155 帰郷
やっと、ロイスが見えてきた。
ここから北に向かって船出したのは、ずいぶん前。もうひと月以上前になる。
いろいろなことがあったとカレンは考えていた。
眼下に見える森の木々は葉をすべて落とし、すっかり冬の装いに変わっていた。今朝も冷え込んだし、遠くに見える北方の雲行きも怪しい。すぐにこのあたりも雪になりそうだ。
空艇の中は暖かいが、すべての隔壁を開いて警戒態勢を取っているせいか、透明の船体越しに冷気を感じる。
まだ離れているが、お城の前に大勢の人が出てきたのがわかる。ロイスに常駐する正軍の人たちを示す濃い色の中に、たくさんの明るい色が混じっている。
今や遠くも懐かしいロイスの人たち。
身を乗り出して、食い入るように見つめる。
全員がいる。この景色を眺めると、やっと帰ってきたという実感が湧いてくる。
桟橋に停泊しているメイの川艇もはっきり見えてきた。
ここ以外に、帰るという言葉を使える場所は今後もないと確信した。
「みんないるね」
隣の席のペトラはそう言うと、背中に覆い被さるように体を預け、顎を肩にのせてきた。独り言のようなささやきが耳に入る。
「あのクッキー、作ってくれてるかなあ」
「もうおなかがすいたの? それに、ペトラの好物はマーシャのお手製のほうでしょ」
「ここに来てるんじゃないかな。ほら、あそこの右側のふたり、ドニとマーシャに違いないよ」
「あら、ほんと」
恰幅のいいふたりが並ぶと目立つ。
「ここは、のんびりとできそうだねえ。ほんと、うれしい」
「疲れた?」
「いや。カルは死ぬほどお疲れだと思うけど、わたしはこのとおり大丈夫」
「そう」
後ろから声が聞こえた。
「いいところですね。すてきだわ、あのお城の凜としたたたずまい。今夜は晴れるかしら?」
ペトラの頭をよいしょとどけて振り向く。
「どうして、天気が気になるの?」
「それはね、カレン。夜の空をじっくり観察するためよ」
「星を見るってこと? メイは星の観測に来たの?」
「そうよ、ペトラ。わたしは星の世界に憧れているの。あそこには何があるのだろうってね。お城に星に関する本はある? 無数に輝く満天の星々。都会じゃ全然お目にかかれないのよ。ほら、この前、基地に着いた夜に少しだけ見たでしょ」
「へえー。ねえ、シャル、ここだとそんなによく星が見えるの?」
「お城の灯りを全部落とせばね。他に家はほとんどないから。だけど今は月が明るいから、条件はあまりよくないな。それでも都会と比べれば、メイのお望みのものが待ってるよ。でも今夜はどうかな? 向こうの空にあんなに雲が湧いてる」
「それは残念だわ。どうか、明日こそはいい天気になりますように」
空艇はお城の前庭のそばに着陸した。
ニックが扉を開いたが、誰も動こうとしない。全員がシャーリンのほうを見た。
「えっ? わたし?」
ペトラの声が追い打ちをかけた。
「ほら、シャル、早く降りて。あとがつかえるでしょ」
シャーリンが船から降りたとたんに、ドニにがっしりと抱きしめられた。うめき声が聞こえたような気がする。
「姫さま、お帰りなさいませ。本当にご無事でありがたいことです」
「ただいま、ドニ。でも、ほんの少し留守にしただけじゃない。相変わらず大げさだね」
「そうおっしゃいましても、シャーリンさま。あたしは心配で、心配で……」
「わかった、わかった。ほら、ほかの人たちが待ってるじゃない」
シャーリンはやっとのことでドニの抱擁から逃げ出すと、後ろでおとなしく待っていたダンと抱き合うのが見えた。今日はダンもおとなしくシャーリンに抱きしめられていた。
やはり、ここはいい。ここがわたしの本当の居場所ではないとしても。
遅れて船から出てきたペトラは、つかつかと歩み寄ると、挨拶をしようとしたドニにすばやく手を回した。
痩せて小柄なペトラでは、抱擁というよりしがみついたといった感じだけれど、何にせよくだけたやり方は彼女らしい。
「マーシャ、また、お世話になるわ。ちょっと大勢になってごめんなさいね」
「久しぶりに大勢のお客様をお迎えできて光栄です、姫さま。それに、部屋は有り余るほどありますから」
少し前にメイの川艇も着いたようだった。フィオナがアリッサと話しているのが見える。その前には、船から降ろされた荷物が積み上げられていた。
「フェリ、元気だった?」
「ええ、カレンさん。詳しくうかがいましたよ。カレンさんのご活躍ぶりを」
「えっ? 誰から?」
思わずフィオナのほうをちらっと見る。眉間にしわが寄るのを感じ、ため息が出る。
「それは、きっと、いろいろ脚色されているに違いないわ。あんまり本気にしないでね」
「はいはい。ご自分の命を犠牲にして紫黒の海を止めたと聞きました」
「だから、フェリ。それは……」
「それでですね、図書室を発見した話をフィオナから聞かされました。それで、あたしはぜひその……」
目が異様にキラキラしている。これは、ペトラやエメラインと同じ目だ。あたりを見回したが誰も近くにいない。逃げられそうもない。観念して、フェリシアの質問に答え続ける。
「いま潜艇について調べてるんです」
「潜艇?」
「水の中を進むための船です。カレンさんの図書室には技術書がたくさんありそうなので、何か新しい発見があるのじゃないかと……」
その気迫にたじたじとなる。
「ああ、なるほど。それなら、国都から戻ってきたあとに、一緒に見に行きましょう」
「ぜひお願いします」
フェリシアがエレインの蔵書量に満足したところで、あたりを見回す。
エメラインが何かをじっと見ていた。顔を回すと視線の先には一本の木がある。あれは確か、部屋の窓から正面に見える木だわ。それほど大きくはない。
何の木だっけ?
近づいて、木を見ながら考えていると、背後からエメラインの声がした。
「シャーリウラニシオンですね。まだ若いです。十数年といったところでしょうか」
「この木、シャーリウラニシオンというのですか?」
「はい」
「わたしは……毎日窓から見ていたはずなのに、名前を忘れていました。エムは木に詳しいのね?」
「木々は世界の守り手です。わたしは好きです」
こちらに顔を向けた。
「この木は……シャーリンさまの名前に似ていますね」
そう言われてハッとする。名前……。
そばに寄って、手のひらを幹にそっと当てる。
「感じますか?」
「いいえ、あまり」
「冬だからでしょう。春に備えてまどろんでいます」
静かに言うエメラインの目を見つめる。
「わたしに感知があればもっと……」
そうつぶやくのが聞こえた。
目を細めて木を見上げるエメラインの、流れるような金髪が日の光を浴びて黄緑色に輝いた。
エメラインが感知者なら、わたしたちの衛事になることはなく、彼女に出会うこともなかった。
エメラインが木に手を伸ばして触れる様子、一瞬、若草色に見えた髪と深緑を映す目に心が揺さぶられ、いつの間にか口にしていた。
「あなたには……小さなお友だちがいたりします?」
エメラインはゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情に変化は見られない。
「何のことでしょうか?」
「いえ、ただの独り言です。あの、この木のことを教えてください」
「冬の終わりにたくさんの小さな花をつけます。このあたりだとまだ雪が残っているでしょうか? 雪の中で咲く薄い青色の花は凜としていてとてもきれいですよ。シャーリウラニシオンは白と青の結晶とかいう意味だったように思います」
冬の終わり。つまり昨年も……。
突然、後ろから声がした。
「これはシャーリンの木ですか?」
ぱっと振り向いてメイの顔を見つめる。
「えっ? どうして、そう思うの?」
「ロメルにもわたしたちの木があるんですよ」
「ええっ?」
「ミアサラセノイアとメイレンランセア」
そう言いながら木のてっぺんを見上げる。
「わたしたちが産まれたときに植えたんですって」
ふたりの木? メイの顔を見つめたまま固まってしまう。
突然、どういうわけか胸に熱いものが上がってきた。目頭が熱くなり、なぜか涙がにじんでくる。慌てて顔を背けると目の前の木を見上げた。
「カレン?」
「何でもないです。大丈夫です」
そう言い、メイに顔を戻したものの、涙が頬を伝うのを感じる。慌てて指で涙を振り払った。
こちらを心配そうに見つめるメイの青い目が深みを増す。
「今度、紹介してください、あなたたちのミアサラセノイアとメイレンランセア」
「……はい」
シャーリンの木に意識を戻す。この木が花をつけるのは冬の終わり。ということは十二の月の後半だろうか。
白に薄青の花。じっと考える。思い出せない。花が咲いたところを見なかったのかしら? それとも……。
突然、頭の中に冷気がどっと流れ込んでくる。目まいに襲われ体がよろけた。
さっとエメラインの腕が伸びて腰に回され支えられるのを感じ、何とか腕を伸ばして彼女の肩に掴まる。
息が荒くなり胸が熱を帯びてくるのを感じ必死に抑え込む。動悸がとても苦しい。
メイの抑えた悲鳴が耳に届いた時には周りの景色が霞んでいた。
気がつくと、エメラインに抱きかかえられて運ばれていた。
「エム? あの、大丈夫ですから、降ろしてください。ひとりで歩けますから」
「だめです。また、気を失うと困りますので」
「カレンさん、大丈夫ですか?」
首を回すとウィルの心配そうな顔があった。
「なんでもないです、ウィル。心配かけてすみません。エメラインが少し過保護で。恥ずかしいわ……」
すぐに、エメラインにじろっと睨まれる。
全員の驚いた視線を受けながら、おとなしく、お城の入り口ホールの中まで運ばれる。そこで、やっとエメラインの抱っこから解放された。
ほっとして服の乱れを直していると、エメラインがまだ不安そうにこちらを見ているのに気づく。
「わたし、まだ、具合が悪く見えますか?」
エメラインは首を横に振った。それから小声で尋ねる。
「カレンさまには小さなお友だちがいらっしゃるのですか?」
「はい?」
エメラインの澄んだ深緑の瞳に見つめられるとドキドキする。
よけいなことを言ってしまったかしら?
「さあ?」
一瞬きょとんとした顔を見せたエメラインは、すぐに笑顔になると言った。
「ザナが着くのは日が落ちたあとになるらしいです。こちらに連絡があったそうです」
えっ? えっ? 何の話?
「それじゃ、晩食のころになるわね?」
メイの楽しそうな声がする。
「ええ、そう聞いています」




