109 大群と向き合う
カレンが、丘に沿って感知をさらに遠くまで伸ばしていた時だった。突然、別のトランサーの流れを感じた。目を開いてその方向を確認するが、目を細めてもあまりにも遠すぎて何もわからない。
窓から一歩退いた時、ミアがまだそばに立っているのに気づいた。
「どこかに大きい遠視装置ありますか?」
「取ってこよう」
そう言ったミアは離れたテーブルまで走っていき、装置を引っつかんですぐに戻ってきた。彼女は場の雰囲気に敏感で切り換えも早い。今が急ぐべき時だとちゃんと察している。
「何か気になるものが見えたかい?」
遠くの段丘を指差す。とても携帯型とは言えない重すぎる遠視装置を持ち上げ、手すりに肘をついて支える。それから、かがみ込んで目を当てると問題の方角に向ける。
「あの連なった丘の斜面なんですが……動きがあるように感じられて」
問題の斜面が多少はよく見えるようになったが、これでも遠すぎてくっきりとはいかない。草原と木々のようなものしか見えない。視覚には全然違和感がなかった。
たとえ、あそこにトランサーがいたとしても、草の向こうを移動しているなら、この距離ではまったく見えるはずもないことに遅まきながら気がついた。
耳では、ミアがシャーリンとアレックスを呼ぶのを捉えていた。
トランサーはそういった障がいを破壊して進むはずだ。だから……。
そう思った時、一面の緑の中に小さく見えていた木々が揺れたように見えた。
装置を支える手が震えただけかと思ったが、もう一度目を凝らした時には、その辺に木が見当たらなかった。
目を何度かパチパチさせてから遠視装置を覗くと、その左のほうに黒っぽいものが見えた。最初は光の陰か何かで暗いだけかと思ったが、その黒い帯が少し太くなってきたように感じられた。
あれは道だ。しかも成長している。思わず身震いし、装置を落としそうになった。
アレックスが隣に現れた。
「カレン、どうしました? トランサーから何か感じましたか?」
カレンは再び窓から一歩下がると、遠視装置を持ち上げた。肉眼ではまったくわからない黒帯が形成されつつある斜面を指し示した。
「あそこです。あの二つの小高い丘のように見える尾根の下です。黒い道が斜面を登っています」
「道が登っている?」
カレンから遠視装置を受け取ると、目に当て小刻みに何度も動かすアレックスの横顔を見つめた。
シャーリンとメイもアレックスを心配そうに見ているのに気づく。
あれは、本隊からそれたトランサーの群れらしい。どんどん増えている。
アレックスは遠視装置を右にゆっくりと動かしていたが、あるところまで来るとピタッと動かなくなった。
しばらくそのままの姿勢でいたアレックスはつぶやいた。
「これは大変だ」
アレックスの見ていた方向に視線を向ける。段丘を渡り尾根づたいに進むことはできるが、台地はカフリ川の曲がりに突き当たるところで切れて終わっている。
でも、トランサーが川を渡ることはないから、そうなっても影響ないはず。そう考えていると、アレックスが部屋の人たちに近くに集まるように声をかけた。
「トランサーが北の段丘の斜面を登っている。間もなく尾根に着くだろう。そのまま東に向かう可能性が大きい」
すかさず、アン司令が応じた。
「でも、連丘はカフリ川で分断されているから、たとえ丘の上を取られてもこちら側には影響ないのでは?」
ほかの人も口々にしゃべり始め、あたりが急にざわざわとしてきた。
アレックスは首を振った。
「あのトランサーは第二形態だ。それで、第二形態は、自分で飛行できる」
その言葉を聞いた瞬間、急に部屋の中が静まり返った。
「しかし、報告書には飛行可能とは書いてありましたが、あのトランサーは地上を進んできたし、これまで飛んではいないはずです」
アンはそう言ったが確信はなさそうだ。
「ああ、確かにウルブに侵入してからはそのとおりだ。だが、カルプの北東に丘陵地帯があるだろう? 偵察隊の報告によれば、南下してきた先頭集団はあそこを上って、山の上からは反対の斜面を下るのではなく、そのまま飛行して麓まで下りてきた。もちろん、ただの滑空だったかもしれないが、とにかく地上ではなく空中を移動したのは目撃されている」
「それでは、やつらがあの尾根伝いに東に進み、あの川岸に続く坂を下らずに、上から滑空してそのまま川を越えると、そうおっしゃっていますか? 水の上を横切るにもかかわらず?」
「ああ、そのとおりだ。あそこは斜面と言うより崖に近い。川があるとしても飛び越えないと断言することはできない」
「どれくらい飛べるんです?」
「報告によれば、数千メトレくらいだった。もっとも、そこの丘とは高さがまるで違うから、単純に比較はできない」
「ほんのちょっと滑空するだけで、あいつらはカフリ川を飛び越えて川の東側に回り込める」
クリスは唸るように言うとアンを見た。
アレックスは首を縦に振った。
「そうなれば、東から回り込んで町に押し寄せてくる」
クリスは顎をこすった。
「大至急、阻止しないと。でも、丘の上なら人の手で何とかするしかないな」
「そのとおりだ。とにかく、あの尾根の端まで行かないように、手前で南側の斜面に誘導する必要がある」
そう言いながらアレックスは難しい顔をしているアンと向き合った。
「あの丘に防御者と迎撃隊を派遣するしかない。大至急、部隊を編成したい」
「いま手のあいている者は全員、正面の壁を越えてくるトランサーにかかりっきりです。隊の編成を変えないと。少し時間がかかります」
「こっちの壁を少し引いてもいいから、継ぎ目のすりあわせを調整する。出払っている作用者から半数をあの丘に回したい。そちらには、活動できる防御者は何人残っていますか?」
「すぐ確認します」
アン司令は、防御指揮官と思われる人と話し始めた。
それまで隣に立ったまま黙っていたシャーリンが口を開いた。手にはクリスから借りたらしい遠視装置を持っていた。
「アレックス司令官、あの感じだとあまり時間がありません。すぐに出撃できる作用者は残ってないようだし、わたしたちが先に行って何とかするしかないですね。あそこまで空艇で運んでもらえますか?」
「しかし、相手は大群だ。あなたたちが優秀なのは承知しているが、少人数で行くのは非常に危険だ」
「でも、残り時間は少ない。すぐに行かないと止められません。力軍と正軍が到着するまでの間です。トランサーが崖まで到達したら、もうあそこに着陸するのも難しくなります。尾根は狭いから、援軍が来るまで持ちこたえることはできると思います」
シャーリンは突然ミアのほうを向いた。
「ねえ、どう思う?」
ミアが思案するのを見ながら考える。
わたしは前線での戦い方を何も知らない。メイもだろう。クリスとエメラインは当然経験があるはずだが、シャーリンがミアに聞いたのなら、ミアも前線をよく知っているに違いない。
この部屋には、わたしたち以外にも、アレックスを含めて何人もの作用者はいるが、指令所に詰めている彼らが出撃することなどありえない。
こちらの戦力は、攻撃のミアとエメライン、防御のメイとクリス。それにシャーリン。カイは感知者だから除外。
行くのなら、五人で何とかしなければならない。通り道が狭ければ何とかなるかもしれない。でも、ペトラがここにいない今、クリスとシャーリンがそろってここを離れるのは許されないわ。
ミアの答えも同じだった。
「防御者ふたりと攻撃者が三人いれば二面立てられる。もちろん、カレンの感知もかかせない」
それからクリスに目を向けた。
「だが、シャーリンとクリスはここを離れていいのか?」
クリスはうなずいた。
「カイがいるから大丈夫だ」
しかし、アレックスは厳しい表情をしていた。それは当然だ。この中で、おそらくメイとシャーリンはともに実戦の経験がなく、わたしは力軍に所属すらしていないただの素人だ。
しかし、彼もここにいる六人しかすぐに動ける作用者がいないと考えているようだ。
「……わかった」
アレックスは隣にいた男に言った。
「ニック、すぐ空艇を呼び戻せ」
命令を受けた部下は窓に近づくと、小型の遠視装置を取り出しながら、もう一方の手で通信機を口元に持っていった。
アレックスがこちらを見た。
「ミア、クリス、エメラインはトランサーとの戦闘経験があるが、残りの三人はない。シャーリン国子、絶対に無理はせず、状況が不利ならすぐに撤退してください」
言われた三人はうなずいた。
後ろからクリスの声が聞こえた。
「カイ、我々が出たあとは、君にここをまかせる」
「了解」
そう答えたカイは、大声でモリーを呼び寄せると尋ねた。
「こっちに部下は何人残っている?」
「あそこにいる五人だけです。残りは全員、ペトラ国子のところか前線に出ています」
「よし、その五人を連れて同行しろ。こちらの方々を絶対に危険にさらすな、いいな」
アレックスとミアの会話が聞こえた。
「ミア、迅速な判断が必要になるかもしれない。そのときは頼む」
「わかりました、司令官」
カレンたちは急いで出口に向かった。
下に降りるためにすぐに利用できたのは、小型のエレベーターだけだった。
全員が乗り込むと身動きできないほど狭い。あとから乗り込んできたカイの部下たちで視界が遮られる。モリー以外の五人は全員男で、しかもどの人も体格がいい。ほとんどが前の船で見覚えのある人たち。
当然ながら、全員がオリエノール正軍の茶の軍服を着込んでいる。それを見て突然気づいた。自分の服装がまったく場違いなことに。
この薄いひらひらの服は、間違っても戦闘に行くような格好ではない。街に遊びに出かけるための服にしか見えない。不謹慎だと言ってもいい……。
クリスとエメラインはもちろん力軍を表す灰色の制服を着込んでいるし、メイとシャーリンは、長袖ではないものの、そろって似たような仕事着をきちんと身につけていた。ミアがいつもの格好であることが、ただ一つの慰めだった。
横を向くとシャーリンと目が合った。その表情は、こちらが考えていることを見抜いたと雄弁に物語っている。
「いい服だね。似合ってるよ。フィオナの見立て?」
思わずため息が出た。
「それに……すごくかわいい」
「……いじわる」




