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醤油坂の、その家で  作者: 冴吹稔
醤油坂ハイツ四号
9/20

醤油坂ハイツの住人達

久々に連載再開。お待たせしました。

 西側の廊下には引き戸になったドアが二つ。そのうち南側のドアの前に、葵さんはラーメンのお盆を置いた。僕の座った位置からも、それが見えた。

  

(知らないふり、ねぇ)


 そういわれると、かえって気になる。パスタを食べながらふと顔を上げて一号室の前を見ると――どんぶりはいつの間にか、盆の上で逆さに伏せられていた。


(え……いつの間に?)


 ドアが開いた気配はまるでなかった。どんぶりの挙動はまるで、まばたきをした一瞬の間にラーメンが部屋を出入りしたかのようだ。

 

 僕が呆然と見ている間に、葵さんは再びドアの前まで行って盆を下げてきた。よほど間抜けな顔をさらして、そちらを凝視してしまっていたに違いない。彼女は俺の視線に気づくとまたしても少し困ったように笑った。


「小出さん、すごく恥ずかしがり屋さんなんで、お部屋からほとんど出てらっしゃらないんです。あの部屋には私も入れてもらえません。一日に二食、ラーメンを差し入れるだけなんです」


「……大丈夫なんですか? その、栄養バランスとか、ゴミ処理とか」


 部屋から出てこない、誰も入れないでは、いろいろとすごいことになっているのではないか。おまけに、食事はラーメンだけ?

 気にはなるが、あまりこの件にだけ気を取られてもいられなかった。このあと夜までの間にするべきことは多いはずなのだ。


 食事を済ませると早織さんはなにやら大きい割に軽そうな荷物を抱えて出かけて行った。僕はそのあと、ハイツ内のあちこちを案内された。


「先ずは杜嗣さんのお部屋ですね」


 僕の部屋もさっき見た一号室同様、引き戸だった。見たところ洋風な外観に反して、この建物の中には随所に昔ながらの日本家屋の雰囲気がちりばめられている。 

 渡された鍵を差し込んでひねると、がちゃ、という音とともに鎌鍵式のロックが外れた。恐る恐る戸を開けると、そこには南に大きな窓がある、日当りのいい部屋だった。

 

 廊下と同じようなフローリング床の上は、おおよそさっぱりと片付いている。机や本棚といったものはなく、テーブル代わりの電気こたつと、座布団が二枚に大きなクッションが一個。それに安物の洋服ダンスと半透明な収納ボックス二つ――家具はそれだけだ。

 

「なんか……生活感がないというか、ずいぶんシンプルに暮らしてたんだな、僕は」


 多分、入院中に葵さんが少し片付けたりはしているのだろう。だが、それにしても物がずいぶんと少ないし、部屋の汚れや傷みもごく少ないように思える。


「僕はいつ頃からこの部屋に?」


「九月の初めからです。入院期間も含めて、まだ半年ですね」


 なるほど。そのくらいなら、あまり物がないのもうなずける。

 

(それにしても、やっぱり誰か他人の部屋を見てるみたいだ――)


 こざっぱりとして、なんの感慨も手掛かりも得られない、のっぺりとした部屋。まるで今の僕自身のようだ――だとすれば、案外この部屋こそが、まさに僕にふさわしいのかもしれないが。

 

 すこし沈んだ気持ちになって廊下に出た。

 吹き抜けを中心に、二階から上のフロアにはだいたい南東と南西に一つずつ部屋がある。南側には物干しを兼ねた広いベランダと上下階への階段、西側にはトイレと洗面所、東側には一回の食堂と似た共用スペースがあって、ソファーと低いテーブル、それに二十インチほどの小ぶりな液晶テレビが置かれていた。


 かなり贅沢な空間の使い方だと思う。そして、この醤油坂ハイツに居住可能なのはペントハウスも含めて九人ないし(ペア)、ということだ。今わかっているのは、小出さんと葵さんも含めて四人――ほかにどんな人が住んでいるのだろうか?


「葵さん、ここの入居者ってほかにも?」


「ええ、あと二人。今はどちらもお留守ですけど……一人は夜になったら帰ってらっしゃいますよ。金垣内(かねがいち)さんっていう、会社勤めの女の方です。もう一人は塗師山(ぬしやま)さんとおっしゃって。その……写真家っていうんですかね? ほら、そこの壁」


 そういいながら彼女が指さしたのは、三階の共有スペースに飾られた、縦の長さが一メートルほどある額だった。詳しくないのでどこのものかさっぱり判らないが、すらりとした姿をした装飾の少ない仏像が、ガラス越しにこちらへ微笑みかけている。そのご尊顔の頭上には大きな肉髷が盛り上がり、両手の指は腹の前で眼鏡のような形に結ばれていた。


「阿弥陀如来像だそうです。室町時代くらいまでの仏像が最近のテーマなんですって」


「へええ」


 つやつやとした、黄色味を帯びた木材で滑らかに仕上げられた肌。端正な表情。その仏像はなかなかの名品と思えたし、ほの暗いお堂の中に流れる静謐な時間をを切り取って定着させたその写真は、かなりの腕前であるように思われた。


「塗師山さん、今は撮影旅行中でしばらくお留守なんです」


(テキスタイルアーティストに、写真家か――)


「ここって、芸術家っぽい人が多いんですかね?」


「そういうわけでもないんですよ。金垣内さんは金融系のOLさんですから。そうねえ、ここに住んでいる人たちに共通してるのは、『個性的』ってことかしら」


「個性、ですか」


 何となく寂寥感を覚える。記憶を失い過去の習慣一つ思いだせない僕には、果たして個性と呼べるものがあるのだろうか。そんなもやもやした気分を察したかのように、葵さんは流れるような動作で僕の手をとって、階段の方へと歩き出した。


「最後にお風呂をご案内しますね」


「お風呂」


 おうむ返しにそういう僕を、彼女は一階の北西の区画に引っ張っていく。


 オイルフィニッシュをかけたような艶のでた、唐木作りの障子風になった引き戸があって、その前に鮮やかな紫色の暖簾がかけられていた。ずいぶんと豪華なたたずまい。そこそこ格のある温泉旅館でも、なかなかこれだけのものはない――そんな考えが頭に浮かんだ。


 開けるとヒノキ板の床があり、奥にはアルミ枠に模様ガラスのはまった引き戸が見える。葵さんは壁の一角にある小さな操作盤を指さした。


「この浴室は一応入口に鎌鍵がかけられるようになってますけど、できるだけ鍵は掛けないようにしてください。入るときはここのスイッチを入れて、中に人がいることが分かるように」


 葵さんが言うには、以前住んでいた人が中で湯あたりを起こして倒れたことがあり、その時は鎌鍵をかけていて開けるのにひと苦労したらしい。


「合鍵……なかったんですか?」


「それがですね、冬物のオーバーをしまい込むときに、ポケットに入れたままになってたのに気づかなくて……大事には至りませんでしたけど」


「け、結構やらかすんですね、葵さん……」


「お恥ずかしいです。でもまあ、とっさの時にさっと立ち入れる状態にはしておかないと。みなさん大人ですから節度は守ってくださいますし――」


 周囲を見回す。三畳ほどの脱衣所に竹細工の衣類かごが二つ。引き戸を開けると、その向こうはガラス窓の向こうに坪庭風の区画をしつらえた、これまた優雅な浴室だった。

 驚いたことに浴室の床と浴槽は自然石だ。緑がかった暗い色合いの石で、床は滑りにくいざらざらとした表面のまま、浴槽の方は丹念に磨かれた滑らかな仕上げ。

 広さは六畳ほどで、ちょうど旅館によくある家族風呂の感じだ。入って左側の壁面は一部が鏡になっていて、その下にカラン、つまりお湯と水の蛇口にシャワーの装置一式がついている。


「なんか高級感……! これ、手入れが大変そうですね」


「ええ。それで、もしよかったらここの掃除と管理を、これから頼みたいなって」


「僕が?」


「ええ。ここは広くて女一人の手では行き届きませんから、可能な方には保守管理のお手伝いをお願いしてます。たとえば、早織さんには屋上庭園の手入れを」


「なるほど」


「杜嗣さんは以前はバイトされてましたからお願いしてなかったんですけど、あんなことになってしまいましたし……」


「ああ……」


 あんなこと、というのはバイト先とのトラブルだ。事故からしばらくたって僕が意識を回復したころ、豆畠台にあるリカーショップの店長が、僕の入院先を探し当てて訪れたらしいのだ。

 もちろん、病院は彼をシャットアウトした。意識が戻ってもまだ面会謝絶の状態だったし、僕は前後の状況を把握していなくてまともな受け答えなど不可能だったから。

 結局、その月のバイト代は不払いのまま、僕はクビになったと、あとで聞かされた。まあ、そんな勤めに未練もない――お金はともかく。


「普段の生活と違う体の使い方をしますから、リハビリにもなると思うんです。主治医の野上先生も賛成してくださいました」


「わかりました。いいですよ」


 世話になるばかりではなく、少しはこの人の役に立つことができる――そう思うと僕の心は少しだけ明るくなった。


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