190 ワン・チェトラ
「シャーリンたちは?」
「まだウルブ。でも二日でハルマンにつく」
「早いわね。もっと時間がかかると思っていた」
「空中を進むから……」
「空を? 空艇に乗り換えたの?」
「ムリンガ」
「えっ? 何を言っているの? ムリンガは海艇でしょ……」
「そうでもないみたい」
カレンはシアの顔をまじまじと見た。冗談で言っているのではないらしい。
ムリンガが飛行できる? 海艇なのに? そんなことあるのかしら。まあ、ハルマンが、というならかなり信憑性があるけれど。あそこならそれくらい何でもないような気がしてきた。
でも、ウルブは各国と交易しているし、あそこも優れた技術を売りにしている。ロメルはウルブ屈指の準家だ。特別なものを隠し持っていたとしても不思議はない……。
「でももう、ハルマンにいないし……。ここには来られないわね。いくら何でも」
「それは少し悲観的すぎない?」
そうかもね。いろいろありすぎたから……。
今日も疲れた。もっと話を続けたかったが、シアの顔を眺めているうちにまぶたが重くなってきた。
***
翌朝、別室に案内されると、すでに席に着いているイサベラの背中が見えた。入り口の外にも内側にも衛事が立っている。
急いで指示された隣の席に腰掛ける。目の前の床までの大きな窓から遠く町並みを見下ろせるのに気づき息を呑む。
正面には左右ともずっと向こうまで建物が続いている。それもけっこう高い建造物が多い。遥か先には森の木々が町を守るように取り巻いている。
「この見えているのが全部、ワン・チェトラの町ですか?」
「ええ、そうよ。カムランはワン・チェトラの北側に位置している。つまり国都の一部と言ったほうが正しいわね」
「街に行ってみたいわ……」
思わず心のうちが口に出てしまう。
目の前に並べられた朝食は、簡素な普通のものであることがわかり一安心した。
イサベラが聞いてくる。
「ちゃんと眠れた? 不自由はない?」
カレンは首を横に振った。少し離れたところにイサベラの側事と並んで立っているペイジたちの過保護について意見するのはあとにしよう。
「お母さまはわたしの、つまり、王女の母なのだから、ここでは最上級の待遇を受けられるわ。わたしはとてもうれしいの。これは本心よ」
「でも、わたしはアデルに滞在していたのよ」
「ハルマンだってお母さまをオリエノールから拉致したわけでしょう?」
「それを言うなら、イリマーンだってハルマンから誘拐したじゃない」
「そうね、それは否定できない。イリマーンはハルマンからお母さまを連れ出した。わたしは反対したのだけど、居所がわかったとたんに彼らは出動してしまった。わたしなら、お母さまを迎えにハルマンのアデルを訪問したのに」
そう言うイサベラの真剣な顔を見つめる。これは彼女の本心なのかもしれない。
それに、今朝のイサベラの目つきはしっかりと力強い。
「今日はとてもいい天気よ。さっき外に出てみたんだけど、こんなに空気が澄みきっているのはこの季節にしても珍しいのよ」
そう言われて、視線を上げて窓から空を眺める。
右のほうには梢を濃い黄色や赤に染めた木が林立していて、背後には真っ青な空が広がっている。その色のコントラストがとても美しい。
それに、この陽気は冬の季節を迎えているようには見えない。ここワン・チェトラはアデルより北にあるけれど、大陸の地図を思い浮かべれば、セインのほうがさらに北に位置することがわかる。ほかにも気候がずれている要因があるのかもしれない。
「このあたりに雪は降らないの?」
「もちろん、雪の日がこれから何度もあると思うわ。そうなるとかなり冷え込むのよ、このあたりは」
今はつかの間のここちよい季節ということか。
「ねえ、お母さま。今日はね、公務をお休みにしたのよ。一緒に出かけましょう」
「出かけるってどこへ?」
「街によ。さっき行ってみたいと言っていたでしょう?」
「聞こえていたの。でも、そんなことができるの? あなたは王女なのでしょう?」
イサベラはちょっと顔をしかめた。
「平気よ。街にはよく出かけていたのよ。少なくともしばらく前までは。最近はご無沙汰だけど。まあ、わたしが誰だかなんて町の人は気にしないから大丈夫よ」
「えっ?」
イサベラは両手を広げて窓のほうに向けた。その手にあるレンダーが一斉にキラキラする。
色を持たない光の中でひとつだけ紫色に輝いているのは、イリマーンの皇女であることを示す符環だろうか。
そういえば、彼女が身につけているもので色がはっきりしているのはその紫色の指輪だけのようだ。
「わたしは一緒に外出したいの。……お願い」
別に拒む理由はないが、せっかく出かけるのなら……。
「もしも……出かけられるのなら、街中をゆっくり歩いてみたい。いろいろなお店を訪れて、可能ならば買い物もしたい……。ハルマンで一度だけ街に出かけたのだけれど、何も見る暇がなくて……」
そう言っている間に、これがかなりのわがままであることに思い至り、口にしたのを後悔する。しかし、イサベラには笑顔が戻っていた。
「ええ、もちろんいいわ。何でもお母さまの希望どおりにするわ」
「ありがとう。でも、本当にいいの?」
「問題ないわ。それじゃあ、着替えてくるわ。ペイジ、急いでお母さまの外服を用意してもらえる?」
「かしこまりました」
朝食を終わらせて部屋に帰ると、先に戻ったペイジとエドナがすでに待ち構えていた。
用意されていたのは、彩度をわずかに抑えた緑に薄い橙と黄色で絣が入った裾の長い服だった。これを着て出かけるの? どう見てもドレスだわね。
ペイジの顔をチラッと見る。王女に同行するのだし、これは避けて通れない。
大きなため息が漏れてしまう。
近寄って確かめる。内服同様に柔らかく肌触りがここちいい。たぶん同じ素材だ。
とても美しいけれど、これで外出するとかなり目立つのではなかろうか。
内服と同じ素材の下衣を身につけ外服も着込むと、今度はエドナが髪を整え始めた。
「お召し物に合わせました」
そう言いながらたくさんの飾りがついたスライダをあしらうのを見届けるなりすばやく立ち上がる。
これ以上何かされないうちに外履きに変えて扉に向かう。
部屋から出るとすでにイサベラが待っていた。彼女もドレスを着用していることに少しホッとする。
わずかに光が入った白を基調とした格好だった。イサベラは色使いが嫌いなのかしら。
その向こうには、衛事だと思われる黒い制服の人たちのほかに、初めて見る灰色の服装の人たちが並んでいる。彼らからは強い作用力を感じる。きっとこの人たちがケタリシャに違いない。ハルマンではないはずだからローエンの者たちだろう。
自分だけ色物の服を着ているのが気になってくる。このような対照的な格好の集団で繰り出したらとても目立つのではないだろうか。
不安そうに後ろのほうの人たちを眺めていると、イサベラがくるっと体を回した。彼女の髪が布ではなくスライダでまとめられているのに気づく。
エドナが用意したような金属製ではない。どちらかというと、ローラの店で買ったもののひとつに似ている。白っぽい木の肌はたぶん同じ素材のように思えてきた。
体を戻したイサベラが言う。
「大丈夫よ。この人たちとぞろぞろ歩くわけではないから……。ふたりだけよ。彼らは少し離れているから問題ないわ。もし、気づかれることを心配しているのなら」
「でも、わたしのこの服は目立つのじゃないかしら」
「それはないわ。少なくともお母さまのほうは問題ない。まあ、行けばわかるから」
イサベラは少しいたずらっぽく笑った。




