三つ星ホテルとプレイボール
金曜日の午後、待望のフランス行きだ。なのにちっとも嬉しくないのは、隣に座る五十嵐のせいだ。いっそのこと、森崎の方がマシだった。千堂はなに考えてるかよくわかんないからパス。
「エコノミーのシートは狭すぎて足がつかえる」
とおっしゃる五十嵐さまのご要望により、毎度の渡航はエコノミーではなくビジネスクラスだ。出張費を毎度チェックしているだろうに、なぜか課長は文句を言わない。五十嵐の知り合いは多分相当の大物なんだろう。
私は五十嵐との会話を避けるべく、機内に備え付けてあるテレビで映画を見る。よりによって、飛行機が落ちる映画だ。ハラハラドキドキするから五十嵐のことは考えなくてすむけど。映画内で機体が不時着しようとしたその直後、テレビ画面が文字に切り替わる。
「大気の状態が不安定なため、空港に引き返します」
「えっ」
私は慌ててイヤホンを外す。いきなり飛行機が揺れて、体勢を崩した。なんだか、さっき見たアメリカ映画みたい。窓の外に真っ黒な雲が見えて、思わず五十嵐にしがみつく。五十嵐が囁いてくる。
「怖いのか」
「べっ、べつに」
私は慌てて五十嵐の腕から手を離した。彼の視線が突き刺さって、居心地が悪い。もう、早くついてよ。飛行機は十分とたたずに、空港へ引き返した。添乗員に次のフライトはいつか確認すると、彼女は困った顔で告げた。
「上空は積乱雲ができてましてねー、今日のフライトは無理そうです」
「そんな」
仕方ない。明日仕切り直せばいいか……。そう思っていたら、五十嵐が電光掲示板を指差した。
「落雷でパンタグラフが壊れたらしい」
「……はい?」
「復興は明日になるそうだ」
ぼんやり電光掲示板を眺める帰宅難民たち。なんかデジャブ。
「ま、待って。代替輸送のバスがあるはず」
五十嵐はSNSで画像検索し、バス停の様子を見せた。バスとタクシーを待つ列は、すでに長蛇だ。
「バスの場合、途中のO駅までしか行かないから、その先はまたタクシーの列に並ぶことになる」
「うわ……」
「並ぶか?」
五十嵐と数時間無言で肩を並べるのか。
「……ホテルの予約って」
「念のため調べた。例の最悪なホテルなら一部屋空いてる」
やけに手際がいい。もしかして、五十嵐健人は超能力を駆使して天候を操ったりできるんじゃないのか。なんて、くたらないことを考えてしまうぐらいには私はパニクっていた。
「ホテル予約して。チケット、払い戻ししてくるから……」
私はヨロヨロとカウンターへ向かった。考えてみたら、一晩一緒に過ごす方が気まずいと気づいたのは予約してしまった後だった。
駅からホテルまでは少し歩く。その間に、私と五十嵐はずぶ濡れになった。かくして、五十嵐と私は外国人御用達ホテルに再臨した。フロント係は五十嵐を覚えていたようだ。
「お客様、あいにく本日は」
「わかってる。耳栓を用意したから心配するな」
五十嵐は文句も言わず、素早く鍵を受け取った。早くシャワーを浴びたい一心だろう。部屋に入ると五十嵐は濡れた上着を脱いで、
「風呂、先に入れ」
「いいよ、五十嵐先に」
「なんなら一緒に入るか」
「いや、狭いから無理だよ」
「……言い合いしてる時間が無駄だ。早く入れよ」
私はバスルームに入って考える。今の冗談だったのかな。真面目に返してしまった。お風呂に入ったあと、コンビニで買った弁当を食べ、お茶を飲む。こないだと同じ。五十嵐と並んで眠らなきゃならないと思うと気が重い。テレビをボーッと見ていたら、いきなり電気の明かりやテレビ放映が途絶えた。あ、これは停電だ……。部屋に沈黙が落ちる。
「えっと、寝ようか」
「ああ」
私と五十嵐は背を向けて寝転がった。ガタガタ、ドンドン、ガヤガヤ。ノックの音や、異国の言葉があたりに響いていて眠れない。
──なんでいつもこうなるんだろ。もしかして呪われているのか。スティーブン・キングの小説みたいに、この部屋に戻ることになってるとか? こわい。嫌だ。五十嵐とぐるぐるおんなじところを回らなきゃならないなんて悪夢だ。
──莉子といると疲れる。あの言葉を忘れられないまま、私は生き続けるのだろうか。涙がにじむ。暗闇でよかった。
五十嵐は耳栓して、もう寝てるだろうし──。ふと、身体に回った暖かい感触が、私の思考を止めた。
「っ」
「泣かないって言っただろ」
五十嵐の声が耳元に降る。その声はやけに優しく響いて、なんだか胸が締め付けられた。私は声を震わせ、
「アウト。離さないと訴えるわよ」
「野球はツーアウトからだ」
「とっくにスリーアウト出てるわよ。もう退場よ」
「怒るな。あれはあいつらが勝手に賭けとか言い出したんだ」
「知らない。興味ない。私は競走馬じゃないのよ」
「傷ついたのは、俺が好きだからだろ」
ばかじゃないの。自信過剰だ。
「嫌いよ、あんたなんか」
「俺は、莉子が好きだ」
五十嵐がつぶやいた。
「初めて会った時、リモージュ焼きを絶賛してた」
──新入社員の方ですよね? このギャラリー、貴重な食器ばかりですごいですよね!
それから一度も俺の方を見ずに、ひたすら食器について褒めまくった。
「この女は食器にしか興味がないのかって思った。食器は大事にするくせに、俺をぞんざいに扱うところも腹が立った」
──五十嵐、事故にあってもその食器だけは割らないでよ。
私そんなひどいこと言ったかな。
だって五十嵐は壊れたりしないから。自信に溢れた強い男だと思ってた。
「気になるのは、他の女と違うからだと思ってた。大体、彼氏持ちなんか好きになるのは無駄だ」
好きになんかならないと言い聞かせてた。
「だけど……飛行機の中で莉子が泣いてるの見て、胸が苦しくなった。抱きしめたくなった」
それはきっと、ただの同情だ。
「私タバコ、吸うよ」
「本当は嫌だが、我慢する」
「女の子らしくないよ。料理下手だし」
「くだらない」
和彦の料理は美味しくて、すごいって思ってた。魔法みたいに美味しい料理を作る和彦のこと、尊敬してた。美味しいよ。和彦は才能あるね。彼の料理を食べるたびにそう言ったけれど、彼には伝わってなかった。男の人が嬉しくなるようなことも言えないのだ。
「彼氏に、別れ話するのすら億劫だと思われた」
「あいつはただの臆病ものだろう。俺は逃げない。逃げずにおまえを愛する」
「なんでそんな恥ずかしいこと言えるの」
「恥ずかしいと思わないからだ」
すごい。今心底、五十嵐をすごいと思った。大学がどうとか海外帰りだとかどうでもよくて、五十嵐はすごいやつなんだと思った。彼の言葉は150キロのストレートボールみたいに、胸に響くのだ。ストライク。私の負け。私は、五十嵐にしがみついた。
「嫌い……だけど、ぎゅってして」
私はストレートが苦手で、変化球を投げることしかできない。五十嵐は私を抱きしめて囁いた。
「莉子はワガママだ」
「け……健人には言われたくない」
名前を呼ぶのが恥ずかしい。
唇が重なって、五十嵐の指先が私の指に絡んだ。
ガタガタ、ゴトゴト、ガヤガヤ……。賑やかな音に、私は瞼を震わせた。ゆっくり瞳を開くと、ぼんやりした視界に五十嵐の姿が映り込んだ。いつから起きていたのか、じっとこちらを見ている。私は目を泳がせながら挨拶する。
「お、はようございます」
「おはよう」
二人とも服を着てないから、目のやり場に困る。私は五十嵐に背を向けて、急いで服を着る。背中に視線を感じ、背後を睨んだ。
「ちょっと、見過ぎだよ」
「莉子の背中は真っ白で綺麗だ。まるでリモージュ焼きみたいだな」
真顔で何言ってんの。私は真っ赤になった。
「う……うるさいよ。リモージュ焼きは嫌いなんでしょ」
「美しいと言ってる。少しは素直になったらどうだ?」
私は五十嵐に手を突き出した。
「耳栓貸して」
「今はさほどうるさくない」
「同室にいる人の発言がすごい恥ずかしいから耳を塞ぎたい」
「何が恥ずかしいんだ」
「録音して聞けばいいよ」
ようやく服を着て、備え付けのお茶で一服する。
五十嵐は廊下から聞こえてくる騒音を、和やかな顔で聞いていた。
「居心地は三流以下だが立地はいいし、素晴らしいホテルに思えてきた」
「よかったね」
そろそろフライトの時間だ。
「行こう」
私は五十嵐とともに部屋を出た。もうこの部屋に来ることはない……と思いたい。外に出たら、青空が広がっていた。
翌月曜日、出勤したらシホちゃんが寄ってきた。
「莉子先輩、五十嵐先輩との出張どうでしたか〜」
「うん、待望のリモージュ焼き、市場で買ったの。写真みる?」
うきうきとスマホを取り出すと、シホちゃんはわーすごーい、と歓声をあげた。そのあと突っ込む。
「いや、リモージュ焼きじゃなくってえ、ラブ的な展開はなかったんですかあ?」
私が赤くなったら、シホちゃんが食いついてきた。
「えっ、あったんですか? 聞きたい〜」
「な、何にもないよ」
私は急いで自分の席に向かった。パソコンを起動させていたら、誰かがデスクにもたれた。顔を上げたら、森崎と視線が合った。彼は野球のボールを弄んでいる。
「五十嵐とやった?」
朝からなんなの、その質問。
「……セクハラだと思うけど、それ」
「だって賭けてたから」
自分の勝ちを確信しないと気が済まないらしい。私はボールを奪い、
「やったわよ。だから?」
森崎が目を瞬いた。私は非常階段を降りていき、腹立ち紛れに壁にボールを投げつけた。跳ね返ったボールをキャッチしていたら、頭上から声が降ってきた。
「森崎に何か言われたか」
見上げたら、五十嵐がこちらを見ていた。
「やったかって聞かれた」
五十嵐が眉を寄せる。
「あいつ……」
「やったって答えといたわ」
「おまえはすごい女だな」
恥ずかしかったらあちらの思う壺ではないか。五十嵐は私からボールを受け取り、上に放り投げた。それをキャッチし、
「今度のデートは野球にでも行くか?」
「いいわね。五十嵐はどこのファン?」
「もちろん、一番人気がある球団だ」
「ほんと? 一緒ね」
私と五十嵐は、同時に球団の名を口にした。
「広島」
「巨人」
私たちは顔を見合わせる。
「ちょっと、巨人ってあり得ないわよ」
「広島が一番人気? そっちがあり得ない」
「何がよ。一番強いし一番人気あるわよ!」
「じゃあどっちが一番か、じゃんけんで決めよう」
「いいわよ。じゃーんけーん」
結局、私と五十嵐は気が合わないのだ。私たちの声が響いたのか、同僚たちが非常階段の扉から顔をのぞかせた。
私がパーを出し、五十嵐がチョキを出す。私は負けじと拳を握る。
「三回勝負!」
シホちゃんが犬猿カップルですねえ、と呟くのが聞こえた。
犬猿ラバー/おわり
完。
今日、広島負けちゃいました_(:3 」∠)_




