(5)春と秋の再会
一つの扉の前に立つ。
その部屋に居るのは知っていた。けれど、ここまで来るには足りないものが多すぎた。
鍵を握り締める拳を見る。
震えていた。
ここまで来ても、ハルには自信が足りなかった。
――本当にこの扉を開けてしまっていいのだろうか?
――俺はちゃんと彼女の帰る場所になれているのだろうか?
最後にだけ、ほんの少しだけまだ勇気が足りなかった。
その時。背後に人の気配を感じたハルはそっと振り返ると、愛乃の姿があった。
愛乃の目は昨日と同じように真っ直ぐにハルを捉え、しかし昨日とは違いその目は何かを見極めようとする――そんな目をしていた。
ハルは一つだけ問うてみる。
「君の目からは、『佐倉ハル』はどう見えてる?」
人前に立つスペシャリストである愛乃なら、『佐倉ハル』が完璧であるかを見極めてくれるかもしれない。
男である佐倉ハルが、女となることができたのかを。
「……昨日初めてアンタを見た時、負けたなって思った。アタシ以上に人を惹き付けられる子がいるんだなって不思議な気持ちになったわ」
アイドルである彼女からそのような言葉が出たことに、ハルは驚愕する。
優勝したとはいえ、自分が愛乃以上に人を惹き付ける力があるとは微塵も思ってもいなかった。
「ねぇ、佐倉ハル。一緒に付いて行ってもいいかしら。その部屋の奥に」
きっと、独りだったら引き返していただろう。
けれど足りなかった最後の勇気は、彼女の一押しで補うことができた。
「お願いするよ」
いつの間にか震えは治まっていた。
ハルは鍵穴に鍵を差し込んで、施錠を解放する。
一度、二人は目と目を合わせてから――扉を開けた。
部屋の中は薄暗く、床は大量の本が所狭しと散らかっていた。
全く整頓の行き届いていない足場だが、不思議と汚れた個所は無く。整頓は行き届いていなかったが、掃除は綺麗に行き届いた部屋だ。
二人は散らかる本を避けながら、空いたスペースを足場にして中へと突き進む。
刹那、部屋からは懐かしい匂いがハルの鼻孔をくすぐった。
「やっぱり、ここに……」
確信した。ここに、彼女がいると。
「誰かいるわ!」
突然、声を上げた愛乃の視線をハルも急いで追った。
そこにはいくつもの本の山が築き上げており、山に囲まれるようにしてそこには誰かの姿があった。
「あ、秋月、か……?」
思わず唾を飲み込んだ。
ずっと見たかったその姿をようやく見ることができた。
ずっと会いたかった彼女にようやく会うことができた。
「ふぇ?」
少女は、今初めて自分以外の誰かがこの部屋に入っていたことに気付いたかのか、呆然とした表情でハルのいる方へと顔を向ける。
座っている状態で床に着くほどに長い漆黒の髪。肌は最後に見たよりもさらに白くなっており、幼い体型は一年経っても全く成長できていない。身体こそ恵まれていないが、まるで人形のような端整な童顔には老若男女関係なく全ての人が惹かれてしまう。
ロシア人の祖母の遺伝を全く受け継がれなかった少女には、純粋な和の美貌が磨かれていた。
同じ血を通わせていながら全くの対極にある容姿を持った少女。
少女こそハルに残された最後の肉親。――実姉・佐倉秋月。
「あれ、ハルだ。ふぇ? ハル、可愛くなってる」
嬉しかった。
一目でハルだと気付いてくれたことが。
「迎えに来たよ、秋月。一緒に家に帰ろう?」
ハルのそっと差し出した手を、秋月はジッと見つめ、
「や」
冷たい表情で首を振った。
咄嗟に何かを言おうとした愛乃を、ハルは黙って制止する。
大丈夫だ、と目で愛乃に伝える。
秋月が手を拒む理由をハルは分かっていた。
だから、まずは秋月にちゃんと知ってもらわないといけないことがあるのだ。
「あの……あのね、秋月にはちゃんと言っておかないといけないことがあるの」
できるだけ、言葉を選んで秋月が傷つかないように告げる。
「父さんはね、もう家にはいないんだ」
「……」
「だからね、家に帰っても父さんも……『男』はどこにもいないんだよ、秋月」
もう一度、諦めず手を伸ばす。帰って来てもいいのだと、自分が秋月を恐怖させる存在ではないことを認めてもらうために。
秋月は困ったように顔を下に向け、静かに動かなくなったが、
やがて顔を上げると、ハルの差し出した手を両手で掴み取り。
「うん。帰る。ハルと、一緒に」
その時、秋月は一体どんな表情をしていただろう。
目が霞んでしまい、ハルにはよく見えなかった。




