187 ここはどこかしら
誰かの名前を呼ぶ声がした。しつこく何度も繰り返される。
声は小さいけれどやたらうるさい。耳元でささやかれているようだ。
そこで気づいた。もしかして呼ばれているのはわたし?
「だれ?」
「やっと反応が返ってきたな……」
「わたしのこと?」
「ほかに誰がいる? この世界でお互い認知できるのはここにいる存在だけだろうに」
「それで、あなたはどなたですか?」
「覚えてないのかね?」
「いいえ、全然」
そういえば、これまで何度もわたしを悩ませてきた……。
「あなたはわたしの記憶なの?」
「そうでもあり、違うとも言える」
まったくわからない。
「まあよい。近いうちに会えるだろう。といっても今と状況は変わらないがね」
「教えてください。わたしはどうしてここにいるのですか?」
「われわれはこの世界を共有している」
「共有? 意識のことですか?」
「そうとも言えるし、違うときもある」
「さっぱりわからないわ」
突然、記憶がせり上がってきた。
「あなたに会ったことがある……。いや、正確には会おうとしたことがある」
「おお、いい調子だ。だいぶ復帰しているようだな」
「復帰? どういう……」
「また会おう」
「ちょ、ちょっと待ってください」
走り出す。ああ、やはり、こうしたことがある。そして……。
黒い影の動きは速く、全力を出しても追いつけない。むだと知り倒れないうちに膝をつく。
別の思いが形成される。今日は転ばなかったと。どういうこと?
突然、耳をくすぐるような別の音が忍び込んできた。
それが話し声だとわかるまで若干の間があった。次の瞬間、スーッと意識が引き戻されるのを感じ、急に周りの声がはっきりと聞こえてきた。
「ねえ、どうなの? 意識が戻らないじゃない。これで本当に大丈夫なの?」
この声、誰だっけ?
「どこにも異常はないそうです。もう目覚めていいはずなのですが……」
「彼ら、やり過ぎ。まったくもう……」
わたしはどこにいるのかしら? 話をしているのは誰なの?
背中に当たる感触はとても柔らかい。まるでふかふかのベッドに寝ているかのようだ。
少し記憶が戻ってきた。
アデルの別棟で、あの部屋に大勢の人たちがなだれ込んできて……。それから……そうだ、頭から何かをかぶせられて、感知力を使おうとしたら急に激痛を胸に感じて、羽交い締めにあったように息ができずに苦しくなった……。
そこまでは覚えているけれど、その先は……たぶん意識が飛んでいる。
そして、この感触からすると今はベッドに寝かせられ、周囲に何人かいる気配がして、わたしの目覚めが悪いことについて話している。
急に誰かの息づかいをすぐ近くに感じた。
「ねえ、ザーム、本当にこの人なの? 想像していたのと違うわ。とても……どう言えばいいのかしら? ……年下に見える」
「それは確認いたしました。王女さまも結果をご覧いただいたと思いますが」
王女という言葉が聞こえた。王子とか王女は王の後継者にのみ与えられる称号だと教わったのを思い出す。それなら……この会話の主は主家の皇女ということだろうか?
ハルマンの主家は何という地氏だっけ? すぐに記憶が開かれた。オハン。つまり、先ほどの声の主はオハンの姫なのかしら?
ここで感知力を使うと、また失神してしまうのだろうか? 何か特別な手立てが講じられているのかもしれない、作用を封じ込めるような技術が……。ハルマンにはわたしの知らない手技がいっぱいあるようだし。
これ以上考えても、もう何の手がかりもなかった。しょうがないので、カレンはゆっくりと目を開いた。
すぐ目の前にこちらを見る瞳があり、びっくりして何度も瞬きをする。ぼやけていた顔にピントが合うなり驚きで声が出てしまう。
「シャルなの? どうしてここに……」
こちらを見下ろしていた顔がさっと遠ざかった。それを追うように頭を傾ける。
体をまっすぐにしてこちらを見る目は焦点が合っていないように見える。ちょっとした戸惑いすら感じられた。
違う。シャーリンではない。こちらに向けられた目はシャーリンと同じ紫。でも、その左の肩から滑り落ちている髪は明るい栗色。どうして、彼女をシャーリンだと思ったのだろう? よく見れば、目と顔の輪郭以外は見間違えるような共通点がない。
ようやく声が出た。
「どなたですか?」
目の前の顔の眉間に大きなしわが寄った。こちらの質問には答えず視界の外にいるらしい人に向かって話しかけた。
「ねえ、これでもとに戻っているの?」
「問題ないはずです」
別の声が遠くから聞こえる。
「そう」
声の主はこちらに向き直ると、その顔が近づいてくる。しばらく黙ったまま、こちらの全身に目を走らせるのが見えた。
彼女の顔から目を逸らし、周囲を観察する。
確かにベッドの上に横たわっていた。奥行きのある部屋の白っぽい壁には窓が並んでいるが外の景色までは見えない。
視線を戻す。彼女が何度か大きく息をつくのが見えた。しばらく目を閉じていたかと思うとそのままの状態で口を開いた。そこから出た言葉は少し上ずっていた。
「わたしはイサベラ。……えーと……お母さま?」
その言葉が頭の中に浸透するまでに時間を要した。今日はいやに思考が鈍い。この頭はまだ使い物になっていない。
お母さま? 何を言っているのかしら、この人は。
冗談なのかまじめなのかも、どう答えていいのかもわからない。それに、イサベラといった? どこかでこの字を聞いたかしら?
目の前の女性の顔に意識を集中する。もちろん、何の記憶も浮かび上がってこなかった。
イサベラは目を開くと突然その口から堰を切ったように言葉があふれ出てきた。
「驚いた? とてもうれしいわ。とうとう会えた。この日を何年も待ったのよ。お母さまもここで娘に会うことになるとは思っていなかったでしょう? わたしはイサベラよ。あっ、それはさっき言ったわね。そうそう、まずは、お茶にしましょう。あっ、具合が悪くないなら……だけど」
カレンは何が何だかわからず黙ったまま、女の子がしゃべるのをただ聞くだけで、口もきけずにいた。その間に、さらに思考能力が戻ってきた。とにかく、寝てはいられない。
体を起こそうとすると、誰かが近づいてきた。その腕が背中に回され手伝ってくれる。ベッドの上で向きを変えて足を横に下ろす。両手をベッドについて見下ろせば、自分の服はあの部屋で着ていた内服のまま。
考えを戻す。わたしの娘ですって? この子が? 目の前の女の子のあちこちを眺め手がかりを求める。
ほかにも娘がいたの? それはあり得ないと考えたとたん、たちまち自信が崩れていくのがわかった。
わたしの記憶が及ばないところでわたしは何をしていたのだろう?
突然、体に悪寒が走った。両腕で自分の体を抱きしめて震えを抑える。別に内服が薄すぎるせいではなかった。
「ペイジ、羽織を持ってきて。震えているわ。それから、温かいお茶の用意をして」
イサベラの頭が左、右と動いた。
「ザーム、いる? お父さまに知らせておいてくれる? きっとまだ戻ることはできないと思うけど」
イサベラはテキパキと命令した。
お父さま……。つまり、この子の父親。




