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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第1部 第4章

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103 ミアの家

 ムリンガ、船銘板はリンモアのままだが、の前甲板の点検用出入り口にシャーリンは腰掛けていた。

 西からやってきた嵐はすでに通りすぎたが、そのあと急に寒くなり風はとても冷たい。船が速度を出しているせいもあって体温が奪われる。


 大雨が降っている間、トランサーの動きが止まったため、少しだけ猶予が得られたのには感謝すべきだろうか。紫黒の海との衝突が明日まで回避されたことで、防衛体制が間に合うのではとの期待が膨らむ。


 空を見上げながら足を小刻みに動かして、その場ですばやく一回りする。まだ日が落ちたばかりではあるが、すでに上っている霞がかった大きな月の他に、星を見つけられない。


 体を動かしたことに抗議するかのように、リンが膝の上でもぞもぞと動いた。元の位置に戻ってじっとしていると、それっきり目を開くこともなく再び静かになった。


 こいつはいったい何を考えているのだろうか。わたしたちのように夢を見たりするのかな。そもそも、どうして人の膝の上で寝るのだ? もっと気持ちいい場所があるだろうに。


 かすかな身震いで船の速度が落ちるのがわかった。突然、両岸に橙色の灯りがいくつも連なって現れたことから、そろそろ停泊所に着くようだ。


 無防備な格好で気持ちよさそうに眠っているリンを見下ろし、一つため息をつくと、体の下に手を差し込んで両手で抱きかかえた。


 操舵室の角を曲がって進むと、ミアが舷側に立っているのを発見した。ということは、ウィルに操船をまかせているのか。振り返って操舵室を見上げる。彼は本当にミアの弟子になってしまったようだ。




 船が桟橋につながれる頃には、メイとディードも姿を見せた。ふたりともすでに両手に荷物をぶら下げている。


「シャーリンのも持ってきましたから」


 ディードはリンをじろりと一瞥(いちべつ)したあと、右手を持ち上げてかばんを見せた。と言っても、わたしの荷物は今着ている服と同様、すべてメイから借りたものだが。


「すまない、ディード。ウィルは?」

「すぐに来ます」


 桟橋に立って待っていると、操舵室を出て扉に鍵をかけたウィルが急いで階段を下りてきた。船室の戸締まりをしてきたらしいミアも反対側から現れる。


「ミアさん、すべて完了しました」


 ウィルは鍵の束を差し出した。


「そいつはウィルが持っていてくれ。あたしはもう一組持ってるから」


 ミアは手の中の鍵束を振ってみせた。


「えっ? どうしてですか?」

「実はウィルに頼みたいことがあるんだよ。ああ、もちろん、シャーリンの許可をもらえれば、の話だが」


 そう言いながら腕の中のリンをくすぐった。反応はない。




 どう答えていいかわからず黙っていると、ミアは話を続けた。


「万一に備えてウィルには、ムリンガをいつでも動かせるようにしておいてほしいんだよ。夜が明けたら、家に置いてある食料をここに運んで、水とかその他必要なもの、家にある大事なものを積み込んでくれるかな。あとで運ぶものについて相談しよう」


 念のため確認する。


「それって、ここまでトランサーが侵入してくることを考えてるんですね?」

「あくまで仮の話だ。明日の朝にはやつらがやってくる。もし援軍が間に合わなかったら……」


 ミアは肩をすくめた。

 ディードが彼女の言葉を引き取った。


「まずウルブ7の北側に侵入され、そのあとは、南地域にもなだれ込んでくる……」

「でも、セインから増援が来るはずです」

「あたしもそう信じてるが、いつでも備えを万全にしておくことは基本中の基本なんだよ、シャーリン」

「それは、わかりますけど……とにかくわかりました」


 ミアはうなずくと横を向いた。


「メイとウィルには家の予備の鍵も渡しておく。いつでも入れるように」

「それって、まるで……」


 驚くメイの前でミアは手をひらひらさせた。


「しばらくここに滞在することになりそうだし、あたしが一緒でないと誰も出入りできないのは不便だろ。あたしだっていろいろやることがあるんだよ」


 メイはおとなしく首を縦に動かして、受け取った鍵束の一組をウィルに渡した。その顔がいつになく気ぜわしげなのが見て取れる。

 ミアが歩き出すと、ほかの人たちも動き始めた。



***



 その夜はどうにも寝付けなかった。


 しばらくベッドの中で眠ろうと努力したが、何度も体の向きを変えてはそのたびに、何ら関連のない記憶が入れ代わり立ち代わり滑り込んできて、それを打ち消すごとに、光景は新たな場面に差し換えられていった。


 しまいには眠るのを諦めて、がばっと体を起こすとベッドから足を下ろし床につけた。足の裏のひんやりした感触が妙に気持ちいい。


 少しの間じっとしていたが、意を決すると立ち上がって下の階に向かう。冷たい水でも飲めばこのぐるぐるの思考も少しは落ち着くかもしれない。


 階段を下りる途中で居間が薄明るいのに気づいた。厨房に行くのはやめてそちらに歩いていく。部屋の中を(のぞ)き込むと、暗がりの中、長椅子の背当て越しにミアの頭が見えた。

 静かに声をかける。


「まだ起きてます?」

「シャーリン、眠れないのか?」


 彼女は振り返りもしなかった。


「はい。目がさえてしまって……」

「こっちにおいで」


 言われるがままにミアの左隣に、ふかふかのソファに腰を沈める。

 そこで初めて、正面の窓から右側一帯には町の(あか)りが広がり、左下には灯火に照らし出された船着き場が見えるのを知った。ここがかなりの高台にあることを再認識する。




 ミアは薄い桃色の飲み物を手にしていた。何のお酒なのかなと考えていると、こちらを見上げたミアに聞かれた。


「飲むかい?」

「お酒は飲まないので」

「これは酒じゃないよ。マラ」

「マラ? それ何ですか?」


 ミアはグラスを前の机に置くと、立ち上がって壁際の戸棚に向かった。


「マラは頭を落ち着かせる作用があるんだよ。ちょうど今のあんたのように、眠れない夜にはまさにぴったりだ」


 別のグラスと飲み物が入った瓶を持って戻ってくると、グラスをこちらに差し出した。

 いつものように左手が出かかったが、意識的に右手を伸ばして受け取る。

 ミアが少し顔をしかめた。


「その手、まだ具合が悪いのか?」

「いえ、もう治ったし全然問題ないはずなんです。でも、たまに違和感というか変な感じがして……」


 左手首をぐるぐる回してみせる。


「ああ、それはあれだな。痛みの記憶ってやつ。(ひど)怪我(けが)のあとで、たまになるらしい」

「記憶ですか?」

「そう、あんたの頭がそこに記憶を具現化するんだよ」

「はあ、そうですか……」


 自分でこしらえた傷の覚えは強烈なのだろうか。




「ところで、眠れないのは、何か心配事でもあるのか?」


 図星を指されて動揺してしまう。


「……いえ、別に、何がどうというわけじゃないです。自分でもどうしてかわからなくて。明日のことが影響しているのかもしれません。わたしは寝付きがいいほうだと思っていましたけど……」


 マラをグラスに注いだあとミアは言った。


「シャーリンは見かけによらず、実は繊細なのか。まあ、これを飲んでごらん。おいしいから」


 つかの間、ミアの顔を凝視する。何かだまされているような気がする。


 受け取ったグラスを持ち上げて、かなり絞ってある灯りにかざしてみる。光に揺らめき消えてしまいそうなはかない色がとてもきれい。


 グラスの口に鼻を近づけるが、匂いがほとんど感じられない。ひとくち飲んでみる。いきなり喉が熱くなった。


「うわっ! これ、本当にお酒じゃないんですか? すごい感触ですけど」


 左手で喉をぐっと押さえる。


「心配するなって。そのうち気持ちよくなって、そのあと眠くなってくる」


 あっという間に喉の熱は引いていき、そのあとにはさわやかな余韻だけが残った。


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