第41話 夜歩き
この匂いは薔薇だろうか?
こっちの世界にも香水、のようなものはあるようだ。
濃密で蕩けそうな、存在感のある香り。
それは確かに彼女に似合っている匂いなのかもしれない。
けれど、いい香りも強すぎれば毒になりうる。
未だ花開かぬ頃だからこそ、彼女は平穏に生きられているのだろう。
少女でなくなったとき、彼女は果たしてどうなってしまうのか。
私には分からない。
ただ、少なくとも、この国がこのまま何の干渉も受けずにあり続けたなら、おそらく彼女の道行きの先に幸せは待っていない。
私はそのことを、知っている。
さて。
まぁ、とにもかくにもだ。
私はこんなところで追い出されるわけにはいかない。
少しは協力してやるか、と一体何様なのか分からないことを思った私は、その人の胸元から飛び降りた。
◆◇◆◇◆
「あっ」
エリナとハルファルが永遠とも思えるような沈黙に緊張を覚えていたそのときだった。
エリナの抱いていたそれ――黒猫はエリナの胸元から飛び出す。
ハルファルは一瞬驚いて腰のものに手をやるが、それがただの黒猫だと気づくと、すぐに元の体勢に戻った。
「……猫、ですか」
「え、えぇ」
いいえ、魔族ですわ。
とはエリナもいう訳にはいかなかった。嘘をつくのは心苦しいが、肯定するしかない。
幸い、黒猫の背中についている羽は小さく、ぱっと見では分からない。だからこそつけた嘘だった。
黒猫はエリナの足元を過ぎ、エリナの部屋の扉の前で止まった。
そして前足をあげると、かりかりと扉をひっかき始める。
「あぁ、だめよ。ひっかいては扉に傷がついてしまうわ……」
そう言ってエリナは黒猫を再度抱き上げる。
黒猫は抵抗しなかった。
ハルファルはそれを見て、これ以上止める理由もあるまいと、一言言って踵を返す。
「殿下。動物好きもよろしいですが、あくまで動物は動物。御身に危険のありませんよう、お気をつけて接してくださいませ。それでは、私はこれで」
その姿はまさに騎士の模範と言うべき姿である。
エリナも、彼に微笑んで見送った。
「ええ。お心遣い、感謝を。心に留めておきますわ」
そうしてエリナは部屋に黒猫を連れ、入っていく。
エリナもハルファルも、あまりお互いのことを知らなかった。
それぞれ、その肩書と、伝え聞く性格を知っている程度だった。
だから、おそらくこれから先、関わることはない、とこのとき考えていた。
けれど、運命と言うのは時として奇妙な方向に繋がる。
それは誰も考えていない方向に捻じれ、伸び、そして結ぶのである。
だから――
別にそれは、誰かの手が加わったわけではない。
人の手が加わってそうなったわけではないのだ。
もちろん、猫の手ですら、ありはしない……はずである。
◆◇◆◇◆
あまり強く抱きしめられると苦しい。
いくらなんでも王女様なのであるから、眠るときはその辺の侍女に引っ張っていかれるものかと思っていた。
けれど王女様は意外に強情で、拾ったばかりの黒猫に奇妙な愛着を感じたらしい。
いや、違うのだろうか?
彼女の私を見る目線には、どことなく保護欲以上のものを感じた気が……まぁいいか。
そんなことより、大事なのは私の仕事である。
王女様の寝台をするりと抜け、人型に戻る。
黒猫から人の姿に戻るといつも体がぱきぱきと痛くなる。
成長痛の仲間なのか、と疑っているが、フェラード氏やミリアは別にそんな風にはならないらしい。
私だけ?
いったいなぜ。
そんなことを思うが、答えは分からない。そのうち魔国の研究所が解明してくれることを期待しよう。
王女様の寝室を抜け、廊下に誰もいないことを確認する。
遠くに衛視が持つ灯りがゆらゆら揺れるのが見える。
しかしここに来るまでにはしばらくかかるだろう。
私は手元に“本”を呼び、読む。
「……“光よ、曲がれ。人の目に留まらぬように、闇より先に進まぬように”」
僅かに魔力の収束する感覚がした。
ここは王宮であるから、魔法の使用が出来ないように色々な結界が張ってある。
けれども、私には魔国の優秀な発明品、魔法符がある。これがあれば自分の周囲だけ、結界の無効化が出来てしまう。
そのあまりの便利さに理不尽さを感じないでもないが、まぁ、魔法符すべてがこうなわけではない。
私の魔法符が特別なだけである。
なにせ私のためにオーダーメイドで作られたものであるからだ。
そもそも他の魔族に結界無効化、などという特別な仕組みはいらない。彼らは自前でやるからだ。
こんなものが必要になるのは私が自分の力をろくに御しきれていないからで、そのことがここに来る前から明らかだったからフェラード氏の取り計らいで特製魔法符を支給してもらった。
なので私は安心して任務に励むことができる、というわけである。
とことこと、廊下を歩き、目的の場所まで進む。
衛視とすれ違うが、彼らは私の存在に気付かない。
私の姿は彼らには魔法により視認できないからだ。
注意すれば見えるのかもしれないが、この王宮では通常、魔法は使えないと言う先入観がある。
そのため、彼らは魔法的な視覚に基づいてものを見ようとはしていないため、私が見つかる可能性は限りなくゼロに近いのである。
そうして、悠々と私は目的地にたどり着く。
そこはエリナが昼間いた場所。
そう。
国王の眠る部屋。




