106 会議が長引くわけは
遠くで何かがこすれるような音を感じ、しばらく前から聞こえていたその繰り返しに思い当たった瞬間、あっという間に現実に引き戻された。
カレンが、しばらく頭の中での想像だったのかどうかと考えていると、今度はギシギシというまぎれもない床の鳴き音に加えて、すぐ背後から精分の揺らぎを感じ取った。
顔を上げて体を捻ると、部屋の向こう側でフィオナがゆっくりとした歩調で行ったり来たりしているのが見える。
ずっと動き回っていたのかしら?
部屋の中を見回すが、この大きな部屋にはふたりの他に誰もいない。ペトラもクリスもまだ戻ってこない。
窓のそばを通りすぎるフィオナを眺める。あれから何日だっけ。一瞬だけ目を閉じた。
確か今日で十四日、あるいは十五日目。あの深い死の谷底まで完全に引き込まれた状態から奇跡的に生還し、すっかり回復して今はごく普通に歩いている。ずいぶんと修復が早い。
目を細めて彼女の上半身の、それに手足の動きを検分する。どこにも違和感がない。完全に健常人と言っていい。
あのような酷い状態になったら、普通は何度も医術を施すとか、そのあげく、さらに最低でもひと月はベッドに縛られるのではないかと思う。ソラもそのようなことを話していたし。違うのかしら?
「フィオナ、そんなに歩き回っていいの?」
そう聞かれて驚いたかのようにピクッと体を震わせたフィオナは、立ち止まると頭だけを回してこちらに向けた。日暮れの逆光で顔がよく見えないにもかかわらず、その仕草から顔が赤くなっているのは間違いない。
「申し訳ありません、カレンさま。目障りな行動で熟考を乱してしまいまして。少々落ち着かなくて」
フィオナの声はいつもどおり、低いがしっかりとしていて、それだけで人に安心感を与える。
「それに、この体はもう大丈夫です」
両手を胸に当てるのが見えた。
「しばらく静かにしているようにとは言われましたが、それはただの念押しです。早く元どおりの仕事につかなければいけないのです」
一息つくと続けた。
「それに、このように早く退院できたのは、ペトラさまとカレンさまのおかげです。わたしをあの世からこの世に引き戻していただいたのも……です。このご恩に報いなければなりません」
「でも、あなたが身を挺してかばってくれたおかげで、ペトラの命が救われたのよ。ペトラもわたしもフィオナには感謝あるのみです。それに、わたしはペトラのそばを離れてはいけなかった。そのこと、とても申し訳なく思っています」
「わたしは当然のことをしたまでです、カレンさま。それに今回のことはわたしにも大きな責任がありますので」
そう言ったあと、何かを我慢するように少しだけ顔をしかめた。
カレンはうなずきながらも、あの時のことをもう一度思い起こしていた。あの処置はどの程度のできだっただろうか……。
確かにペトラが普通の作用者には思いもよらない、大変なことをひとりでやってのけたのは事実。でも、医術者としての技能について客観的に評価するならば、彼女はまだ駆け出しの見習いにすぎないはず。
死から引き戻すのに成功はしたけれど、ずたずたになった肺や胸、それに、砕けた骨やそのほかの組織を元どおりにしたわけではない。単に血の流れをつないで脳の機能停止や体の組織の崩壊を食い止めたにすぎない。それとも……。
「ねえ、フィオナ。病院で、その胸は再建術を施されたの?」
「再建? いいえ、カレンさま。医術者に言われたのは、もう医術でできることはなく、あとは医師にまかせればよいとのことでした」
カレンがうなずくとフィオナは深く一礼した。目を閉じて考える。
再建術ではないとすると、これは単に回復力が大きいだけなのだろうか。それとも、フィオナが自力で修復したのだろうか。カレンは再び部屋の中を歩き始めたフィオナを見つめた。
あのとき、実はペトラは、わたしには感じ取れない、もっとすごいことをやってのけたのかしら?
この答えを得るには、誰に聞けばいいかしら? 医術に長けた作用者を誰か見つけなければならない。今までに出会った数少ない作用者たちを思い浮かべても、その中に相談できる人はいない。誰か新しい人を探さないと。
しばらくして、部屋の中に伝わる密やかな音が途絶えたことに気づいて目を開くと、すぐそばでフィオナがこちらを見下ろしていた。
「カレンさま、皆さま、なかなか戻られませんね?」
「ええ、そうね。たぶん、政治は誰もが思っているよりずっと複雑なのよ」
ペトラは政治が嫌いと言っていたが大丈夫だろうか? まあ、この先、決して避けては通れない道だから、これはよい機会だとは思うけれど。
「政治……」
つぶやいたフィオナはこくりと首を動かした。
「そうでした。確か、大同盟を結んだ三国の軍が自由に動けるのは、北の中立地帯に限られると聞きました」
「なるほど。ああ、それで、ウルブ7に軍を進めるのは大変なことなのね」
「そのように思います。それでも、明日の朝までに向こうに到着しなければならないとすると、そろそろ移動を始めないと間に合わないように思います」
「そうなの?」
「はい。庇車の移動速度はかなり遅いとうかがったことがあります」
庇車は防御用の移動式車両のことだ。確かにあれは大きくて見るからに移動は大変そうだ。確かに急いだほうがいいわね。大丈夫かしら?
「それにしましても、三国会議でペトラさまがきちんと国子のお仕事をされるようになったとは。それはもちろん当然のことではあるのですが、少々驚きました。ことあるごとに修練を避けておいででしたので」
「修練?」
「はい。政治や外交を学ぶ機会のことですが、何だかんだと理由をつけて拒んでいました」
そうなのか。それはもう本当に、政治的な場面に出るのは嫌だったのね。
ペトラは子どものように見られがちだが、とにかく今は、アリシアに次ぐ地位にある。いやおうなしに後戻りできない状況に、芯までどっぷりと浸かってしまっている。
「でも、今のペトラさまは以前とはだいぶ変わられました」
それからこちらをじっと見た。
「わたしが思うに、カレンさまにお目にかかってから。それに、今回の旅も原因かと想像しています」
「えっ?」
フィオナはなおも続けた。
「わたしからもお礼を申し上げます。わたしはずっとペトラさまにお仕えしてきましたからよくわかります。この変化はカレンさまがもたらしたものであることが。わたしを助けていただいたのと同じように自明のことです。これからもどうかペトラさまをよろしくお願いいたします」
フィオナが深くお辞儀をするので慌ててしまう。
「ねえ、フィオナ。わたしは特別なことは何もしていないから、本当に、本当に」
顔を上げたフィオナは笑みを見せた。
「はい」と答えながらも、首を横に振る彼女を見つめる。その笑顔はどことなく寂しげだった。なぜかそう見えた。どうしてかしら?
それにしても、何か忘れているような気がしてならない。ずっと、頭の隅っこでくすぶっていた疑問、あれは何だったっけ……。
向かいの椅子に腰を落とすと両手で上半身を抱きしめるような仕草を見せたフィオナをしばらく眺める。フィオナが何でしょうと言いたげに首を傾げてこちらを見る。
そうだ、ダンのことだった。
「ねえ、フィオナ、メダンでわたしたちが通信塔に向かったあとのことなのだけれど」
フィオナは両手を下ろして膝の上にそろえて置くと、こちらをまっすぐに見る。
「確か、ペトラと一緒にダンの部屋に行ったのよね」
「はい、そうです。ペトラさまから一緒に来るようにと言われましたので」
「ペトラの話だと、ダンが船室の窓から外に誰かがいるのを見た、と言っていたけど、フィオナもその誰かを確認した?」
フィオナの返事はすばやかった。
「いいえ、カレンさま。ダンはベッドの上に座っていて、ペトラさまは手前の椅子に腰掛け、わたしはその後ろにいました。あの部屋の窓は小さくて、わたしのところからは、空しか見えなかったように思います」
カレンはうなずいた。フィオナの答えは的確だった。
「ダンが誰かを見たと言った時、ペトラもその窓から確認したのよね?」
「えっ?」
フィオナは驚いたように見え、少し考える仕草を見せた。
「わたしの記憶では……ペトラさまは、すぐさま部屋を出ていかれました」
「そうなの? てっきり、その窓から同じように外を確認したのかと思ったわ」
首を横に振るのが見えた。ペトラは、部屋からは何も見えなかったと言っていた。
もちろん、思慮深いペトラのことだから、ダンがどこかで行動を起こすことは想定していたに違いない。それにもかかわらず彼に会いにいった。
「それで、ペトラはついて来るように言ったの?」
「いいえ」
少し考えた。
「言われなかったけど、ペトラを追いかけたのね?」
フィオナはまた首を横に振った。
「てっきり下船されたと思い、桟橋からあの倉庫のような建物まで行ったのですが、ペトラさまはそこにはおりませんでした」
確か、まず船の最上部まで上って確認したのだっけ。それから下船した。
「しばらくして、ペトラさまが建物の裏手を移動されるのが見えて……」
なるほど。
「それで、あとをつけた?」
フィオナは首を縦に振ったが、どことなく不安げに見える。よけいなことを聞いてしまったかしら。
通信塔を攻撃することではなく、ペトラのほうが目的だったとしたら……ペトラをひとりにするには好奇心をあおればいい。とても簡単なこと。それに、感知者を引き離せば彼女に近づくのも容易になる。
でも、どこか腑に落ちない。ダンの船室は港の側、つまり山に面していたけれど、それは前もってわかるはずもない。何か見落としているような気がする。それとも、わたしの考えすぎかしら?




