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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第2部 第1章

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164 西六国

 窓枠に頭をもたれかけたまま、カレンは外に視線をさまよわせていた。

 こうしていると、ひんやりとした感触になぜか落ち着く。


 船外は闇夜に閉ざされているが、時折、窓に当たって流れ落ちる雪が室内灯の光を映して青白く光る。どこを飛行しているのかまったくわからないが、クレアの説明によれば、オリエノールとウルブの境である尾根に沿って飛んでいるはず。


 イオナが言ったように、川を航行する船とは違って、空艇が地面すれすれを飛べば、発見されることもなく移動できるようだ。この雪の中で白い船は目立たないだろうし、クレアのような完璧な遮へい者がいれば何ら心配ないのは理解できる。


 焦点の合っていない目を窓に向けたまま思考を巡らすが、これまでの経緯を何度も頭の中でたどっているだけなのはわかっていた。


 この先どうなるのだろうか。イオナは何をさせようとわたしを連れ出したのかしら? それに、あのカイルについては、目的がまるでわからないまま。

 たとえわたしがケタリなのだとしても、それだけで誘拐する理由にはならない……。


 とにかく、イオナはシャーリンを一度支配下に置いている。

 あれはカイルによって実行されたが、それでも、心に残る傷の原因を作り出したのが彼女であるのを忘れてはいけない。

 わたし自身はもうイオナに対するわだかまりを持ってはいないけれど、シャーリンにとっては簡単に許せないはず。




 突然、誰かが呼んでいるのに気づき、思考のループから抜け出そうと必死にあがいた。

 ようやく体が言うことを聞くようになり、ゆっくりと向きを変える。目の焦点が合うと、当惑顔のイオナが立っていた。


 すぐに耳栓をスポッと抜いたかのように周囲の音が戻ってくる。椅子から伝わる船の振動とかすかな風切り音、そして、後ろから聞こえる乗員たちのボソボソした話し声。


「カレン、具合が悪いの?」

「あっ……いいえ。何ともありません。ちょっと考え事をしていただけです」


 イオナに無防備なところを見られてしまい、少し身を引き姿勢を正した。


「……ふーん、それならいいけど」


 そろそろ真夜中だろうか。

 窓にちらっと目を向けると、一瞬、すぐ近くに木々の揺れが見えた。それに、もう雪は降っていなかった。地面すれすれを飛んでいるようだから、速度はかなり抑えているようだが、それでもずいぶん南下したに違いない。


 再びイオナの顔を見上げる。


「それで、何でしょうか?」


 イオナは向かいの席に腰を降ろすとまっすぐにこちらを見た。


「カレンはハルマンについてはどこまで知っているの?」




 自分の思考をいったん保留にして、イオナの暗褐色の目を見つめた。


 ハルマン、ハルマン……。イオナの、そしておそらく、この空艇に乗っている人たちの故国。どのようなところなのだろう? 西の六王国と呼ばれている国々のことは地理的な位置関係くらいしか知らない。


 このような事態になるのだったら、もっと世界のいろいろな情勢について学んでおくべきだった。ゼロから出発したとしても、そのくらいの時間は十分あったのに。


「わたしは……この一年、言葉を覚え生活のすべを学び、人との接し方や会話について実践することで過ぎ去ってしまいました。その中にオリエノール以外の国の事情は入っていません」


 そう言いながらも、自然とため息が漏れてしまった。

 イオナがおもしろがっているように見えるのは気のせいかしら。


「ああ、なるほど」


 これはたぶん、西の国々についてイオナの知識を吸い上げるいい機会だわ。かすかな笑みを浮かべているイオナの目を捉える。


「教えてください、ハルマンについて。いや、それだけでなく、西の六国について全部。基本的なことすらわからないので……恥ずかしいですが」




 クレアが飲み物を持って近づいてくる。差し出されたカップを受け取り軽く頭を下げる。


「知らないのは別に悪いことではないよ。ことにカレンのような特別な場合には。不確かな知識をもとに間違った道に突き進むこともあるからね。……あいつのように。とにかく、そうなるよりはよっぽどましでしょ」


 カップを両手で包み込むと指先がじんわりと温かくなる。手を持ち上げてお茶を一口飲んでみた。びっくりするほど甘い。思わず顔を上げると、今度はふたりそろってこちらを興味深そうに見つめていた。


「甘すぎる? こっちではあまり見かけないけど、西ではこれが普通に飲まれるものなのよ。わたしにはむしろこっちのお茶のほうが味気なく感じてしまう」

「何が入っているのですか? お砂糖とは少し違うような気がするのですが」


 いつものかすかにザラッとした感じがない。もう一口飲んで舌の上でそのなめらかな感触を味わう。


「ほーっ、カレンはまだ舌の記憶は失っていないようで少し安心したよ」




 それは違う。失っていないのではなく、これが今までの経験にはないと思っているだけ。少なくとも、ロイスはもとよりウルブを旅していた間にも味わったことがない。もちろん記憶にないのは当たり前。


「……なハチミツ。たぶん、こっちでも売られているとは思うけど」


 うっかり最初のほうは聞き逃したが、使われている甘味(かんみ)らしきものの名前はわかった。


「そうですか。知りませんでした。何というかとても繊細な甘さです」


 まあ、買い物をしたことは一回しかないし、それも食料品店ではなかった。

 今度、食べ物を売っている店に行かなければ。頭の中の、これからすることリストに、ハチミツの購入を付け加えておく。




「さて、本題に戻るか……。カレンが何も知らないとなると、どこから始めようかねえ……」


 目を閉じると西国の地図を思い浮かべる。この記憶はまだ消えることもなく、地形の細部までくっきりと見えた。目をあけて顔をイオナに戻す。


「以前に地図で見たときに思ったのですが、イリマーンの領土はとても広大なのに、それ以外の五つの国は小さいですよね?」

「ほーお、なるほど……確かに。おもしろいところに気づいてるね。でも、それにはちゃんとした理由があるんだよ」


 イオナは椅子に深く座り直すと話し始めた。


「そもそも、インペカールの西部すらまだ辺境地帯だったころ、メリデマールからの移住者たちによって、そのさらに向こうにひとつの国が造られた……」


 唐突に始まった昔話にこくんと首を動かす。やはり、西の国家はメリデマールが元となっているらしい。きっと、何百年も昔のことに違いない。いや、そうではないかも……。


「それは、大戦争より前の話ですか?」

「えっ? いいや、もっとあとのことだけど……。大戦争前はイスという……」




 イス? すばやく記憶を探ったが初めて耳にする名だ。目を閉じシャーリンの城の書棚を思い浮かべる。隅っこに置かれていた薄っぺらいガムリア史、絶対にあれは読んだことがあるはず……。ロイスにあるそれほど多くない本のリストはちゃんと頭に入っている。


 けれども、問題の本の中身がまったく思い出せないことに気づき、すーっと血の気が引くのを感じる。手に震えが走り、慌ててカップを膝の上に降ろす。


 あれを読んだのはいつだっけ? 少なくとも、オリエノールがメリデマールからの移住者によって建国されたのは知っている。……ということは、それは別の本で読んだのだろうか。それとも、誰かに教えてもらった知識なのか……。




「……カレン、カレン、聞いてる?」


 執拗な声に慌てて顔を上げる。イオナが困惑したような表情を見せていた。ああ、またやってしまった……。


「す、すみません……。また、ちょっと記憶を探っていて……」


 イオナが肩をすくめるのが見えた。


「あのー、先ほどのイスというのがわからないのですが……」


 今度はため息が聞こえてきた。


「申し訳ありません。最近ほかの人の話を聞きながら、自分の記憶を確認する癖がついてしまって……」

「カレンは常に自分の記憶と戦っているんだね。自分の常識は他人の常識と考えてはいけない……か」


 いつの間にかクレアが隣に座っていることに気づいた。その手がすっと伸びてきて膝の上の左腕に置かれる。


「カレン、落ち着いて。いちいち謝ることはない。だいたいにおいてイオナはせっかちだから。それに、いつも気を張っていると疲れる」


 そう言われて、カレンは体が(こわ)ばっていることに気づいた。何度か深呼吸を繰り返すと、クレアが大きくうなずく。




「イオナ、続きをお願いします」

「わかった。じゃあ、話をもっと大昔まで巻き戻すことにしよう……。おそらく千年くらい前と言われているが、わたしたちの住む大陸の南端にイスという国が作用者によって造られた。今年は998年だ。つまり、わたしたちはイスの暦をそのまま使っていることになる」


 そこで、イオナはぱっと手を振った。


「ああ、作用者については聞くなよ? いつどうして誕生したのか、今でも正確にはわかってないのだから」


 カレンは開きかけた口を閉じた。もう一度、深呼吸しイオナの話に集中する。


「……イスの人たち、作用者もそれ以外の人たちも徐々に大陸中に広がっていき、やがて、マゴリアとイリオンというふたつの国家ができた。それが七〇〇年前。この二国が大きくなるにつれ、ほかの国、とりわけイスの力は弱まり、二大強国によってガムリアが支配されることとなる」


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