196 あの日起こったこと
カレンは無言でイサベラの後ろを歩き、もと来た道をたどって移動し、大広間を過ぎ二階に向かった。彼女は昨日も一緒に過ごした部屋に入るとテラスに出た。
椅子に腰を落としたイサベラは大きく息を吐き出した。
「わたしは、あそこはちょっと苦手。あの日を思い出してしまう……」
カレンはイサベラが話し出すのを辛抱強く待った。
「ケイトさんがイリマーンに来たのは三年近く前のことよ。お父さまがあの人を見て興奮したのを昨日のように覚えている。おまえのお母さんだと言われたわ」
イサベラは少し顔をしかめた。
「でも、父が話している間中、ケイトさんは無言だった。そして、違うと言ったのよ。わたしの母ではないと」
「それにも関わらず、父は絶対間違いないと言い続けた。驚いたわ。よく考えると、あの時、ケイトさんはお母さまがそうだとわかったのね、たぶん」
「それで、どうして眠ったの? ケイトたちに何かしたの?」
こちらをじっと見たイサベラはため息をついた。
「力覚よ。力覚は同性の親でなければできないとされているでしょう。でも、双子ならどちらでもできるはずとアイゼアが言ったのよ。父はケイトさんに頼み込んだ。まあ、それには、あの方も納得したみたい。とにかく、わたしは自分がケタリになるのだと心待ちにしていた。いよいよその時がきたと。正直言って、本当の母親が別にいたと聞かされたときは、まるで実感がわかなかったわ。この方が母親なの……というくらいしか」
イサベラは外に向けていた顔を回してこちらを見た。
「でも、今は違うのよ。あの時には感じなかった、親子のつながりのようなもの、何かわからないけど、お母さまを抱きしめたいという感情が生まれたのよ。不思議よね。ケイトさんのほうがよっぽどわたしの母親らしいはずなのに。お母さまはまったく母親には見えないから……」
少しはにかむような笑いを見せたイサベラは、慌てたように続けた。
「それで、とにかく、力覚するために、ケイトさんがわたしの両手を握って、それから、力が流れ込んできたわ。今日とまったく同じように。ところが、そのあと、ケイトさんの顔に驚きが広がったの。何が起こったのかわからなかった。まるで……力が暴走したようにぐるぐると駆け巡り、体が、胸が、ここが熱くなり、わたしはパニックになった。ケイトさんの手を離そうとしたけど、手が吸い付いたように動かなかった。ケイトさんの連れのふたりが彼女を押さえて手を引き剥がそうとして、グレンもわたしの腕をつかんで引っ張った」
イサベラは顔をしかめた。
「そして、急に力が爆発したようになり全員がなぎ倒されたの。ぐるぐるは治まらず、気がついたら、全員が意識を失っていたらしいの。わたしはその後のことを全然覚えてない」
体を震わせたイサベラは話を続けた。
「目覚めたときにはベッドの中だった。そして、わたし以外のあの場にいた四人が昏睡状態になったと聞かされた。でも、意識を失っているだけではないことが後日わかったの。まるで魂が抜き取られたみたいだって……」
冷気を感じたかのように、また体を震わせた。
「あの四人の肉体はそのまま生き続けている。別に時が止まったわけではない。本当に生きている。普通に歳もとる。肉体を維持する装置がないとたぶん本当に死んでしまう」
イサベラが話し終えるとしばらく静寂が支配した。
「前線が突破された話は聞いた? やつらの動きは活発になったみたい。父が予備の全軍を率いて出かけたから、食い止めるだろうけど、わたしもほかの場所を視察に行くことになった」
「ほかでも壁が突破されたの?」
イサベラは首を横に振った。
「いいえ、ほかはセプテントリアに比べればまだ多少の余力はあるの。五国からも大勢の力軍と正軍が動員されているし。今のところは大丈夫。でも、地下の状態もきちんと調べないと。これから何が起こるかわからないわ」
それから決意に満ちた目を向けてきた。
「わたしは絶対にこの国を、イリマーンを守らなければならないの。それで、何日か留守にするけど、ここでは自由に過ごしていいのよ。館の周りを散策してもいいし、町に出かけてもかまわない」
そこで一息ついたイサベラは話を続けた。
「それでね、帰ってきたら、もう一度お願いしたいの。昨日は体調が優れなかったのかもしれない。わたしはお母さまの娘だから、絶対に成功するはずなのよ。あの部屋で行えば、この前のような惨事が起こらないのもわかったし」
イサベラの目には強い意志が感じられる。自分しかイリマーンを守ることはできないのだという自覚が。
突然イサベラは入り口の脇に控えていたザームを手招きした。
近づいたザームから小さな箱を受け取ったイサベラはテーブルの上に置いて蓋を開いた。
「これは、カムランの証したる符環よ。お母さまに調整してあるわ。やっとできあがったの」
立ち上がって近づいてきたイサベラはこちらに手を伸ばした。
「右手を出してくださる?」
イサベラが取り出した指輪には黒っぽい石がはめられているのが見えた。
そのまま指輪を見つめていると、ひとつため息をついたイサベラが手を伸ばしてカレンの右手をつかんで引き寄せた。彼女の目が手に近づけられる。
「あら? 気がつかなかったけど、この青はオリエノールはイリスの符環かしら」
イサベラが見ている指輪に目を落とすとカレンはうなずいた。
彼女の顔にはわずかに驚きが見えた。
「……つまり、お母さまはオリエノールの皇女なのね?」
「ああ、これ? そんなわけないでしょう。これにはちょっと理由があって……」
イサベラが眉を上げるのが見えた。さて、本当のことを言うしかないか……。
「これは、オリエノールの国子の後見人ということらしいけど……つまり、国子ではないのよ。だから、符環とはあまり関係ないの。ただの飾りよ」
「あ、そう……へえー? それはつまり、後見人は国子の親代わりという意味じゃない。つまり、国子の親だからお母さまも国子よ。そうでしょう?」
「全然違うわ。オリエノールの国子は国子の証しと呼ばれるペンダントを持っている。わたしは持っていないわ」
「そう?」
それっきり、イサベラはしばらく黙った。
「それなら、この符環を左手に移していいかしら。右手にはこれをつけてほしいの」
そう言い、カレンが答える間もなく、イサベラは符環を左手に移し替えた。
そしてオリエノールの指輪があったところにカムランの符環をはめた。いつの間にか色が少し変化して明るい紫色になっていた。
「お母さまのつけているレンダーの数は少ないのね? 四つくらいは、はめるのが普通なのに」
レンダーの指輪は単なる飾りだと思っているが口には出さない。別になくてもいい。腕輪は大きいからあったほうがいいけれど、指輪はカレンにとってはどちらかというと作用者であることを示す意味しかないと思っている。
イサベラはしばらく考え込むような仕草をしていたが、肩をすくめると自分の席に戻りお茶を飲み始めた。
「それがあれば、お母さまを知らない人がいても大丈夫。自由に好きなところに行けるわ」
自由に行ける。それなら……。




