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醤油坂の、その家で  作者: 冴吹稔
奇妙な日付
20/20

坂の下の桜

 葵さんへの電話は、あっさりつながった。コール一回ですぐに通話状態になったのは、もしかすると管理人室で手元に子機を置いて、今か今かと待っていたのかもしれない。

 

杜嗣(とうじ)さん? ああ、良かった……遅いから心配したんですよ〉


「病院の方がえらく長引いちゃって……整形の先生が救急外来に呼ばれたり、ちょっとごたごたしてるようでした」


 救急、という言葉が出たとき、電話の向こうで息を飲んだような気配があった。僕の事故でも思い出したのだろうか。

 

〈もう駅ですよね? 動かずに、改札のそばの目立つところにいてください。すぐ、お迎えに行きますから……!〉


 勢い込んだ感じでそれだけ伝えてきた後、電話が切れた。

 

(過保護というか……何だかなあ。大事にされるのはありがたいんだけど)


 どうにも古風というか、時代に取り残されたようなところのある人だな、と思った。今どき携帯やスマホも使わずに――ああしたものがあれば、こんな時だって駅へ向かいながら随時連絡が取れるだろうに。

 住んでいるあの町内と同様、まるで昭和の世界に生きてる人のようだ。早織さんの監修が入ってるのだろうと想像させる、個性的な衣服を身に着けていることがほとんどなのだが、いっそ和服を着たらさぞ似合うのではないか――そんな気がした。


 言われたとおりに、改札のそばで待つことしばし。駅舎の入り口で四角く切り取られた夕闇の向こう、駅前のロータリーにそびえるケヤキの巨木の足元に、それらしい姿が現れた。

 

 薄紫色のカジュアルな綿パンツに、黒いデッキシューズタイプの簡素なスニーカー。太い毛糸で市松模様のパターンに編まれた手編み風の白いセーターの上には、退院日と同じ鬱金色の大きなスカーフをショール風に羽織っている。

 

 はあはあと呼吸を乱して肩を上下させ、僕を探している様子。視線が合うと心底安堵した様子で肩の力を抜き「杜嗣さん!」と叫んで駆け寄ってきた。

 

「……お帰りなさい! 無事についてくれて、ホッとしました」


「そんな、大げさな……」


 苦笑いしながら、胸に飛び込んできた葵さんを抱きとめる。こんなに心配してくれるなんて。色々と不審なこともあるが、この人が僕に何か良くないことをするようなことは、絶対にありえない――そう思えた。

 

「急いで帰るのがいいんでしょうけど……杜嗣さん、足の具合はどうですか?」


「ああ、少し疲れたけどまあ大丈夫かな、ハイツまでは問題ないです……どうかしました?」


「いえ」


 葵さんは一歩後ろへ下がると、僕の顔を少し下からのぞき込んでふわりと笑った。

 

「少し、遠回りして歩きませんか。ちょっと、見せたいものがあって」


 何だろう?


「……いいですよ」


「この下り坂を長めに歩きますけど、膝とかに負担かかるようだったらおっしゃってくださいね」


         * * *

         

 僕たちは歩道橋のたもとを越えて、例の横断歩道を渡った。ハイツの北入り口を通りすぎてさらに東へ歩き出したので、三階から入るのではなく、ハイツ南側の「坂の下通り」へ降りて正門へと向かう順路なのだと分かった。        

         

 ベッド暮らしでなまった足には、醤油坂の下り勾配が少々堪えた。葵さんは時々僕の方を振り返りながら、ゆっくりと歩いていた。


 カン、カン、カン……

 

 門前辻の踏切がある方角から、遮断機の音が聞こえる。ジープめいたデザインの軽自動車が一台、減速しながら踏切へ向かって北上していった。そのあとは、不思議なほどに誰も何も辺りを通らない。

  

 坂を下り切ったところから南へ曲がる。そこには東西へ走る狭い道があり、三十メートル程度の間隔で街灯が灯っていた。ナトリウム灯りの冷たいオレンジ色――もしかしたら調色したLEDランプかも知れないが。

 公園があった。遊歩道と言ったほうがしっくりくるような、幅が狭く細長いもので、例えば子供が遊ぶにはあまり向いていない。だが、そこには別世界の光景が広がっていた。

  

 五分咲き程度に開花し始めた見事な桜並木を、ナトリウム灯が照らし出していたのだ。夜の空気全体が何かの舞台の上のように色づいて――その桜の下で僕は、葵さんと並んで立っていた。

 

「これは――」


「この景色を、見せたかったんです……素敵でしょ?」


「うん」


 言葉が出ない。

 

 ずっと昔、まだ幼いころに、これと同じような夜桜を見たような気がした。だが、それがどこなのか、まるで思い出せない。 

 思い出したい――そう、思おうとした。だが僕の頭は、この美しい夜桜と、隣に寄り添う葵さんの存在感に、酔ったようにすっかり痺れてしまっていた。

 

 ああ、そうだ。今目の前にあるもの以外、なにも必要ないではないか。

 

「少し、休んでいきましょうか」


「はい」


 僕はうながされるまま、バス停にあるような鉄と木材でできたベンチに、腰を下ろした。三月とはいえ夜気にさらされた鉄は冷たく、ジーンズの生地を貫いて冷たさが太ももに沁みとおってくる。


「ちょっと、寒いです」


 葵さんは少し首をかしげると不意に小走りに駆け出した。どこへ、と問いかけると、彼女は走りながら振り向いた。

 

「自販機で買ってきます、何か、温かいもの――」


 植え込みに遮られてよく見えないが、どうやら公園を横切って反対側に、簡単な屋根のついた自販機スペースがあるようだ。

 

(コーンポタージュか、ココアがいいな……)

 ぼんやりとそんなことを考える。コーヒーはあまり好きではない――

 

「あ」


 そうだ、思い出した。僕はコーヒーが好きではない。舌の先が熱でちりちりと痛み、味覚が働かなくなる感触が不意によみがえった。

 

 どこかで、火傷したことがあるのだ。それだけでは何がわかるわけでもなかったが、失っていた記憶が一つ戻ってきたことを噛みしめながら、僕は葵さんが戻ってくるのを待った。


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