119 普通はできない
夜遅くに、ステファンの来訪があった時、シャーリンはまだ病室にいた。
わたしのパフォーマンスもむなしく、カレンは、ベッドで身じろぎ一つせずに動かないまま。
しばらくステファンはカレンの顔をじっと見た。手をゆっくりカレンの額に伸ばすと髪をかき上げ、確認するかのようにただ見つめる。
毛布の下から左腕を引き出すと、その状態に彼はギョッとしたようだが、しばらく無言でカレンの手を握っていた。
その間、会話はなく、ステファンが話し始めるのをじっと待つ。
やがて、彼は毛布の下にカレンの腕を戻すとこちらに顔を向けた。
「本当にケイトにうり二つだ。ミアがあんなに強情に言い張ったのもうなずけるよ」
「ミアのこと、本当に申し訳ありませんでした。あんなことになってしまって……」
ステファンは考え込むように話し始めた。
「あいつは、自分の信念を貫いた。わたしはそう思っている。あの娘はいつでも頑固と言ってもいいくらいまっすぐに生きてきた。それに、娘が、君たちをわたしに引き合わせてくれた」
「それでも、とても残念でなりません。トランサーさえ来なければ……」
「この世界に住まう者の宿命だよ、シャーリン。あの海がいずれこの大陸を食い尽くすのは誰もがわかっていることだし、こちらにはあれを撃退する技術も能力もない。それでも、わたしたちは最善の道を選択しなければならない。やつらがここまで来た以上、一刻の猶予もなくなった。できるだけ早く移住を進めるしかない。明日、最高評議会が開かれることになった。そこで、今後の方針が決定されるだろう。我々は準備を加速させる必要がある」
そうだ、ここまで来たら、過去に執着してもいいことは何もない。
「ところで、カレンと言ったかね? これは間違いなくケイトの血筋だ。それは確かだ。それで、この子の具合はどうなんだね?」
「正確には何が起きてるのかわかりません。トランサーとの戦いのあと倒れたきり、この眠った状態なんです」
「医術者は何と?」
「ほかの医術者には見てもらっていませんが、ペトラが……あ、ペトラは……」
「オリエノールの国子、もちろん知っている」
うなずいて続ける。
「医師はこの体にはまったく問題はないと言いますし、ペトラは力を使いすぎたせいだというわたしの考えと同意見です」
「ペトラ国子は医術者なんだね?」
「はい。この紫黒との戦いでも毎日、救護班の一員として出ています」
「国子自らですか? それは……すごいことだ。ならば、わたしも、カレンが目覚めるのを待ちましょう。一度、娘と話がしたい。目覚めたら呼んでほしい」
「もちろんです。すぐにお知らせします」
「わたしはシャーリン国子の父上と一時一緒にいたことがあるんだよ」
「えっ? 父とですか?」
思い出すかのように目を閉じたステファンを見つめる。
「ああ、子どもの頃だが、ケイトの母がやってた養成所にいた時のこと。あれはいつだったかな。そうだ、メリデマールが併合されてそこからの難民がウルブに押し寄せたときだ。あの頃、フランクはメリデマールの養成所に入ったばかりだった。それが、ウルブ3で再開、継続された時、わたしもそこに参加したんだよ。五歳だったかな」
「えっ? ウルブ5じゃないのですか?」
「メリデマールから脱出して、すぐ隣のウルブ3に住みついた」
エレインの習練所はウルブ3に作られたのか。
「そんな小さい頃から養成所にいたんですか? わたしはてっきり初動した子どもたちを訓練してたのかと思っていました」
「ああ、もちろん、初動が近くなってからまたそこで暮らしたよ。幼少期と初動期の二回預かるんだよ。それがあそこのやり方だった」
「そうですか、変わってますね」
でも、どうして二つも養成所を作ったのかな。
「ウルブ5の郊外にある学校については何かご存じですか」
「わたしは知らないな。そっちでも養成所をやっていたのかね?」
「住み込みの学校らしいですけど」
うなずいたステファンはこちらをじっと見つめた。
「二回目に会った時には、フランクはけっこうなやり手になっていた。あれ以来、会ったことがありませんが、それにしても、あなたの父上が戻らないとは気がかりです」
もう帰ってこないとの確信はあった。
「そうだ、忘れるところだった。メイに川艇を預けてある。ロメルの者も何人か残していくので、いざという時は使ってほしい。わたしは、会議が終わってミアの別れの会をすませたら、ロメルに戻って今後の作戦を練るつもりだ。何かあったらいつでも連絡してほしい」
***
翌朝になってもカレンは目覚めなかった。
どうやら寝ずの番をしていたらしいエメラインを無理やりベッドに追いやり交代する。
船室の扉が開くと、ペトラに続いて女性が入ってきた。背が高く、吸い込まれそうな深い色の瞳が印象深い黒髪の人だ。インペカールの作用者が着る制服を身につけている。
きっとこの人が昨晩ここに到着したザナに違いない。庇車が川を下ってきたのには誰もが驚いたらしい。
シャーリンは立ち上がるとふたりを出迎えた。
「初めまして、シャーリン。ザナです」
こちらを探るような目つきになぜかドキドキする。
「シャーリンです。ダンが大変お世話になりました。わたしはもとよりダンの家族もとても感謝しています。それに……」
隣に立つペトラに目をやった。
「ペトラまでが大変なご面倒をおかけしました」
ザナは微笑んだ。きれいな人だ。
「いいえ、そんなことありませんよ。ペトラはとても素直で、わたしとしてもうらやましい限り。それにとても優秀なのよ。シャーリン、あなたもおおいに自慢できるほどに」
ペトラをちらっと見た。素直だって? 自慢できる? 眉をひそめる。
ペトラが手をパタパタさせ、照れくさそうな顔をした。
「あ、ザナ、こちらの椅子にどうぞ」
ペトラは部屋の奥に別の椅子を取りにいった。
その様子を眺めながらザナが話し始めた。
「カレンの具合はどうです?」
「特に具合の悪いところはないのですが、ずっと目を覚まさないのです」
ザナはカレンの腕に手を置いた。しばらくそうしていたが顔を上げると静かに言った。
「何があったかはペトラから聞きました」
そこで軽くため息を漏らす。
「限界を超えて力を使ったのでしょう。困った方です。作用者は、自分の力の蓄えを常に心得ておかなければいけないのに」
運んできた椅子にちょこんと座ったペトラをザナは見ながら話し続けた。
「作用者は自分の作り出す精分を完全に使い切ってしまうと、そのあとは回復が極端に遅くなるし、痛手も非常に大きくなる。何より、回復するまでの間は、自分の体を制御できない状態になり動くことすらできない」
その説明を聞きカレンを見つめる。それがこの状態なのか。
「だから、そうなる前に力を止めて、回復に力を注がなければいけない。そうすれば、さほど時間をかけずに元どおりになるの。まあ、作用者は、全部使い果たすまで力を維持し続けるなんてことは、普通はできないのだけど」
ペトラはうっとりとした表情でザナを見つめていた。
「そうなんですか」
「ねえ、ペトラ、どうして、壁を維持する人たちが半日で交代させられるか理解している? それ以上精分を引き出すと大変なことになるからよ。半日までなら何とか……許される範囲ではある。それでも代償は大きいのだけれど。これは作用者にしても同じよ。長期戦に身を投じるときは引き際を見極めること」
代償か。代償……どこかで聞いた話だ。
「はい、わかりました」
ペトラは素直に答え、シャーリンも慌ててうなずいた。
「さて、ミアはとても残念なことでした」
「トランサーが尾根に回り込まなければ。それに、わたしが今回の無謀な出撃を提案しなければ、こんなことにはならなかった……」
「そうね。でも、そのあなたたちの無分別のおかげで前線を維持できた。結果的には新しい斜面ができて、これまでトランサーは飛んでいない。どんなことにも犠牲はつきものだけど、終わったことを悔やんでもしょうがない。今回学んだことを次に生かさないと。それに、あなたたちの活躍がなければこの町は消えていたかもしれないのよ。もっと自信を持ちなさいな」
「はい。わかりました」
ザナは割り切って考えているようだ。
それでも、すべての命は尊く何ものにも代えがたい。それなのに、わたしのことを好きだと言ってくれたミアを救えなかった。
後悔の念はこれからもずっと消えないとわかっている。
「それで、ロメルのもうひとりの娘さんはどうしていますか?」
「メイのことですか? 元気です。今はウルブ1から来た人たちと一緒にいます。あのう……おふたりともご存じなのですね?」
「少しだけ」
「わたしは、知り合ってからまだひと月もたっていませんでした。わたしたち、姉妹なんです」
「わたしたち?」
そう言ったザナの口調にはちょっぴり驚きが感じられた。
うなずく。確かに、わたしだってすごく驚いたよ。ついこの前までミアとメイの存在すら知らなかったのだから。
ペトラはさっと顔を回してザナを見た。
「はい、ミアとメイの双子に、あと、わたしとカレン」
ペトラはザナの横顔に視線を注いだまま。ペトラにも話したはずだけど。
しばらくしてから声が聞こえた。
「なるほど、とてもおもしろいわ」
ザナは、ペトラがじっと見ていることに気づいたのか、首を傾げてペトラと目を合わせる。
ペトラはちょっと慌てたようにこちらを向いた。
すぐにザナは話題を変えた。
「それで、ペトラ、作用力の訓練はどうなの?」
「あ、はい。あれからも、習練を続けています。今は、医療の手伝いが忙しくて休んでますけど。今度、一度見てもらえますか? 時間ができれば……ですけど」
「もちろん、いいわ。でも、その前に、あの前線をもうちょっと立て直さないとね。壁を混成隊で組むのはなかなか大変なのよ。ただでさえ安定するまでかなり時間がかかる。それなのに、今回はまっすぐな壁ではなく、ほぼ三分の一円。いきなり難度が高すぎだわ。カティアを呼び寄せたいところだけれど、向こうも今は大変だから」
「はい、わかりました。でも、ザナが来てくれてよかったです。とにかく、ここでトランサーを食い止められれば……」
すぐにザナは首を横に振った。
「ここで止めるだけじゃだめなのよ。押し返さないと。それにはもっと時間がかかる」
「そんなことできるんですか?」
「できるできないじゃなくて、やらないと。もしルリ川の南側にやつらが侵攻したら、もう止める手段がなくなるわ。こうなると、北の前線は今の位置を維持しても意味ないし、オリエノールとも協議して、全部の前線の位置を組み換えることになるわ」
「はい」
この世界の危うさと時間のなさを再認識して、心なしか焦りを感じた。
「ペトラも頑張ってちょうだい」
何を頑張るのか不明だけど、変なことはしないように釘を刺しておかないと。
話をしている間、ザナはカレンの腕にずっと手を置いたままだったが、別の手を伸ばしてカレンの首元に触れた。
かがみ込んだザナの肩から漆黒の髪がさらっとこぼれ落ちる。しばらくして、両方の手を離すと立ち上がった。
「それじゃ、わたしはこれで。また様子を見に来るわ」
ペトラもさっと立ち上がった。
「向こうまでご一緒してもいいですか? ナタリアさんとはどういうご関係……」
部屋を出ていったふたりの話し声が遠ざかり、静寂が訪れる。明日には目覚めるかな。これほど長い間、意識がないのは初めて。そろそろ起きてほしい。




