167 アデル
空艇がかなり高いところを飛んでいるのは速度を上げるためらしい。それでも、オリエノールから丸一日かかっている。
日が落ちてからすでに二、三時間になる。窓からは何も見えないが、時折遥か下で何かがキラキラと光るのは、海に星の光が反射しているからだろうか。
そういえばそろそろ満月のはず。ここは天気も悪くなさそうだし、月が出ているに違いない。そうでないと、このように光り輝く美しい景色は見られない。
ウルブを出発して海領に出たのは昼前だから、もうそろそろ着くのではないか。そうカレンが考えていると、船がゆっくりと旋回するのを感じた。
窓の外を見ると瞬く光が一面に広がっていた。すぐに船が水平に戻ったのを体で感じると、あたりに飛び交う会話に耳を傾ける。
どうやら、もうすぐ高度を下げ陸に入るらしい。覚えている地図では、ハルマンの国都は内陸のかなり奥に位置している。アデルの地は国都にあるのかしら。
そう考えていると、誰かの「陸が見えた」と言う声が聞こえた。
頬を窓にぴったりとつけ進行方向に目を凝らす。まもなく橙色の光がポツポツと見えたかと思うと、空艇が少し高度を下げた。
すぐに、いくつかのボーッとした橙色のかたまりだった光が、多くの白や橙、そして黄色と緑の光の群れに変わった。
その暖かみのある光景を見つめているうちに、空艇は光の絨毯の上に差し掛かった。見下ろせば、海港とそれにつながる大きな町並みが広がっていた。
右のほうにはスパッと切られたような光のない黒々とした帯が見える。
最初は道かと思ったが、所々に灯りをともした動くものを見つけ、あれが川であることを悟った。それも反対側がはっきりしないほど広いようだ。
このような大河を見るのはもちろん初めて。オリエノールはもとよりウルブの川とも比較にならないほど大きい。
まるで海が陸に割って入ったかのよう。
海港の町を離れると再び眼下は暗くなった。それからは、幾度となく黒々とした森と山が交互に現れ、その上をひたすら飛び続ける。
しばらくすると、いきなり、前方に薄明るい光の帯が出現した。一瞬、前線の壁を思い出しビクッとしてしまう。
すぐに気づいた。あれも町の灯り。
最初はぼんやりとした光だったのが、しだいに大きくそして明るくなってきた。今までに越えてきた町とは比べものにならないほど、まばゆい光が見えてきたかと思うと、空艇はその上を旋回して川から離れるように斜めに進む。
窓に額をくっつけて見下ろせば、大きな川港にたくさんの海艇と輸送船、そして黄色い光をまとった多くの建物が流れていく。すごい眺めだった。
遅い時間にもかかわらず、ここだけ別世界のように見える。今までこのような夜の町を空から眺めたことはなかったし、これほど幻想的な景色は覚えがない。
川港から離れても町並みは続き、やがて、小高い森の上を飛び越えたところで、空艇は急に速度を落として高度も下げた。
すぐに、正面にいくつかの建物が見えてきたかと思うと、ひときわ大きな建物に向かって船は降下した。
深夜にもかかわらず大勢の人たちが立っていた。
クレアに促されるままにカレンはイオナに続いて空艇を降りる。上から見えた大きな建物は地上で見ると、全体が橙色で少し赤みがかった光に覆われていた。
とても大きい。イオナの家族とアデルに属する人たちは全員がここに住んでいるのかもしれない。
いつの間にか出迎えの人々の前に来ていた。
イオナが挨拶をしているのが聞こえ、その内容に意識を集中する。耳にした会話から、イオナと順に抱擁を交わしているのは、イオナの両親と兄弟らしい。
全員がにこやかにイオナと話しているが、その間もこちらをチラチラと見て品定めされているのがわかる。
やがて、年配の男女がこちらに進み出ると、両者の間に立つイオナに話しかけられた。
「カレン、わたしの父ロバートと母オリビアよ」
「お初にお目にかかります」
丁寧に挨拶する。
ふたりからも同じような挨拶を受けた。
イオナは少しだけ振り向くと手をぞんざいに振った。
「それから、あっちが兄のコリンとエミール」
すかさず、兄たちから同じ主張が聞こえた。
「そんないいかげんな紹介の仕方があるかい、オネ。酷いじゃないか……」
カレンが口を開くより前に、オリビアが話しかけてきた。
「カレンさん、大変申し訳ありませんでした。きっとイオナは強引にあなたを連れてきたに違いないわ。他国の皇女をかどわかすなど、断じて許されないことです。いろいろ不愉快な思いもしたでしょう。わたしたちから深くお詫びいたします。娘はこうと決めたらがむしゃらに押し通す癖があって。それはたぶん、この男たちのせいなのだけど」
ロバートはすまなそうな顔を見せたが何も反論はしなかった。
思いがけない言葉が発せられた。確かに、ロイスから半ば強制的に連れてこられたけれど、自ら選択したことでもある。
それに不愉快な目にあったのはシャーリンであってわたしではない。
イオナがこちらを向いた。
「さっそくで悪いけど、見てもらいたいものがあるの」
「はい」
「オネ、もう真夜中を過ぎてるじゃないか。カレンも疲れているだろうし、明日にしたら?」
イオナはハッとしたように振り向いた。
「そうね、コリン」
彼女はこちらを向いて頭を下げた。
「急かして申し訳なかった。明日あらためて……」
「イオナ、あなたには急ぐ理由があるように見えます。わたしは別にかまいません。案内してくださいますか?」
「そう? カレンがいいと言うなら……」
イオナは振り返って兄たちを確認したが、ふたりからはもう反論はなかった。
知らない間にクレアの隣に立っていたテリーにイオナは声をかけた。
「荷物を全部中に運んでもらえる? あとはいつもどおりに」
テリーはすぐに命令を実行しに船に戻っていった。
振り返ると、船の周りではすでに荷下ろしが始まっていた。そこに積み上げられた荷物は相当な量に見えた。
あんなに大量の荷物が積み込まれていたのか。どこにそんなスペースがあったのだろう? まったく気づかなかった。
イオナとクレアも船のほうを見たが、すぐにカレンの肩に手をかけた。
「さあ、こっちよ、カレン」
イオナがきびすを返して歩き出すと、カレンは皆と並んで続いた。
正面の大きな扉を通り抜けて中に入る。多くの柱に支えられた高い天井があるホールに驚き見とれてしまう。
そのホールを横切りしばらく歩くと細い廊下に突き当たる。そこを曲がったイオナはある部屋の前まで来ると扉を押しあけて中に入った。
イオナが横に動いたので中が見えるようになったが、がらんとした部屋だ。背後からするりと部屋に入ったエミールが灯りをともすと、ぼんやりとした光が明るさを増し、部屋の奥まで照らし出された。
真正面にベッドが置かれている。明らかに医療用だ。ベッド全体が透明な容器に覆われており、周辺には様々な機器が所狭しと並べられている。
息を押し殺してベッドに向かって歩む。人が横たわっているのが見えた。中が確認できる距離まで近づくと、それが子どもであることがわかる。いや、そろそろ大人になる頃合いだろうか。男の子だった。
身動きひとつしないし、顔色がいいようにはとても見えない。ごく薄い上掛けに覆われているが、そのシルエットはやけに細い。両腕にはいくつかの管とか計器のようなものが接続されている。
一目で理解した。この子は作用者だが深い眠りに落ちている。まるで時に忘れられたかのように。
ここに呼ばれたのだから使っても問題ないだろう。感知力を伸ばして探る。レセシグと、これは……ジャセシグに違いない。それにしても……。
じっと見つめているとたまに胸が動いているのを確認できた。
すでにわかっていた。どうしてイオナに連れてこられたかが。
ゆっくり振り返ると、全員の目が自分に注がれていた。その視線には、期待と諦めが混在している。
イオナに問いかける。
「いつから、この状態なのですか?」
「そろそろ四年になる」
「……自分でこうしたのですか?」
「誰も見てないんだ。発見した時には、すでにノアはこの状態だった……」
「あまり状態がいいようには見えないわ……かなり衰弱している」
「そう、点滴がうまくいかない。医術者が言うには体内への取り入れがほんのわずかしかできないらしい。それはきっと代謝が違うためだけど」
それなら確かにこのような状態になりそうだ。
「それで、どうにかなる?」
カレンは自分の持っている乏しい知識をかき集めた。
「わたしも第五作用のことをきちんと理解しているわけではないのですが、このモニターに示されている値からは、心拍は通常の二十分の一といったところですね」
ソラはどう言っていたっけ? 思い出そうと必死になる。
ずっとこの状態ならば、四年間は本人にとっての二ヶ月以上になる。時間経過が速すぎる。どうして、このような中途半端な状態になったのだろうか。
それに、自分ではもとに戻れないということか。このままだと……。
もう一度考えを整理する。時縮も自分にしか作用できないとすると、これはノアが自分で発動させたものとなる。その時いつやめるかを決めないまま発動させてしまったのだろうか。
わからない。自分ではどうやって抜け出しているのだろう?
一番はっきりしているのはたぶん、川に落ちたときだ。どんなやり方で戻ったのだろう。発動した作用の期限が最初から決まっているとは思えない。
何かのきっかけで終わるのかしら。……わたしにはわからない。




