100 襲来と脱出
シャーリンは前方から来る車を見ながら考えていた。やはり何かあるのだろうか。
「ちょっと聞いてきます」
ディードはさっと車から降りて、ちょうど反対側からやってきた車に向かって手を振った。
ほとんどぶつからんばかりの勢いで止まった車に乗っている人に話しかけるのが見えた。
どういうわけか、不安感が増してくる。何だろう? 窓から頭を出し空を見上げる。それほど遠くないところに黒い雲が湧いているのが見えた。
すぐにも嵐が来そうな気配が漂っている。空気がいやに生暖かく感じられる。
いままで黙ってじっとしていたミアが、突然顔を上げると車からすばやく降りた。ディードのところに駆け寄っていき、何か話している。
さらに二台の車が上ってくるのが見えてきた。これは、ただごとではなさそうだ。動悸が激しくなってくる。
シャーリンは車の中で腰をずらして移動すると、ミアが降りた扉から出た。
ディードとミアのところに行こうとしたとき、ふたりが急いで戻ってくるのが見えた。
止まっていた車はすぐに発進して、自分たちが降りてきた山に向かった。
ミアが激しく手を振った。
「シャーリン、車に戻れ」
「何かあったんですか?」
ミアは駆け寄ってくると怒鳴った。
「いいから、早く乗れ。ほら、奥に入って」
急いで車の中に入り、ミアが乗り込んでくると体をずらして移動した。ディードはすぐに車を発進させ、あっという間に速度を上げると、緩やかな坂道を下り始めた。
ミアは大きく息をついたあとこちらを見て言った。
「海が迫ってくる!」
海? ここは内陸だと考えていると、ディードが叫んだ。
「トランサーだ」
「でも、紫黒の前線はずっと北に……」
「きっと、壁が突破されたに違いない」
「それにしたって、ここから少なくとも20万メトレは離れていて……」
「もちろんそうだ。でも、彼らは西から迫る黒い海を見たらしい。とにかく町は大変なことになっているようだ」
「西? なんで西なの? 何かの見間違えじゃないの? あの嵐とか」
「さあ、わからん。北からのとは違うやつかもしれない。とにかく、町に戻ってこの目で確認しないと」
「町から見えるということは、すぐそばに迫ってるということでしょ? どうして今までわからなかったの? わたしたちが町を出るときはそんな雰囲気はまったくなかった」
ミアがぽつりと言う。
「昨日は聞き逃していた。へまをした。あれはこのことだったに違いない」
「でも、それならどうして今になって……」
「昨夜はまだここまで来ると断定できなかった……たぶんそういうことだ」
「でも、どうして、そんな急に現れるんです?」
「全然わからない。もしかすると、トランサーの移動がすごく速いのかも。うん、そうとしか考えられない」
町の中心部に近づくと、道が大混雑していた。大勢の人で溢れかえっている。全員なんらかの荷物を背負っている。逃げようとしているのか? この町にはこんなに人がいたのか。驚き。
しばらくはゆっくり車を進めたものの、どんどん遅くなる。
「こりゃだめだ。歩くしかないよ、ディード」
ディードは近くの空き地に何とか車を入れて止める。
「確か、向こうに、通信塔があったはずだ」
そう言ったミアは人混みに逆らって少し先の開けた場所まで走っていくと、立ち止まってこちらに手を振った。
それを見てディードが歩き出した。
「行くぞ」
「この車はどうするんですか?」
「ここに置いていくしかない、ウィル。まずはとにかくその塔に上って確かめないと」
ミアはすでに角を曲がって見えなくなっていた。ほかの四人も道ばたを走って彼女を追う。
全員が通信塔にたどり着いたときには、あたりの人影はすでにまばらになっていた。そびえる塔を見上げる。
「この上に行くんですか?」
「ああ、あそこまでは誰でも上れる」
ミアは塔の中間あたりにある展望台のようなものを指差した。
「わかった、上るぞ」
ディードは階段まで走ると勢いよく駆け上っていった。
シャーリンがやっと展望台にたどり着いたときには、足ががくがくしてへたり込んでしまった。
「これは大変だ」
ディードの大声が聞こえる。
シャーリンは手すりに掴まって何とか立ち上がると、声のするほうに進んだ。突然目の前にはるか先までの絶景が広がる。
最初はわからなかった。西側が黒く見えるのは、近づいてくる嵐の雲だと思った。もう一度よく見ると、灰色の帯の下側でさらにもっと濃いものが波打っているように感じた。
地面が蜃気楼のようにかすかに揺らめいている。あれが、トランサーなの?
ディードは単眼鏡を取り出ししばらく目に当てていたが、手を下ろすとそれを無言でこちらに突き出してきた。
彼から遠視装置を受け取った。手すりに胸を押し当てて体を安定させ、目をつけて覗き込む。
すぐに、黒い海が目の前に広がった。遠すぎて単眼鏡では、はっきり見えるわけではないが、黒いものと茶色い地面の境目が前後に波打つように動いている。
川から少し離れたところをこちらに進んでくるようだ。トランサーは水を嫌うことを思い出した
「あのまま進んでくると二、三時間でここに到達するぞ」
「でも、ディード、川向こうだから……」
トランサーは水には入ってこない。
「町は川をまたぐように作られている。たいていの町は」
「トランサーが橋を渡って南側に来るということ?」
「たぶん。だからみんな逃げてるんだ」
「それじゃあ、どうするの?」
それまで黙っていたミアが口を開いた。
「ウルブ5には、作用者がいないし、もちろん、やつらを防ぐ壁だってない。来たらおしまいだ」
「どうします?」
「ここが襲われたあと、そのまま東に進めば……」
「次はウルブ7」
「そうだ、シャーリン。急いで戻らないと。あそこも危ない」
「でも、戻ってどうするんです?」
「ウルブ7には、防衛組織がある。一応……」
「でも、あの大群を止めるには……」
「ああ、わかってるさ。ウルブ7が持っている自衛軍ではとてもだめなことぐらい。でも、セインからの増援があれば……」
「でも、あれを阻止するには相当の……」
ミアはこちらを向いて言った。
「とにかく、あれがここまで来る前にあたしの船を出さないと」
ディードを先頭に全員が急いで階段を駆け下りた。下にたどり着いたときには、再び足に力が入らなくなっていた。もう一歩も動けなかった。
最後にメイが降りてくるとそのまま階段に座り込んだ。
「あんたたちはすぐに船に戻れ」
「ミアさんは?」
「あたしは、車の持ち主のとこに行って返してくる。こんな状態じゃいるかどうかわからんがね。とにかく置いてくる。そのあと船に戻る。ウィル、船を出せるように準備しといてくれ。あたしが戻ったらすぐに出発するんだ」
ミアから鍵を渡されたウィルは答えた。
「はい、わかりました、ミアさん」
ミアは振り向くと、階段にうずくまっているメイに声をかけた。
「メイ、大丈夫か?」
メイが顔を上げてうなずいた。顔が真っ赤だ。
「ほかの作用者に気をつけろ。やつらも来ているかもしれない。ちゃんと遮へいしといたほうがいい」
メイが再びうなずくのを見たミアは、すぐに走っていなくなった。残りの四人は港に戻る道を歩き出した。
***
シャーリンは、桟橋でいらいらしながら待っていた。
ミア、遅いよ。すでに近くに停泊していた船はどれもいなくなっていた。すべての船が東に向けて出発したあと。
ここからでは、トランサーの群れがどこまで迫っているかはまったくわからないが、近くにはすでに人っ子ひとりいなくなっていた。あんなに大勢の人が山に向かって大丈夫なのだろうか? ウルブ5の人口ってどれくらいだっけ?
やっとミアがこちらに向かって走ってきた。
「遅くなってすまん」
ミアが船上の人になるとすぐにディードが桟橋に結ばれていたロープを切り離した。ムリンガは少し震動したあと桟橋から離れる。
「シャーリン、どこまで来ている?」
「ここからじゃあ、全然見えないので確認できない。でも、川の中にいれば襲われることはないでしょ?」
ミアは操舵室に向かいながら言う。
「たぶん」
ミアに続いて操舵室に入る。
「ウィル、念のために川の南側を進んだほうがいい。水を越えてくることはないが……」
「はい、船長」
ウィルに操船をまかせて、それ以外の人は船尾室の屋根に上がって後ろを見ていた。まだ何も見えずどうなっているかまったくわからない。
いったん下に降りたミアが大型の遠視装置を持って上がってきた。屋根の上に据え付ける。
「あたしたちはルリ川を上がってるから、町から離れれば向こう側が見えるようになるはずだ」
二時間くらいたつとしだいに西側が見渡せるようになってきた。しばらく遠視装置を覗き込んで調整していたミアは頭を上げるとこちらを見た。
「こちらに向かってくる」
「それで町は?」
「見てごらん。町は素通りしたようだ」
「どうして?」
「わからない」
しばらく覗いていたディードが言う。
「確かに川から少し離れたところにいるようだ」
「よし、そうとなれば、全速力でウルブ7に向かうよ」
ミアは屋根から飛び降りると操舵室に走っていった。残りの人はかわりばんこに遠視装置を使い不気味な黒いものを見た。
こちら側の先頭が見えるだけでその後ろがどうなっているかはまるでわからない。
***
日暮れが近づいてきた。
シャーリンはロメルで新しく据え付けられた白いドームに寄りかかって後ろの景色をぼんやりと見ていた。
突然、視界の左側に砂じんが見えた。なんだろうと思って目を凝らすと、一台の車が川岸を走っていて、その後ろから土ぼこりと思しき煙がもうもうと尾を引いていた。あれはいったい何だ?




