元彼とハーバード男(1)
翌朝、目覚めたら、身支度を終えた五十嵐がこちらを見下ろしていた。視線が合うと、意地悪く笑う。
「ばかみたいな顔だ」
「な、起こしてよ」
私は真っ赤になって顔を隠した。五十嵐はスマホを手にし、旅行サイトのクチコミ欄を突きつけてきた。酷評レビューと絶賛レビューがしのぎを削りあっている。まあ、絶賛はサクラだろう。
「無料朝食はあのモラルに欠けた団体客で満員だそうだ。100メートル先にある喫茶店に行くぞ」
「コンビニでいいよ」
「ダメだ。今すぐチェックアウトしないと俺の精神が病む」
そんなやわじゃないでしょ。階下に降りていくと、疲れた顔のフロント係が頭を下げた。きっと団体の対応で手一杯なのだ。五十嵐はカウンターに鍵を突き返し、
「このホテルは三流だ。近いうちに潰れる」
さっさと歩いて行く。私はポカンとするフロント係に、すいませんと頭を下げた。慌てて五十嵐を追いかける。
「ちょっと五十嵐、あんな言い方は」
「ああ、あそこだ」
昔ながらの喫茶店だ。コーヒーのいい香りが漂ってきて、思わずお腹が鳴りそうになった。店内に入り、モーニングを注文する。厚切りのトーストはカリカリで、中はふわふわだった。自分で焼いたわけでもないのに、五十嵐が自慢げに言う。
「これが本当のパンだ」
「確かに美味しいけど」
私はコンビニのパンも好きだ。スクランブルエッグは半熟具合が素晴らしいし、コーヒーはとても美味しい。いい店だ。会社の近くにもあったらいいのに。
「この店の素晴らしい点は完璧に分煙されているところだ」
「ああ、そう」
そういえば、昨日からほとんど吸ってないな。早く帰って一服したい。
「そろそろ行こうか」
伝票をとろうとしたら、五十嵐がそれを抑えた。
「話がある」
「話?」
「俺と付き合え」
私はポカンとした。声を潜めて尋ねる。
「……なんで?」
「俺の推測だが、おまえは振られた」
「……だから?」
「だからその男を忘れて俺と付き合え」
なぜ命令形なのだ。
「気が合わないことわかってるのに付き合うわけないでしょ」
「じゃあ俺は出張のたび飛行機の中でおまえに泣かれるのか? 和彦、って知らない男の名前で呼ばれなきゃならないのか」
「うそ、呼んでた?」
「ああ。俺は名前を間違えられるのが世界で三番目に嫌いなんだ」
一番は何かと聞いたら、
「犬が死ぬ映画だ」
「犬、好きなの?」
「可愛いからな。たとえフィクションでも人間のエゴで殺されるのは許されない」
人間が死ぬ映画はいいのだろうか。
「付き合わないよ。ごちそうさま」
私は手を合わせ、席から立った。私が取る前に、五十嵐が伝票を取り上げる。
「俺が払う」
「いいってば」
「学習しない女だな。財布をしまえ」
なぜそんなに偉そうなのだ。まあいい。今のうちに逃げよう。私は足早に店から出た。五十嵐が追ってくる。
歩く速さが違うから、すぐに追いつかれてしまった。彼は無駄に足が長いのだ。五十嵐は私と並んで歩きながら問う。
「俺の何が不満だ。和彦はそんなにいい男だったのか」
「あのさ、もう泣かないから。やめよう。ね?」
周りを気にしつつ、私は言う。エレベーターで上がり、動く歩道に乗った。五十嵐はスマホを手にし、
「俺は来週の日曜が空いてる。おまえはいつがいい」
「何が」
「デートに決まってるだろう」
「あのさ、付き合うって言った?」
五十嵐は目を細め、
「やっぱり和彦に未練があるわけか」
「ないわよ。っていうか和彦和彦言わないでよ」
元彼の名前を連呼されると、なんだか嫌になってくる。まだ傷は癒えていないのだ。私がため息をついていたら、五十嵐が指を三本立てた。
「スリーアウト制にしよう」
「は?」
「デートを三回する。一度でも不快になったらこの話はなしだ」
「この会話の時点でかなり不快なんだけど」
なぜそうなるのかがさっぱりわからない。大体、五十嵐は私のことが気にくわないはずだ。彼はちらりとこちらを見た。
「おまえは不快な男とキスするのか」
「!」
「しかも二回も」
私は慌てて五十嵐の口をふさいだ。
「あれは立派なセクハラなんだからね。わかってんの?」
「なら訴えろ。俺の知り合いの弁護士は負けなしだが」
弁護士って。そこまで大きな話にしたいわけじゃない。
「シラフで同じベッドに入った時点でおまえの訴えに信憑性はない」
口が達者でいらっしゃる。
「とりあえず」
「ああ」
「おまえって言わないでよ」
五十嵐がじっとこちらを見た。
「莉子」
「っ」
私は動揺のあまり、歩く歩道の終わりで転びかけた。
週の始まり、月曜日。会社の入り口を抜け、ロビーを歩いていくと、すらりとした後ろ姿が視界に入る。げっ、五十嵐。私は鞄を盾に、そそくさとその横を通り過ぎようとした。五十嵐が口を開く。
「おはよう」
「……お、はよう」
見つかってしまった。私は、五十嵐の横でエレベーターがくるのを待つ。うう、気まずい。五十嵐はちらっと私を見た。
「おかしな顔だな」
「朝から失礼ね」
「寝起きほどじゃないが」
「ばっ」
私は慌てて五十嵐の口を塞いだ。何を言うのだ。人に聞かれたら誤解されるではないか。そうこうしているうちに、エレベーターが到着した。
「来たぞ」
彼はエレベーターに乗り、開ボタンを押し私に乗るよう促す。またレディファーストか。私は彼の後に続き、エレベーターの鏡で自分の顔をチェックした。いつも通りだ。別に五十嵐を意識しているわけではない。
ブースに入り、各々自分の席へ向かう。せめて席が離れていて良かったと思う。
パソコンを起動させていたら、後輩のシホちゃんが寄ってきた。
「おはようございますっ、莉子先輩」
「おはよう、シホちゃん」
「出張どうでした? 台風来て大変だったでしょ〜?」
そりゃあもう。
「いいなあ〜、五十嵐さんと出張だなんて羨ましい〜」
マジで? 私は顔をひきつらせながら答えた。
「次機会があったら譲るわ」
「ほんとですかあ?」
昼休み、私はシホちゃんと共に、お弁当を持って近くの公園へ向かう。この公園は、オフィス街にある数少ない憩いの場だ。噴水の周りを、くるっぽー、くるっぽー、と鳩が歩き回る。
「いいですよねー、先輩、五十嵐さんと同期で」
「どこが? あいつ、台風が来たくらいで日本は嫌だとか言い出すのよ」
「だってイケメンじゃないですかー。こないだ気づいたんですけど、課長と五十嵐さんって同じくらいの身長なんですよね。なのに頭身が三つくらい違うんですよ!」
シホちゃんは瞳をキラキラさせる。五十嵐はシークレットブーツ履いてるのかもよ。
「健康診断の結果見ましたもーん」
それってまずくない?
「五十嵐さん、彼女とかいるのかなー」
「聞いてみたら?」
「先輩聞いてみてくださいよー」
私が? というか私は五十嵐に告白らしきものをされたけど、実際五十嵐ってフリーなんだろうか? 世の中には平気で二股する男がいるというし。シホちゃんと共にブースへ戻ると、五十嵐が無駄に響く声で話しかけてきた。
「おい、莉子。例の件だが……」
私は五十嵐の腕を掴み、エレベーターホールに引っ張っていく。
「なんだよ」
「五十嵐さん、なぜ私を名前で呼ぶのかな」
「そっちが呼べと言ったんだろう」
言ってない。おまえって呼ぶなと言ったのよ。
「莉子も俺を名前で呼べ」
「やだよ。女子社員から睨まれる」
「呼べ」
目力が無駄に強い。なんなのよ、もー。私は声を潜めた。
「……けんとくん」
恥ずかしいので、某鹿のキャラクターみたいに呼んでみる。
「くんはいらない」
五十嵐が囁く。この声、なんかやだ。いつもの偉そうな話し方じゃないから、心臓が変になる。
──日本人はなんでボソボソ話すんだ? 内気な女子社員にそう言ってのけた彼に、私は言い返した。──あなたも日本人でしょ。日本に不満があるならアメリカ帰れば?
それ以来ずっと犬猿の仲なのに。
「和彦と同じように呼び捨てにしろ」
なんかもはや和彦って言いたいだけじゃないの?
「もう! いいから仕事するよ!」
私は五十嵐を押しのけ、ブースに戻った。同僚の森崎が私を飛び越し、五十嵐に声をかける。
「五十嵐! 頼む。専門的な話になってきてさ」
「ああ」
五十嵐は受話器をとり、流暢な英語で話し始めた。私も英検の一級を持ってるけど、やっぱりネイティヴには敵わない。
「もー、かっこいい〜」
シホちゃんが身悶える。
まあ黙っていれば……いや、日本語を話さなければ五十嵐はいい感じなのだろう。 日本に住んでいるいま、その欠点は致命的だが。
パソコンに向かったら、メールが届いていた。開いてみると、五十嵐からだ。
「さっきの話の続き」というタイトルがつけられている。仕事のメールを私用に使うなっていう。でも周りに会話を聞かれるよりはマシか。
「なによ」
返信したら、メールが返ってくる。
「デート先だ。どこがいい。動物園、水族館、遊園地」
「動物園、かな」
「同じだ。気が合うな」
「ええ……合わないよ」
というか合いたくない。
「合う。俺たちは魚座と射手座だからな」
だからなんだ。というか、文面からでも偉そうなオーラが漂ってきているのは大したものだ。
「星座なんかあてにならないわよ」
「そんなことはない。結構参考になる」
この人、星座占いとか信じてるわけ? 乙女か。
「ああ、忘れてた。プラネタリウムと美術鑑賞もありだ」
「食器が見られるなら、美術館に行きたい」
ふと、課長がこちらを睨んでいるのに気づいた。
「ねえ、課長がみてるよ」
「セラミック美術館のホームページ、アドレス送る」
しばらくして、ホームページのアドレスが送られてきた。井沢財団のコレクションらしい。面白そう。私は○、とだけ返し、メールを閉じた。




