179 追行
シャーリンはひとり前甲板のいつもの場所に腰掛けていた。
日が高くなると少しだけ太陽の温もりを感じたが、それもつかの間、空を見渡せば再び灰色の雲に覆われつつあった。
あれはまた雪雲だろうか。すぐに日が陰り寒くなりそうだ。
いつの間にかリンが現れて近くに巻かれたロープの上で寝ていた。
ウィルに預けてこようかと出発前には考えていたが、リンは姿をくらましたままだった。その時にはもうムリンガに乗り込んでいたらしい。
この船にはメイがいるし、いずれ薬が必要になることを考えれば、ロイスに取り残されなくてよかったのだと思う。
しばらく前から行動を共にしていたロメルの衛事たちは、ひとりを残してほかの全員が川艇で一足早く戻っていった。
ペトラが言うには、メイの筆頭衛事たるスタンが作る料理は絶品らしい。残った彼の依頼で食料もたっぷりと積み込まれた。
フェリシアはクリスに操船について一とおり伝授するとすぐに、フィオナと一緒に船倉に閉じこもって糸作りに取りかかった。
生地にするための機械と材料はドニに貸してもらい、フィオナが船室に持ち込んで準備している。この上ロメルでハルマン向けの荷物を積み込み人も増えたら、ムリンガがいくら大きな海艇だとしても、かなり窮屈になりそうだ。
昨夜から繰り返し考えてしまう。カレンはどうして何も言わずにイオナと一緒に行ってしまったのだろうかと。
ロイスを交戦の場にしたくないというのは、もちろんわかっている。カレンならそう考えそうなことくらい。でも、ロイスには自分も含めて力軍に所属する作用者は何人もいたし、前と違って今は駐留している正軍もそれなりの規模だ。
戦闘になった場合でも、そう簡単に上陸を許したりはしなかったと思う。もちろん、あのカイルに取り付かれないようにだけは注意しなければならない。何度か受けた強制力のことを考えると少しだけ緊張する。あれはどうにも後味の悪い経験だ。
それにイオナだって強制者だ。進んで近づきたい相手ではない。カレンは何とも思わないのだろうか。わたしには理解できないことが多すぎるけれど、彼女ならイオナとも対等に話ができていそうな気はする。
頭を何度も振った。いくら考えてもわからない。
とにかく、カレンの向かった先にこっちも行くこと以外に今は何も思いつかない。
まだメダンは遠いなと考えていると後ろからペトラの声が聞こえた。
「なにを悩んでるの?」
振り向いて答える。
「うーん、いろいろとね」
ペトラは手を後ろに組んだまま壁に寄りかかると空を見上げた。
「カルなら心配はいらないと思うよ。自分から一緒に行くことを選択したんだから」
「そう思うかい? 単に騙されてるだけかもしれないじゃないか。カレンは……あまり慣れてないからさ、その、人との付き合い方に」
ペトラからクスッと笑いが漏れた。
「うーん……。それは一理あるかもね。カルは誰でもすぐに信用しちゃうからね」
「そう思うだろ? それに、ハルマンに連れていかれるんだよ。ペトはハルマンのことをどこまで知ってるのさ?」
ペトラは眉をぐいっと動かして不満そうな顔をした。
「ねえ、シャル。ウルブに行ったのが、わたしにとって初めての国外の旅なの。オリエノールの中でさえあまり出かけたことがないのに、そんなのわかるわけないじゃない」
「それは知ってるよ。そうじゃなくて、ハルマンはどういう国なのかってことだよ」
ペトラはこちらを見て考えるそぶりを見せた。
「……他国事情の書は読んだことがあるよ。だから、西六国の成り立ちくらいはちゃんと知ってる、これでも」
「昔のことはこの際どうでもいいよ。今のハルマンはどういう国かだよ。たとえば、主家の名前とか、準家はどこが……」
ペトラは喉を詰まらせたような音を出すと、こちらを見て手をパタパタと振った。
「しばらく学校に行ってないから……」
「学校というより、修練で叩き込まれるだろ……」
ペトラは目をそらすとぼそっと口にした。
「それは……なるべく避けていた……」
「……だと思ったよ。ペトは興味のあることにしか目を向けないから……」
「シャルはまじめに受けたんでしょ。教えてよ」
そう言うとペトラは無理やり隣に座ろうとした。しかたなく少しだけ腰をずらしてすき間を作る。
期待に満ちた目でこちらを見る彼女に向かってため息をつく。
「ハルマンはイリマーンを除けば、現在の西六国の中で一番力を持ってる」
「うん、それくらいは知ってる」
「ハルマンの東には大きな河を挟んでローエンがある。国境でもあるクンネ河は幅が三千メトレもあるんだよ。想像できないな、向こう岸が見えない川なんて。それで、河の上流、イリマーンとの国境の近くにある国都はワン・オーレン。ハルマンの今の王はオハンのロザリー皇女」
「えーと、ザナが確か、イオナはアデルの者だと言っていた。そうすると、アデルは準家なのね?」
「うん、アデルはオハンに次ぐ力を持つと言われている。当主は……ロバート皇子」
「なるほど」
「ハルマンは電子機械とか作用力を扱う装置などで突出した国だったらしいよ。今では、そのほとんどはウルブも生産してるし、ウルブは何でも改良するのがすごく得意なわけだけど。ウルブで作られる製品のもとになるものを作り出したのは、だいたいがハルマンとローエンだという話だよ」
「へーえ、そうなんだ」
「ほら、力軍の船や車もそうだけど通信塔を使った伝送網とか。そうだ、作用力を鍵として用いる技術もそうらしいよ」
「そういえば、国子の証しとか符環も最初は西の国で使われていたものだよね」
「そう。符丁も同じだよ」
「つまり、オリエノールはほとんど外国の技術に頼っているわけね……複雑」
ペトラは長いため息をついた。
「うーん、そういうことになる。よく考えるとオリエノールの得意分野はあまり思いつかないね。農業はそこそこ、運河とか水路網、港の設備には少しは自信があると思うけどね」
ペトラがつぶやくように言った。
「ローエンはザナの母国なんだよね」
「そうなの? どうしてインペカールの力軍にいるんだろう?」
「たぶん、いろいろと事情があるんだと思う……」
「事情かー。人の生い立ちなんて単純じゃないよね……。そういえば、ペトラは医術者になるのかい?」
「えっ、どうしてそんなこと聞くの?」
「いま使われているほとんどの医療用装置の原型を作ったのはローエンだよ。一番すごいのは診断器の技術。あれがあるおかげで医療が格段に充実した。それに薬品の開発なんかは今でもあそこが一番らしい」
「ということは、医術の修行をするにはローエンがいいの?」
「さあね。そこまではわからないよ」
「それより、ペトはやはりミンに戻ったほうがいいんじゃないの? セインから空艇で……」
「今さら何なの? そんなことを言ったら、シャルだって当主の件があるでしょ。シャルと同じで、わたしもこっちのほうが大事なの。それに、見舞いに行っても話ができるわけじゃない」
「うん、そうか……」
突然、誰かが叫ぶ声を聞いたと思ったら、今度は頭上で窓が開く音がした。
「あそこだ。何かある」
見上げると、エメラインが身を乗り出して手で何かを示していた。
すぐに船が減速する。シャーリンとペトラは急いで階段を駆け上がり操船室に入った。
「エム、なにを見つけたの?」
「たぶん、何かの残骸でしょう。どうやら上流から流れてきたようです」
ギクッとなる。
「……船かな?」
「それはわかりません」
どうしても悪いほうに考えてしまう。
「この先で戦闘があったのかな?」
「そうかもしれませんし、違うかもしれません。これだけでは何とも……」
「そうだよね。とりあえず急ごう」
「追いつくのは無理でしょうね。すでに半日遅れですし」




