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元彼とハーバード男(2)

 日曜日、私はセラミック美術館の前で五十嵐を待っていた。意識してるみたいで嫌だから、あえて普段着を着てきた。ウォッシュジーンズとリネンのシャツ。我ながら林間学校にいく男の子みたい。しばらくして、五十嵐がやってきた。


「おはよう」


 五十嵐は私を見て沈黙。


「……」

「なによ」

「ラフだな」


 なにその感想。


「可愛い服とか似合わないし」

「ラフだと言っただけだろう」


 五十嵐は明らかに落胆している。少しは洒落てくるべきだったんだろうか。でも、元カレとのデートに着た服で五十嵐と歩くのは、なんだか嫌だった。


「ねえ、五十嵐。付き合ってる人いる?」

「俺はいま、誰とデートしてるんだ?」

「私だけど」


 彼氏彼女って感じがしないのは、相手が五十嵐で、目の前に食器があるからだろうか。この組み合わせは、どうしても仕事を思い起こさせる。私は、ガラス越しに展示物を指差した。


「わあ、綺麗。見て。これリモージュ焼きだよ」

「初期のものだな」

「いいなあー、フランスに行ったら絶対ゲットするんだ」


 その時のために貯金もしてある。うきうきする私を見て、五十嵐がかすかに笑う。


「嬉しそうだな」

「食器が好きなの」


 五十嵐もでしょう? その問いに、彼はかぶりを振った。


「俺は嫌いだな」

「……なんで?」


 つまらない話だ。五十嵐は冷めた声で言う。


「話してよ、気になる」

「──うちには、リモージュ焼きのティーセットがあった」

「さすがおぼっちゃま」

「いつもしまいこまれてるそれが使われるのは、両親が催すパーティの時だった」


 仲が冷え切っているくせに、ゲストの前では仲良くしてみせる。両親はゲストに俺を自慢した。学校で一番の成績なんです。運動神経も抜群で、こないだバスケの大会で優勝を……。


 リモージュ焼きを自慢するのと同じ口調で、両親は五十嵐のことを話した。普段は息子になんの興味も見せないくせに。


「俺は食器と同じ。普段は目もくれないが、他人が来たらパフォーマンスの道具にされる。違いはただ一つ。口答えするってところだ」


 その横顔は無表情だった。私は思わず、五十嵐の手を握った。


「……なんだ」

「え? あ、ごめん」


 慌てて離そうとしたら、彼が握り返してくる。


「同情されるのは嫌いだが、莉子の気がひけるなら悪くない」


 話したくなかったはずなのに、無理に聞いてしまった気がしてならかい。


「食器が嫌いなのに、なんであの会社に入ったの」

「知り合いに誘われたから。バイリンガルが欲しいと彼は言った。あいにく物を見る目はあるから、仕事には支障がない。それに……」


「それに?」

 彼は私に視線をやり、

「見学に来た時、ギャラリーで変な女を見かけた。その女は、リモージュ焼きのカップに張り付いてた」

「私?」

「他に誰がいる。俺がいたら、大抵の女はこっちを見る」


 すごい自信ね。


「俺が嫌いな食器を、目をキラキラさせて見るおまえが嫌いだった」

「なら、どうして」


 どうしていま、こうなっているんだ。


「食器に負けるなんて俺のプライドが許さない。リモージュ焼きがなんだ。たかが無機物だ。だからこっちを向かせたくなった」


 手を握る力が強くなり、私はびくりと震えた。昔、五十嵐が憎んだリモージュ焼きは、そんなこと知らずに美しく輝いている。こんなに綺麗なものを、五十嵐は嫌いにならざるを得なかった。


「嫌いにならないでよ。食器は悪くない」

「別にいいだろう」

「だって、五十嵐が辛いでしょ」


 私たちは食器を愛し、食器に囲まれてする仕事なのだから。


「健人だ」

「……健人」


 名前を呼んだら、手の力が緩んだ。私は解放された手で胸元を抑えた。心臓が痛い。ガラスに映り込んだ顔は真っ赤だ。五十嵐は素知らぬ顔で、


「ランチを食べよう。何がいい?」

「ラーメンとか」

「デートだぞ」


 ラーメン美味しいのに。


「じゃあ、五十嵐の好きな店でいい」


 わかった、と言って、五十嵐はタクシーを呼んだ。タクシーは私と五十嵐を乗せ出発する。私は、上がるメーターにハラハラした。たどり着いたのは、閑静な住宅街にたつレストランだ。落ち着いた雰囲気で、すごくいい店だ。私は五十嵐の袖を引いて囁いた。


「ねえ、ここ高いんじゃない?」

「さあ。美味いものを食うときに値段なんか気にしない」


 このおぼっちゃまめ。出された料理はどれも美味しそうだったが、それよりもまず食器に目がいった。


「わっ、このお皿、メルチェのだよね」

「ああ。オーナーがメルチェ好きらしい」

「素敵だね。お店の雰囲気にもぴったりだし」


 私がお皿を撫でていたら、五十嵐がじっとこちらを見ているのに気づいた。


「なに」

「和彦はどんな男だった」

「は?」

「莉子は食器以外には興味がない。なのに和彦に振られて泣くほどダメージを受けている。よほどいい男だったのかと思った」

「……普通の人だよ」


 五十嵐みたいに、女の子にきゃあきゃあ言われるような人じゃない。優しくて、綺麗に食器を洗う人だった。あの、ささくれた指先が好きだった。


「料理人だったの」


 私は呟いた。


「有名な店で修行して、自分の店も出して……だけどうまくいかなくて、閉店。修行先に戻ったけど、出戻りだってみんなに噂されてたみたいで」

「だからなんだ」

「私、もっといい店があるんじゃないかってツテを当たったの」


 いい店が見つかったから、さりげなく紹介してみた。だけど和彦は、それを突っぱねた。ギクシャクし始めたのはそれからだ。五十嵐は顎に手を当て、目を細めた。


「それはまずいな」

「え、そ、そう?」

「和彦はプライドをいたく傷つけられたはずだ。自分の女に職を世話されるのは、大抵の男が嫌がる」

「どうして?」

「理屈じゃない。そういうものだ」


 五十嵐はそう言って水を飲む。


「和彦は、私のほうが給料がいいこととか気にしてて」


 私の言葉に、五十嵐は端的に返した。


「クズだ」

「え」

「そんなことを気にするならさっさと転職すればいい。何もせずにぐだぐだ言ってるのは、自分の能力を過信してるただのクズだ」


 人の元彼をクズ呼ばわりって。


「振られてよかった。価値のわからない男にはもったいない」


 私の価値ってなんだろう。そもそも、人間に価値がつけられるのだろうか。レストランの料理や食器にはちゃんと値段がついている。お給料が高いと、その人の価値も高いのだろうか? 私が考えこんでいたら、五十嵐が伝票を手にした。


「あっ、私が払う」

「馬鹿を言うな」


 伝票をぐいぐい奪い合う。


「じゃあ割り勘!」

「却下」

「割り勘してくれなきゃ、もうデートしない!」

「……わかった」


 五十嵐はしぶしぶ伝票を離し、私が差し出したお札を受け取った。よし。ガッツポーズする私を、五十嵐が横目で見る。


「頑固だな」

「O型だから」

「関係あるのか?」

「血液型占いは信じないの?」

「人間が4種類で分けられるはずがない」


 それを言ったら、星座も同じではないか。


「星座は12ある。三倍だ」


 五十嵐は得意げに指を三本立てる。だから何? 変なやつ。おかしくなって、私は笑う。なんで笑うんだ。五十嵐がむっとした。レストランから出たら、五十嵐が提案した。


「少し腹ごなしに歩くか」

「あ、うん」


 私は五十嵐と共に、並んで歩き出した。ぬるい風が髪を撫でていく。

「九月だけど、まだまだ暑いね」

「ああ。日本は湿度が高い」

 五十嵐はシャツの襟元を緩めた。

 彼の足元に、散歩中の犬がまとわりついていた。飼い主はすいません、と焦っている。五十嵐は瞳を緩め、

「いくつですか?」

「8歳です」

「可愛いですね。俺が好きか?」

 しゃがみこんでわしわし撫でている。五十嵐って本当に犬が好きなんだな。今度犬が死んじゃう映画見せて泣かせてやろうか。五十嵐の泣き顔見てみたい。ふふ、と笑っていたら、莉子? という声が聞こえてきた。視線をそちらに向けると。


「和彦」


 彼は気まずげに目を泳がせ、


「えっと……元気?」

「うん」


 和彦の傍らには、女の子が立っていた。多分、私よりかなり若い。まだ学生かもしれなかった。


「彼女?」

「あ、ええと……店のウエイトレス」


 女の子は訝しげにこちらをみている。


「そっか。じゃあ」


 和彦は女の子を連れ、そそくさと歩いていく。犬を撫でまくっていた五十嵐が口を開いた。


「おい、和彦」


 見知らぬ男に名前を呼ばれ、和彦はぎょっ、と足を止める。五十嵐は立ち上がり、


「こんなにいい女を振るおまえは愚かだ。審美眼がない時点で料理人には向かない」

「五十嵐」


 私は慌てて五十嵐の口を塞ごうとした。和彦は戸惑い気味に五十嵐をみている。


「あ、新しい彼氏?」

「ああ。出身校はハーバードだ。君は?」

「は、ハーバード……」


 和彦はポカンと口を開けていた。私は五十嵐の腕を引っ張って歩き出す。五十嵐が離れると、犬が寂しげに鳴いた。


「ゴールデンは人懐こくて可愛いな」


 五十嵐は犬に手を振っている。私が睨みつけると、手を振るのをやめた。


「なんだ」

「どうしてあんなこと言うの」

「意趣返しだ。スッキリしただろ? あの間抜けな顔を見たか?」

「しない。誰がいつそんなこと頼んだのよ」

「……俺はおまえのためにと思って」


 五十嵐が困ったような顔をする。叱られた犬みたい。


「あの人のこと、好きだった」


 価値がどうとか、プライドがどうとか、そんなことより私を選んで欲しかった。和彦は私ほど、私のことを好きじゃなかった。それに気づいたから、私は悲しかったんだ。でも傷つけられたからって、やり返して喜ぶ気にはなれない。私は息を吸い込み、五十嵐に指をつきつけた。


「ワンナウト。私の元彼に余計なこと言ったから」

「ぐっ……」


 五十嵐が眉を寄せた。これで少しは暴言が減るだろうか。彼は必死に言う。


「まだツーアウト残っているはずだ。だろう」

「反省してるわけ?」

「してる」


 五十嵐は神妙に頷く。なんだか待てをしてる犬みたい。


「……次のデートは、遠出したい。また知り合いに会うかもしれないから」


 そう言ったら、五十嵐が嬉しそうに笑った。


昼休み、私はデスクでパンをかじりながら雑誌を読んでいた。ふと、モデルが着ているワンピースに気をとられる。

 このワンピース、可愛い。次のデートに着て行こうかな。そう思って付箋を貼る。

「あっ、そのワンピース可愛いですよねー」

「わっ」

 いきなり背後から声が聞こえ、私は慌てて雑誌を閉じた。振り向くと、シホちゃんがニコニコ笑っている。

「買うんですか? 私も色違い持ってるんですよ」

「か、買わないよ。着てく場所ないし」

「えー? デートとか」

「ないよ、振られたばっかだし」

「あやしー」

「ち、ちょっとタバコ吸ってくる」

 私はポーチを手に、そそくさと喫煙ルームに向かう。ガラス張りの禁煙ルームには、先客がいるのが見えた。あのシルエットは五十嵐だ。あいつタバコ吸わないくせに。


 五十嵐と一緒にいるのは、千堂と森崎。彼らは全員高学歴でルックスもいいので、女子社員に三羽ガラスとか呼ばれている。なんとなく中に入りづらくて、私は死角になっている柱の後ろに立つ。


 森崎はタバコをくわえ、

「で? 落とせそうなわけ、例の女」

「よくわからん。デート初回はアウトを出された」


 五十嵐は森崎からタバコを奪い取った。


「俺の前でタバコを吸うな」

「喫煙ルームだっつの」

「五十嵐はなんでそんなにタバコが嫌いなんだ?」


 千堂が尋ね、森崎が応える。


「パパの浮気相手がタバコ吸ってたんだっけ?」

「関係ない。煙たいからだ」


 五十嵐は不機嫌に答え、付箋の貼られた雑誌をめくった。森崎は雑誌を取り上げ、せせら笑う。


「最強デートスポット? 五十嵐くん必死ですねえ、らしくない」

「うるさい」


 五十嵐は雑誌を取り返す。


「ハーバード出のエリートを袖にする女なんかいないって。さっさとホテルに連れ込めよ」


 森崎の言葉を、千堂が継いだ。


「五十嵐が狙ってるの羽柴莉子だろ。悪くないけど地味だよな。俺は宮島シホのほうがいい」

「あー、シホちゃんね。確かに胸でかいしエロいよな。ま、賭けは負けっぽいから払っとく」


 森崎はため息を漏らし、五十嵐の胸ポケットにお札をねじ込んでいる。

「まいど」

 千堂はそのお札を引き抜き、自分のポケットに入れた。


「っておい千堂、何パクってんだ。俺の金だぞ」

「飲み会の費用にする」

「ふざけんなよおまえ」


 森崎と千堂がお札を奪い合い、五十嵐は何も言わない。私はぎゅっと唇を噛み、足を踏み出した。森崎たちが、私を見てげ、と声を漏らす。五十嵐が顔をあげる。


「莉子」


 私は、五十嵐にびしりと指を突きつけ通告する。


「五十嵐選手、スリーアウト」


 さっさと歩いていく私を、五十嵐が追いかけてくる。


「莉子、どうしたんだ」

「聞いたでしょ。スリーアウト。もうデートはなし」

「馬鹿な。まだワンナウトのはずだ」

「今のゲッツー。五十嵐のお友達がアウト」

「あいつらは友達なんかじゃない」

「お仲間でしょ。女子社員を品定めして遊んでるんだから」


 五十嵐はあの二人とは違うんだって、どうして信じられるだろう。私はもう傷つきたくないのだ。五十嵐が私の腕を掴んだ。


「離して」

「俺が信じられないか」


 雑誌に貼られたたくさんの付箋。女を落とせるか賭けをして、攻略して、勝敗を分かち合う。ゲームみたいなもの。もし私を手に入れたら、その瞬間に飽きるんじゃないのか。


「私、これからもタバコ吸うわ。五十嵐が傷ついても知ったことじゃない」


 俺は傷ついたりしない。五十嵐はそう言った。そんなの嘘だ。人の心に嘘はつけない。五十嵐は神経

 質で育ちがいい。本当は傷つきやすいのを、偉ぶってごまかしている。


 私たちは犬猿でいたほうがいい。そうすれば、互いに傷つけ合わずに済む。

 私は五十嵐の返事を待たずに、ブースへ戻った。


 パソコンで打ち込みをしていたら、メールが届いた。開いて見たら、五十嵐からだ。


「ツーアウトに異議を申し立てる」

「野球の審判は絶対なの」

「知らないのか? チャレンジが導入されたんだ。一回だけならビデオ判定できる」

「判定するのは、ホームランかどうかでしょ」

「屁理屈を」

「五十嵐に言われたくない。屁理屈王」

「Iam pissed off at you……」


 明らかに悪口と思しき英文が送られてきたので、最後まで読まずにメールを閉じた。


「五十嵐先輩、コーヒーですー」


 柔らかい声に顔をあげると、シホちゃんが五十嵐にコーヒーを差し出している。五十嵐は上の空で受け取っていた。シホちゃんは私にもコーヒーを淹れてくれる。


「はいっ、羽柴先輩」

「ありがとう」


 シホちゃんは可愛くて癒し系だ。──宮島シホのほうがいい。千堂と森崎が言っていたじゃないか。

 そうだ、男の人はみんな、可愛い女の子が好きなんだ。わかってるなら努力すればいい。可愛い服を着て、笑顔で五十嵐にコーヒーを淹れてあげればいい。なのにどうして、私は可愛げのないメールしか送れないのだろう。


 きっと和彦と同じ。私にもきっと、くだらないプライドがあるんだ。


「あー、羽柴。ちょっと来い」


 課長に手招かれ、私はぎくりと肩を揺らした。私用メールしてるのがばれた? びくびくしながら課長の元へ向かうと、課長は眼鏡を押し上げた。


「今週末、五十嵐と出張な」

 げっ……。

「あ、あの私、ちょっと用事が」


 私はシホちゃんのところへダッシュした。勢いよく肩を掴む。


「シホちゃん、五十嵐と出張行きたがってたよね!? 今週末どう?」


 シホちゃんが眉を下げた。


「すいません、先輩。今週末は彼氏とお泊まりなんですう」


 マジで? っていうかシホちゃん彼氏いるの? 五十嵐に気があるんじゃなかったのか。女子の発言の本気度がわからない。私も女子なのに、女子の気持ちすらわからないなんて。だから振られるのだろうか。


 ともかく、仕事だからやるしかない。私は五十嵐の席へ向かった。


「五十嵐、今週末出張だって」

「……」


 なに、無視?


「とにかく、空港集合でいいよね? チケットは私が予約するから……」

「健人」

「え」

「約束だろ。名前で呼べ」


 私は慌ててあたりを見回す。声を潜め、


「もうその件は終わったでしょ」

「勝手に終わらすな。健人だ」


 課長が睨んでいる。早く仕事しないと。


「……オッケー、ケント」


 私はケント紙の名前を口にする時のテンションで言った。

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