そして時は動き出す――
※このお話はフィクションです(令和四年六月二日修正)。
あの戦争から、早くも二十二年が経った。
ここハルキウは、戦禍に曝され破壊された街が、見違えるように美しく整備された。
今や夏季オリンピックが開催出来るまでに復興した街で、私はあの九月二日を思い返している。
日本国天帝第一皇女殿下が提案した、新国家への合同案について、最終的にプッティン氏は、
「ニェット」
と言うことになった。
曰く、国には「格」というものがある。経緯がどうあれ、我が国が戦争に負けたことは明らかだ。
然るに、我が国と貴国、そしてウクライナ国が対等に合同するのでは、絶対に国が纏まらない、と。
「であるが故に、我が国はその提案に対し、「ニェット」と言わざるを得ない。
代わりに、私はロシア大統領として、次の条件で貴女に対して降伏する。
新国家という新しい世界の実現を、孤立無援の敵地に赴いて、なお臆することなく、やり遂げて見せると言ってのけた、貴女に対して、だ。
貴女が提案した新国家への合同に際し、その共同元首として貴女を皇帝として推戴すること。
以上だ。」
皇女殿下が一言、
「その提案を受諾いたします」
と述べたその瞬間、ロシアは日本国天帝第一皇女殿下の私領となった。
従って戦争状態を継続する論理的根拠が消失し、交渉の行方を固唾を飲んで見守っていた人々は歓声を上げた。
論理としては無茶苦茶だったが、日本がウクライナにジョブチェンジしたことを思えば、今更何をか言わんやといったところだった。
そして自動的に、日本国、ウクライナ国、ロシア国が合同した新国家の建設へ向けて、驀進することが定められた。
散々不法行為を冒してきておいて、今更定めに従うのか、と思わないではなかったが、日本人は基本的にミカドの言葉には服する気質があり、そして実際に、そうなった。
ロシアが降伏した瞬間から、世界中の為替と株価は回復基調に入った。
ウクライナでは旺盛な復興需要があると見込まれ、ロシアの降伏で宙に浮いた各国の防衛費は、そのまま市場への財政出動へ付け替えられた。
日本国の暴走に遭ったトルコへは、ボスポラス海峡トンネルの建設費全額負担と、同海峡に掛かる橋の架け替え事業の全額負担でなんとかご納得いただいたが、黒海に進出した艦艇の、帰国に際する通行は認められなかったため、結局ウクライナへ進出した遣欧統合任務部隊・海上支隊は、そのまま黒海に骨を埋めることになった。
一番割りを食ったのはアメリカだったかもしれない。
結局、日本国政府が脅しに使った、拿捕した原子力潜水艦は本当に脅しでしかなく、実際には速やかに小笠原海溝に沈められていた。
アメリカの聴音網でもそれを検知出来なかったなんて、不思議なこともあるものである。
在日米軍による吉田政権転覆未遂事件は当然国際問題になり、在日米軍は日本国から放逐されることになって、日米安全保障条約も破棄された。
アメリカは当然色々と文句を言い立てたが、来るべき新国家建設に忙しい日本国にとっては、あれだけのことをされてなお、色々とお高い買い物してやってるんだから、愚痴愚痴言うんじゃないよみっともない、と言うのが本音だった。
げに恐ろしきは「それはそれ、これはこれ」という使い分けだった。
第二次世界大戦後、色々と言い分を言い聞かせられてきた鬱憤を、晴らしていただけとも言う。
日本国、ウクライナ国、ロシア国は皇女殿下の宣言通り合同し、新たな国号を「ムリーヤ」に定めた。
あの戦争で破壊された世界最大の輸送機、アントノーウAnー225の愛称を冠した国号は、国家合同に際して国号の候補を公募する中で、圧倒的多数を占めた。
日本語では方言で「そんなん無理ーや」と否定系で使われることもある音の並びだが、皇女殿下の、
「これ! これが良いです!」
という特別な思し召しがあったことは、特記しておきたい。
その皇女殿下については、何やらあの九月二日に至るまでの道程で思い通わせた相手が居たらしく、ある日突然、九月二日の騒動で同道していた、ロシア人の純朴そうな男性を連れて来て、
「私はこの方と結婚します!」
という一悶着があったのだが、今となっては笑い話の一つになっている。
皇女殿下は新国家の発足と同時に即位され、ムリーヤ国初代皇帝ムリーヤ・ノ・チカコ一世となられた。
その即位は奇しくも九月二日であり、第二次世界大戦の降伏調印式その日であり、また後に第三次世界大戦と名付けられたあの戦争の、ロシア降伏宣言その日であり、またプッティン氏が亡くなった日でもあった。
プッティン氏は降伏直後、大量に喀血して病院に運び込まれた。
彼の身体は死病に冒されており、彼の死後どう足掻いても荒れることになるロシアを憂いての開戦だったことが、後に判明したが、今更どうにもならなかった。
彼の身体は到底裁判に耐えることが出来ず、実際、ロシア軍の完全な武装解除を見届けた後、昏睡状態に陥り、そのまま二度と目覚めることは無かった。
だからと言ってはいそうですかと受け容れられる程、あの戦争は生易しいものではなかったし、許せるものでもないけれど、それでもあの過去があって、現在があることだけは、認めても良いのではないかと、今では思う。
あの戦争で、私は腕を喪失ったけれど。
今、こうしてこの文章を書いている意味と、人を愛することの意味を、知ることが出来たのだから。




