154 衛事の役割
帰り道は葉の落ちた街路樹沿いに歩いた。雪はいったんやんだが、空はどんよりと、いつまた降ってきてもおかしくない雲行きだ。
明日にはロイスに帰れる。カレンは先のことを考えた。
ロイスの人たちは元気にしているかしら? それに、そのあとはミンに行って、シャーリンの用事をすませる。
向こうで、トリルに会えるかしら? 感知についていくつか聞きたいことがあるし……。それに、誰か医術者を紹介してもらおう。
突然、隣からフィオナのささやき声がした。
「カレンさま、誰かにつけられています」
さっと感知力を広げるが、すぐ近くに作用力は感じない。
前を向いたまま答える。
「近くに作用者はいないわ」
「作用者だとすぐにばれてしまうので普通の人を送り込んだのかもしれない」
すぐ前を歩くエメラインが顔を動かすことなく言った。
「そんな……」
慌てて普通の人の感知に切り換える。後ろから来るのは三人だ。前方から二人。それに、この先にもう三人いる。
かなり先に川を渡る橋が見えている。
「後ろは三人、前から二人。そこの右の路地に三人います」
小声で言うと、すぐにフィオナがささやく。
「カレンさま、場所を代わってください」
フィオナがさっと右側に移動する。
川の手前までは一本道だ。橋の上に人が見えてきた。なぜか後ろの人たちの足並みが急に速くなった。
フィオナに突然腕を引っ張られ、あっという間に背中を建物の壁につけていた。すばやく路地に入っていくフィオナの手にはいつの間にか小さな銃が握られている。
左から走ってくる音が聞こえ、エメラインのアシグが一気に高まる。戦闘は始まる前にすでに終わっていた。
後ろには倒された三人の男が転がり、路地から出てきたフィオナの手にもう銃は見当たらなかった。
フィオナが護衛の勤めを果たすのを初めて見たことに衝撃を受ける。首を伸ばして路地の中を覗き込み、ゴクリとつばを飲み込んだ。確かに、アリシアが信頼しているわけだとひとり納得する。
気がつくと、前方から男たちが手を上げながら走ってくるのが見え、エメラインは場所を変えると男たちに向き合った。
「エム、待って!」
しわがれ声が聞こえた。
「わたしたちは怪しいものじゃない。カレンさんと話がしたいだけです」
ふたりとも手を高く掲げ、激しく息をついていた。
「何者だ?」
そう問うエメラインに、年上に見える男のほうからすぐに答えが返ってくる。
「ヤンと申します。先日、シャーリン国子とお話しさせていただきました。少しお時間をいただけませんか?」
思いがけない出会いに驚く。
「アンドエンの方?」
「はい、そうです」
エメラインは男たちの背後に立ち、静かに言った。
「あっちに転がっているやつらは話を求めてはいなさそうよ」
「わたしたちは彼らと何の関係もありません」
男たちを調べていたフィオナは戻ってくると首を横に振った。
エメラインが通信機を取り出すのが見える。
さっきの意味は、手がかりがないということ? あのカイルかイオナか、それとも反体制派? こんな駐屯地のそばで大胆なことをするわね。
エメラインが近づいてきて小声で言った。
「ここはこのままでいいです。すぐに回収者が来ます」
回収者。その言葉にドキッとする。
反対側でフィオナがささやいた。
「この先に公園があります」
それが聞こえたかのようにヤンはうなずいた。
「公園のベンチでどうですか? 少し寒いですが」
「ええ、構いませんけれど」
あたりを探ったが他に人の気配はない。アンドエンと名乗ったふたり以外に仲間はいないようだ。
ぞろぞろと歩いてすぐそばの公園に入り近くのベンチに向かった。
アンドエンのふたりと並んで座り、エメラインがふたりの向こう側に腰掛ける。フィオナは後ろに立って反対側を向いた。
「それで、どのようなご用件でしょうか?」
「あなたは紫黒の海が最初に出現した時のことはご存じですか?」
「何人かから聞きました。真実かどうかはわかりませんが」
「それなら話は早いです。トランサーの巣を破壊できましたか?」
カレンはエメラインのほうをちらっと見た。どこまで知っているのだろうか、アンドエンは。
「何をご存じなのです? わたしは何も知りませんが」
「混成軍の送り込んだ部隊により、トランサーの巣の破壊に成功した、という話ですが、それにあなたが貢献した」
エメラインの表情に変化はないが、自分の顔には驚きが出てしまっているような気がする。どうして、こんなにいろいろ知っているのかしら。あちこちに協力者がいるみたい。ウルブが絡んでいるし、どうしようもないのかも。
黙っているとヤンは小さくため息をついた。
「トランサーが全滅しているならいいのですが、動きを止めただけだとすると、少し心配です」
もうひとりのほうが膝に置いた手をじっと見ているのに気づき、左手を右手に重ねる。
「何かご存じなのですか?」
「最初の時、ひとりだけ生還者がいました」
こくりと首を動かす。その話は聞かされた。
「それは誰なのですか?」
「イリマーンのものでしょう。あそこに現れたことからして」
「でも、メリデマールの作用者なのですよね」
ヤンは一度うなずいたが、そのあと首を横に振った。
「イリマーンとつながりがあったのかもしれません」
それから少し身を乗り出した。
「わたしが気になるのは、その生還者が正常ではなかったという点なのです」
「確か、しゃべれなかったとか?」
「そうです。記憶を失っていました」
思わずギクリとする。記憶がなくなった? 背中をザワッとした感触に撫でられる。
「何がその変化をもたらしたのか?」
「トランサーの恐ろしさで気が違ったのですか?」
「さあ、わかりません。よく調べたほうがいいと思います」
立ったままのエメラインを見上げる。何か考えているようだった。参謀室にいるのだから、いろいろと奥を知っていそうな気がする。
「なぜ、わたしにそのような話を?」
「誰も取り合ってくれませんからね。まあ、わたしたちは粛々と移住を進めるだけですが」
「トランサーがいなくなれば、移住の必要はないのでは?」
「そうでしょうか。大地は疲弊しています。このまま不毛の地が広がっていくと、生活圏の維持は難しいです」
あの、壁の向こうで見た深い谷と横穴を思い出す。確かに、この大陸は崩壊寸前かもしれない。
アンドエンはその情報も得たのかしら? いろいろ知っているようだからそうかもしれない。
「トランサーを止めたからといって、移住を遅らせないほうがいいと思います」
「ご忠告の意図はわかりました。一応、しかるべき人に伝えはします」
ヤンとその連れはさっと立ち上がりお辞儀をしたあと向きを変えて去っていった。
「エム、今の話をどう思う?」
「わたしには理解できませんが、参謀室に報告しておきます。襲撃についても」
「ええ、お願いするわ」
家に戻ると、どういうわけか、商品のほうが先に届けられていた。
***
襲撃の話が伝わると、帰りは船ではなく空艇でロイスまで送ってもらえることになった。荷物を積んだメイの川艇には当初の予定どおりに行ってもらう。フィオナも船上の人となった。
翌朝、空艇に乗り込み、いつものように窓際の席に落ち着くと、常に身につけている巾着の中から隠避帳を取り出しそっと撫でる。これで何とかなるかも。
ペンの使い方の手ほどきをフィオナから少しだけ受けた。昨日は長い間ペンと格闘したが、あまり進んではいない。
とりあえず今覚えていることから……。とにかくつなぎ止めないと。決意を新たにしていると、ペトラの不審そうな目が覗き込んできた。
「それ、なに?」
ペトラが指差したものを見る。
「帳面と色ペンよ」
「へえ、紙の? 今どきは誰も使わないよね。いったいどうするの?」
「日記をつけるの」
「えっ? 日記?」
ペトラの目がすっと細くなった。
「そうよ。それに、絵を描いてみようかと思って」
「絵日記ってこと? 紙に? 書機を使えばいいんじゃないの? カルも持ってるよね。そのほうがいくらでも書き直せるよ」
思わずため息が漏れた。
「わたしの書機はサンチャスの荷物と一緒に水没したわ。新しいのを手に入れないと」
「ああ、そうか。まったく、あいつら……」
ペトラは口をとがらせた。
「でも、紙に絵を描くのってなんか楽しそうじゃない? どう思う?」
「よくわからない。フィンは好きだけど。それで、カルは絵が得意なの?」
「今まで描いたことないわ。つまり描いた記憶はない。でも、好きになれそうな気がするの」
「なるほど」
ペトラはしばらく上を向いて何か考えていたが、またしゃべり出した。
「フィンはお母さんの内事とも言えるよね」
「フィオナの仕事を増やすつもりなの? 今だって大変なのに」
「でも、カルはわたしの相事だから、結局、フィンはカルの内事も兼務することになると思うよ」
「はあ、それじゃあ、わたしがいろいろ教わる暇がないわ」
「何を?」
「絵の描き方を教えてもらうんだから」
「あっ、そう」
隠避帳を開きペンを握ったまま思案していると、甘えるような声が聞こえた。
「買ってほしいな、色ペン」
「絵を描きたいの?」
「うん」
「自分で買えば? 国子なのだから買えるでしょう?」
ペトラの頬が少し膨れた。
「子どもはお母さんに買ってもらうらしいけど?」
「誰が子どもで、誰が母親なわけ?」
「わたしはお母さんに何かを買ってもらった記憶がない……」
そう言うペトラの哀愁を帯びた横顔をじっと見つめ、大きなため息をつく。
わたしもないのよ。それをわかって言っている?
「はいはい、ペトラには負けました。フィオナに買ったのと同じものをミンで買ってあげます。向こうにも一軒売っているところがあるらしいから。……ついでに補充用の芯柱も買わないと」
色ペンには定期的に補充が必要だとフィオナに教わった。すぐに必要なわけではないらしいけれど。
ペトラの顔がぱっと明るくなり、いつものように抱きしめられた。
「そうやって人に抱きつくの、このところ安売りしていない?」
「そんなことない。これは特別なの、お母さま」
「はあー、代わりに、ミンでおいしい食事処に連れていってね」
「えっ? 外食したいの?」
「そうよ。どんどんいろいろな経験をしないと、記憶が増えないでしょう?」




