいる人たちの中で一番力がある。
でも、彼女は戦闘力にはならないし、この集団には対抗力がない。
「これで、カイルの軍隊と戦うのは無理よ。逃げるしかない」
逃げるか、イオナが来るまで耐えるか。どちらかにしないと。
すぐにクリスが同意した。
「そうですね。カイルが軍を率いているなら逃げるのが正しい選択でしょう」
「逃げるってどこに?」
そう問うペトラの顔を見つめていると、突然シアの言葉が蘇った。協約……。
カレンは振り返って、宿の向こうを、白んできた空を背景に黒々と広がる森を指さした。
「森の中に逃げるの?」
ペトラが思い切り顔をしかめた。
「しょうがないの。あそこに行けば何とかなる……」
「どうして何とかなるってわかるの? また、迷子になるんじゃないの?」
「またって、どういうこと?」
「大丈夫よ、シャル。今度は問題ないわ」
すぐにしびれを切らしたらしいシャーリンが即断した。
「わかった。わたしたちはやつらと一戦交える。カレンたちはその間に森に逃げる。いいね?」
「シャルはカイルに……」
「大丈夫。見られないところで何とかすればいいんだよね? もし、わたしが支配されたら誰かに眠らせてもらうよ。クリスがいれば大丈夫」
「でも……」
「いいから、早く行って。ここはわたしたちで何とかする」
シャーリンはこちらを見て大きくうなずいた。
「カイルが狙っているのはわたしじゃなくてカレンなんだから。大丈夫、何とかなるよ」
それから、テキパキと命令を下した。
「ペトラとメイはカレンと一緒に行って。カレンのことを頼むよ。エムは三人を護衛して」
「でも、わたしはこちらで攻撃に加わったほうが……」
「エム、こっちは大丈夫。クリスとディードと、それにニコラがいる。メイの部下たちもいるから」
シャーリンは少し性急なところはあるけれど、きちんと考えて行動している。すっかりロイスの当主らしくなった。
「わかったわ。たぶん、日が昇るころにはイオナが来るはず。それまで持ちこたえて。きっとイオナが何とかしてくれるわ。シャル、彼女を信じて」
「うん、わかった。大丈夫。心配しないで。ほら、早く行って。カルがここにいないほうがわたしたちも戦いやすいからさ」




