(1)佐倉家の食卓(不完全)
『幸せ』というのは一つではない。
美味しいご飯が食べられた。宝くじが当たった。恋人ができた。子供が産まれた。
どんな小さなことでも、それは幸せの一部に他ならない。当然、個人個人で幸せの形に違いはある。人の数だけ幸せは無限に存在するのだ。そして、その幸せは誰かと共有することが可能である。
ハルにとっての幸せとは、幼女体系の姉と一つのベットで一夜を共に――と、これだけでは何か誤解を生んでしまいかねない。ハルは二十四時間常に女装状態でいる。他人から見ると十分に変態のカテゴリーに当てはまってしまう存在だ。
決して誤解されないように弁明しておくと……多分、無罪だ。
姉と妹(男)が一緒のベッドで寝ることは決して何もおかしいなではないのだ。うん。
「……あの、秋月さん、そろそろ起きてもらえませんか? ハルちゃん、朝食の準備に入りたいのですが……」
身体の上に乗っかり、しがみ付いて離れようとしてくれない姉の眠りを先ほどからどうにかして覚まそうと、ハルは何度も声を掛け続けているのだが。
「……ひぅ~……みゅ~……」
姉様は未だ安らかに眠っておられた。
「(あぁ、なんて可愛い寝顔だ……)」
子供から老人まで幅広い世代の心を奪ってしまう甘々なロリフェイス。七五三が似合いそうな彼女は高校三年生。この姉、今月で十八才の誕生日を迎えるのだが――
まるで小学生にしか見えないではないか!
「みゅ……ゅ……ハルぅ……」
「(ま、ままままさか! その夢に登場しているのはこの私!? なるほど、お休みからおはようまでハルちゃんを想ってくれているんですね!?)」
もう別に遅刻してしまっても構わないかなーと思っても仕方のないことだと、姉に骨抜きにされそうになったハルはそんなふうに考えてしまう。
「ってダメだダメだ! そんなダラダラとした生活を送らせるわけにはいかないっ」
危うく実の姉に添い寝されたまま二度寝をするところだった。
どうにかして秋月を起こさなければいけないのだが、秋月の寝顔を見ていると強引に起こすことにかなりの抵抗が生まれた。仕方なく、仕方なくハルは秋月を抱え(つまりお姫様抱っこをした状態で)リビングへ向かい、ソファーの上で寝かせると――今しばらくの間だけその可愛い寝顔を堪能することにした。
「うっはは~いっ、ハルちゃんの御飯だー♪」
本日の佐倉家の食卓には金髪の少女、もとい、ハル達の保護者・美冬が混ざっていた。
「今日は早起きでしたね。おかげで起こしに行く手間が省けました」
子供のようにはしゃぐ保護者様を眺めながら、ハルは美春にキャットフードを進呈する。
「なぉ~(うむ、ご苦労)」
「(んー、ちょっと違うか? やっぱ猫は何言ってるのか分からないなぁ……)」
ハルは美春を撫でながらそんなことを考える。
「いやぁ、それにしても無事アキちゃんが戻って来られてよかったねー。これでまたみんなで仲良く美味しいご飯が食べられるよっ」
「美冬さんは私の作ったものなら一人の時でも同じテンションで食べてそうですけどね」
「えー、そんなことないよー。私だって一人のご飯よりも家族みんなで食べるほうがおいしいんだって! ねぇ、ハルちゃん?」
「な~」
「ほら、ハルちゃんだって言ってるよ」
「いや、分かりませんから」
意思疎通ができているのかいないのか。
相変わらずテンションの高い美冬とノンビリマッタリ猫の美春。この二人はいつも一緒にいるところを見ると相性は良いのだろうが……美春が主人のノリに合わせているようにも思えてくる。
もしかしてこの白猫は相当賢いのだろうか?
不意に、ハルは美春に視線を向けられたようにも感じたが、ただキャットフードのお代りを催促しているだけのようだ。とりあえず、誰に頼めばご飯は出るのかは理解しているようである。
「賢いな、お前」
お望み通りお代りを盛ってあげる。
その時、ふと秋月の方へ視線を向けた瞬間だった。
「……ない……」
「え?」「むにゃ?」
秋月は箸を銜えた状態で、何かを呟いた。
「……なにが、だって?」
ハルの聞き間違いなければ、秋月は今「いない」と言った。
いない……何がいないって言うんだ、秋月?
いや、何がではなく、きっと……、
「みんなじゃない。ナツが、いない」
「……」
分かっていながら、ハルも、美冬ですら触れようとはしなかった。
秋月には、『彼女』がこの場にいないことはとてもおかしな状況だった。
ここには春がいて、秋がいて、冬だっているのに。
――この食卓には、夏が足りなかった。
「にゃはは……ごめんね、アキちゃん。なっちゃんは早い時間から出かけてて、一緒にご飯を食べられないんだよ」
どれほどハルの思考は停止していただろうか。
数秒か、あるいは五分動けなかったのかも知れない。
美冬が場を和ませようと積極的にお喋りをしてくれたおかげで、ハルの異変を秋月に悟られることはなかった。




