159 選択のとき
アリッサはほどなく、裾が長くて暖かそうな羽織を持って現れた。
カレンはお礼を言いながらアリッサの青みがかった灰色の髪を見つめる。
ここに突然やって来て、アリッサとフェリシアにはたくさん迷惑をかけた。生活の基本を一から教わったはず。でも、目の前のアリッサを見ても、何をどうしてもらったのか、なかなか思い浮かんでこない。
確かこの前、シャーリンと話した時には、いろいろ思い出したような気がする。具合が悪くて寝込んだ話も聞かされた。
突然、顔からさっと血の気が引いていくのがわかった。さらに、体が震えてくるのが抑えられない。
心配そうな声が耳に届いた。
「どうかされましたか?」
「アリッサ……」
声がかすれたのがわかり、一度深呼吸する。落ち着け、落ち着け。
「ねえ、アリッサ、変な質問だと思うけれど……わたしがここに来てから、病気になったのはいつだっけ?」
アリッサの顔がますます心配そうになった。
「病気ですか? はい、こちらでカレンさまが暮らすようになってから、半月ちょっとくらいでしたか。それから、春の終わりころにも。あ、その前に……十二の月初めにもしばらく寝込まれたかと思います」
胸の動悸が激しくなってきた。必死に記憶を探る。十二の月? 最初のほうはともかく、二回目のことも思い出せない。
突然、記憶がどんどん失われていく恐怖に取り付かれ、背中を凍えるような風がさっと吹き抜けていった。足に力が入らない。なぜか体がふわっとする。それなのに心臓が飛び出しそうなほどバクバクしていた。
次の瞬間、誰かに引っ張られたように勝手に手が伸び、アリッサに抱きついているのを意識した。
「カレンさま?」
戸惑ったような声が耳元で震える。
慌ててアリッサを抱きしめていた腕を解き体を離す。何とか倒れないように足に力を入れて踏ん張った。
顔を上げると、アリッサが羽織を遠ざけるように腕を広げたまま固まっていることに気づいた。その目が大きく見開かれている。
「ご、ごめんなさい、アリッサ。……それに、いろいろとありがとう」
「えっ? 何のことでしょうか?」
その声はかすれている。
「あの、ここに来てからのこと全部です。お礼を言いたくて」
笑顔を浮かべて取り繕い、アリッサの顔をじっと見て記憶に刻む。少し落ち着いてきた。目の前にも決して忘れたくない人がいる。
一瞬、アリッサの全身から理解しがたいものに遭遇したという戸惑いを感じた。しかし、彼女はすぐに腕を戻して言った。
「どういたしまして」
なぜか彼女は深いお辞儀をした。
その声がふだんの調子に戻ったことにほっとしていると、さっと後ろに回ったアリッサに羽織を着せられた。
正面に回り襟元を丁寧に整える手が首に触れると暖かい。
「あまり長居をなさらないようにお願いします」
そう言いながらこちらをじっと見るアリッサの目はとても不安そうだ。
必死に笑顔を保ちながら答える。
「ええ、わかったわ」
***
外に出ると、感知の元が急速に近づいてくるのがわかった。早足で川に向かう。雪がちらちらと舞ってきた。本当に今夜は少し積もるかも。
船着き場に着くと、ムリンガが停泊している従桟橋を通りすぎ主桟橋に向かう。メイの船を横目に見て桟橋の先端を目指して走り出す。すぐに、水を切る音が近づいてきた。まだ何も見えない。
突然、灯りのない中型の川艇が暗闇からぬっと現れ、まっすぐこちらに向かってくる。
船が桟橋に音もなく横付けするより早くふたりが降りてきた。遮へいをしたままでよく視えないが、クレアとイオナに間違いない。
その時、下流の方角の遠くで火柱が上がるのが見えた。何事だろうと思い首を回すと、爆発音が伝わってきた。
どういうこと? このふたりが何か引き起こした? 目の前のふたりに顔を戻す。
さっと振り返ったイオナはすぐにこちらに向き直った。
「カイルとその一行」
後ろに手を振って開口一番に出た言葉だった。
何も言わずに次の説明を待つ。
「カイルは、あなたの居場所を特定してここに向かってる。あなたを捕まえ国に連れ帰るつもりよ」
「それは……いやです」
「今回、彼は大勢の兵を連れているわ。あなたがここにいると、ここが攻撃される」
再び小さな光が下流に見えた。反対に目を向けると、城の右翼棟のほうが明るくなっていた。
「あまり、足止めできる時間はないわ。わたしと一緒に来なさい」
「どうして、あなたと?」
「ここにいれば、あなたの連れが消されるからよ」
「消されるって、そんなこと」
「イリマーンは何でもやる、ほしいものを手に入れるためなら。わたしはあなたを助けたい」
「どうして、わたしを助けるの? あの丘でわたしたちを殺そうとしたのに」
「殺す?」
イオナの顔には戸惑いが見えた。
「あなたを助けるためじゃないの。無謀な企てに気づいて様子を見に行ったら、なぜか攻撃されて……」
イオナはため息をつき何度も首を振った。
えっ? ということは、トランサーを攻撃したの?
いやいや、でも、そもそも執政館に押し入って……。
「執政館で国主に……」
言いかけたとたんにイオナの言葉にかき消された。
「あれはカイルの仕業で計画にはなかったけど、わたしにも責任はある。だから、こうして警告に来た。このままだと、ここが戦場になりかねない」
「わたしにどうしろと?」
「ハルマンに来てほしい。ケタリでないとできないことがあって、お願いしたい。このとおりよ」
イオナに続いて、クレアが腰を落とすのが見え、驚いて一歩下がる。こんなことをされる筋合いはない。
背後からは兵士たちの喧噪が聞こえてきた。
「あなたはわたしがケタリだと言いましたけれど、わたしは不完全で何も知りません。それなのになぜですか?」
「わかっています、あなたの事情は何となく。あなたの見た目はとても若い。それでも、わたしにとってあなたが唯一の希望だから、切にお願いする。その代わり、あなたをイリマーンから守る。わたしの願いを叶えてもらえるなら、責任を持ってあなたをここに送り届ける。厚かましいことはわかっている。それでも、どうかお願い」
跪いたふたりの頭が地面に付きそうなほど垂れた。
「でも……」
「時間がありません。彼らはここを焼き尽くしてでもあなたを引っ捕らえようとするわ。この前、彼は半信半疑で様子を見にきただけだったけど、あそこであなたは……自分がケタリであることを自ら示してしまった。もはや隠れることは不可能。それに、あなたの守り手は忙しくて手が回らない」
イオナはザナのことを知っているの?
いや、違う。きっとふたりはお互いをよく知っているに違いない。
「わたしがあなたに同行すればここは無事?」
「ええ。あなたがわたしと一緒にいることを彼らに示せば、こちらを追ってくる」
わたしにとって一番大事な人たち。シャーリンとペトラ、メイとザナ、ロイスやリセンの人たちの顔が次々と思い浮かぶ。一番大事なこの場所。どんどん少なくなる記憶の、唯一の拠り所。
これを失ったら、わたしはわたしでなくなる。
振り返って灯りが連なっている窓を眺める。部屋の奥には人影らしきものが確認でき、前庭には船着き場に向かってくる人たちも見える。
大事なものを守るためには、わたしがここから離れるしかない。顔を上げ、イオナの漆黒の瞳を見つめる。
イオナは嘘をついているのかもしれない。それでも、ほかの道はすべて閉ざされてしまった。
「わかりました。一緒に行きます」
イオナの表情には変化がなかった。しかし、桟橋の灯りを写した、クレアの暗褐色の瞳が、強い決意から柔らかな光へと変化していた。
それを見たとたん理解した。もしわたしが拒んだら、このふたりに力ずくで連れていかれたに違いない。でも、選択肢が与えられた。イオナは信用できないけれど、もう他にできることはない。
「それでは、急いで乗って」




