104 まったく眠れない
シャーリンが不思議な飲み物を見つめて首を捻っていると、いきなり聞かれた。
「紫黒の海のことか?」
「はい、どうしてあんなものがこの世界に現れたのか……。とか、考え始めると……」
こもった笑い声がした。
「なるほど。そりゃ、眠れなくなるなー」
「ミア、笑い事じゃないです。ほんとに、ここで思考が勝手にぐるぐると……」
側頭部をポンポンと触っていると、ミアが頭を振るのが見えた。
「わかった、わかった」
「トランサーには何か目的があるかもしれない。この考え、どう思います?」
ミアは一瞬でまじめな顔に戻った。
「そうだな。やつらは突如この世に現れ、ここに住む人々を破滅へ追いやってる。その意図は、この大陸の生き物を根絶やしにすることに見えるが……。それとも、大陸の形を変えようとしているのか……」
「形を変える?」
「陸が姿を変えるには途方もない年月がかかるが、トランサーはそれをたったの数十年でやろうとしているのかも」
「この世界を造り直すってことですか?」
「そこまで壮大な話かどうか……」
そこで口を閉じたものの、すぐにつぶやくのが聞こえた。
「でも案外、的を射た考えかもしれないな」
「どうしてトランサーにはあれほどの力があるんでしょうか?」
「やつらはね、単体だと別に大したことない。動きもゆっくりだ。でも、たくさん集まると変わる」
「トランサーのこと、よくご存じなのですか?」
「ああ、多少ね。一応、ウルブ7の防衛予備隊に名を連ねているし」
「えっ? 防衛隊というと、ミアは軍籍を持っているのですか?」
「今は予備隊だよ。正規の軍属ではない」
「ということは……」
「しばらく混成軍にいた」
納得する。つまり、前線でトランサーと戦った経験がある。
「前から気になっていたんですけど、トランサーは川に近づかないですよね?」
「ああ、そう言われてる」
「水で駆除はできるんでしょ。雨がたくさん降れば……」
「それは違う。確かに、トランサーは水を避ける。でも別に水に触れたら死ぬとか消えるわけじゃない。雨がじゃんじゃん降ってる間は動かないでじっとするが、雨が上がって地面が乾けば元どおり。今日の嵐だってやつらにとってはただの小休止でしかない」
「はあ、そうですよね。水で何とかなるのなら誰も苦労しない……」
「そういうこと」
「トランサーと遭遇した時はどう対処すればいいですか?」
「いいかい。やつらは動きが速いわけでも、鳥のように、自在に飛ぶわけでもない。だから落ち着いて一つずつ確実に撃破する。あるいは、防御フィールドの中に立て籠もって消滅するのをじっと待つか、のどっちかだ」
「はあ……」
「やつらは少数のときの動きと、群れたときではまったく違うと思うね。集団になると、なぜか威力が増すように感じる。いや、そうじゃなくて、実際すごいことになる。ものすごい殺気に襲われる」
集団で力を使う?
すぐにミアは肩をすくめた。
「まあ、単なる気のせいかもしれないが、とにかく大群は絶対、相手にしないことだ」
「じゃあ、どうするんです?」
一瞬、間があった。
「全力で逃げるんだよ」
しばらく沈黙が支配した。
気を取り直す。
「あのー、別のこと、聞いてもいい?」
「なんだい?」
「ケイトの家のことなんだけど」
「あそこをケイトの家と名付けるのは間違いかもしれないな。それで、あれから何か思いついたか?」
期待するような目つきに少し気押されたが、これだけは絶対に確認しておかないと後悔する。
「地図にあの場所が示されていて、そこに行けばもっと何かわかると思ったでしょ、わたしたち」
「うん、そうだな。事実を示す何か証拠があると考えた。でも実際行ってみたら何もなかった」
「今さらだけど、本当にそうなのかなと思って……。わざわざ、三人の持ち物を合わせることで地図が浮かび上がるような面倒な仕掛けを作って、そこに示された謎の目的地まで来るようにと示唆して、いざそこに着いたら何もないなんて、おかしいと思わない?」
ミアは手をひらひらと振った。
「まず言っておくと、あの建物は、単に使われなくなって久しいだけで、別に秘密の家でも隠された特別な場所でもない」
「それでも……」
「ああ、言いたいことはわかる。もちろん、誰が考えても変に決まってる。だから、何か手がかりがあるはずだと思ってあちこち調べたんだよ。そりゃ、壁を剥がしたりしたわけじゃないから、どこかに隠し部屋があったとしたら、見つからなかったことになるけどな」
そうか。秘密の出入り口とか隠し金庫とかがあったのだろうか。もっとよく探すべきだった。失敗だ。
そこで、ずっと手の甲を口に押し当てていたことに気づき、慌てて離す。
「あそこで、あの写真を見つけて、それで……」
「あんたが期待してたようなものじゃなかった」
こくんとうなずく。
「わたし、ばかでした。あんなところで腑抜けになってないで、もっと建物の中を調べるべきでした。何てばかだったんだろうと今は後悔してます」
「そう、ばかばか、言うなって。念のために言っておくけど、あたしはどの部屋も調べたが、どこにも手がかりはなかった。中の品物は全部かたづけたようで、部屋と物入れに机とか作り付けのものだけ。それ以外はすべてが持ち去られたみたいに、きれいさっぱり何もなかった」
ミアはこちらを向くと苦笑いした。
「写真だって、あの暖炉の上にあったやつだけだぜ。とにかく、それ以外に動かせるものは一切なしだ」
「それじゃ、あそこは何だったんでしょうか?」
「エレインがやってた寄宿舎付きの学校か養成所だ」
「それは前にも聞きました。でも、カレンの写真があったのは……」
ミアは手を伸ばして机の上の瓶をつかむと、自分のグラスにマラを注ぎ足した。ひとくち飲んだあとまたしゃべり始める。
「これは、あたしの推測だけどね。ケイトはロメルに住むようになってからも、時々出かけてたらしいから、その間は、エレインの仕事を手伝ってたんじゃないかな。あたしとメイはステファンのところで暮らしてたけど、カレンはたぶんあそこに住んでいたんだろう」
「どうして、カレンだけ?」
ミアはちょっとの間こちらを見たが、また窓に顔を向けた。
「それは……ステファンが父親じゃないから、ロメルには連れていけなかった……かな?」
「でも、わたしは、最初からロイスに送られたし……。そういえば、カレンの父親はわたしの父なんでしょうか?」
「それをあたしに聞くのかい?」
ミアは眉を上げた。
「調べりゃすぐわかるんじゃないかと思うが」
こちらに顔を向けて続けた。
「まあ、そうしたいかどうかは、あんたたちが自分で考えることだ」
ゆっくりとうなずく。カレンは自分の父親が誰かを知りたいと思うだろうか。
「考えたんですけど、わたしのペンダントは、本当はカレンのだったんじゃないかと。あれ、子どもの頃に父に渡されたものだし。それに、わたし、どう見てもミアやメイとは似てないし。だから、あなたの妹とは、正直、全然思えなくて……」
そう話している間、ミアは何度も首を横に振っていた。
「なあ、シャーリン、いったい何を考えてるんだい? そいつは、あんたが持つそのペンダントは、あんたに合わせて作ってある」
「ああ、そうでした」
変なことを考え始めている自分にあきれてきた。今日は少しおかしい。




