恨みわび干さぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ
恋歌、有馬山裏話第2弾です。
今回の女性は詐欺に遭わずに助かっても、本人の立場的には助かっていません。
ちょっとした不満から恋に走りかけて、的外れに家族を恨んでいた彼女の支払った代償とは……。
「お願い出して!!
恨んでやる、呪ってやる、この人でなし!!」
閉ざされた扉を狂ったように叩いて、あたしは喉が枯れるまで叫んだ。
ずっと扉を叩き続けた手は真っ赤に腫れ上がり、ちょっと触れても痛いほどだった。それでもあたしは激情に突き動かされて、扉を叩くのを止めなかった。
あたしが奪われたのは、人生で最初の恋。そして最初の自立。
あたしが心から恋をして、あたしが初めて自分の心に従ってついて行こうとしたあの人を、あたしの家族は認めなかった。
寄ってたかってあの人を諦めさせようとし、説得が通じないと強引に閉じ込めた。
あたしは、彼と共に旅立つことができなかった。
彼の命をつなぐわずかばかりの食糧すら、届けてあげられなかった。
どれもこれも、頭の固いあいつらのせいだ。あたしの女の子としての幸せな門出を許してくれなかった、人を押さえつける事しか知らない家族のせいだ。
昔から、厳しい父さんだった。
生きていくためには自分を律した冷静な思考が必要だとか言って、あたしが憧れたり興味を持ったりしたものをことごとく取り上げた。
他の子がみんな持っている携帯電話やゲーム機は、必要ないから与えられない。学生におしゃれは必要ないから、ちょっと化粧をしたり短いスカートをはいたりすると盛大に怒られた。
そのうえ、兄と弟も父さんに同調していた。
あたしは胸の中にくすぶる欲求不満を隠し、小さな恨みを山のように積もらせながら、このつまらない日常が壊れてくれることを願っていた。
でも、日常が壊れても世界はあたしの思うようにならなかった。
むしろ、壊れた世界はよりあたしに厳しくなった。
人を殺し、生きた人間を食い漁るゾンビに変えてしまうとんでもない病気の流行……あれがあたしからさらに自由を奪った。
ゾンビのはびこるこの世界は、父さんのような無駄に厳しい人間が台頭する世界だった。
実際、この危険な世界ではちょっとでも気を抜いたり欲望に流されたりすれば、いとも簡単に死が待っている。
家の中で唯一あたしに優しかった母さんは、化粧品に気を取られた一瞬の隙にゾンビに囲まれて死んでしまった。
それから、父さんはますます厳しくあたしを縛るようになった。
生きるためにやってはいけない事とか言って、状況次第ではどうにでもなるような事をも禁止して、ひたすら生き残るために神経を使うよう強要した。
でも、そのおかげであたしが助かった部分もない訳じゃない。
父さんは生きるために守らねばならない鉄の掟を作り、それに従って他の人たちをも守り抜くことで避難所のリーダーになった。
あたしたち兄弟もそのあおりで避難所の幹部になり、他の人たちから絶大な信頼と協力を得られるようになった。
このままこの権力と信頼を使えば、あたしは前よりちょっとは好きなことができるかもしれないって心の底で期待して……でも、それを許してくれるほど父さんは甘くなかった。
父さんと、それから兄と弟はこれまで以上にあたしの行動を見張るようになった。
ちょっとでも合理的じゃない行動を取ると、すぐ呼び出されてえんえんと説教された。
そんな事で、みんなの信頼を得られるのかって。
馬鹿げてる、あたしたち以外の誰がこの避難所を守ってんのよ。その代わりなんだから、ちょっとぐらい息抜きして好きな事したっていいじゃない。
でもそれを言うとまた謝るまで許してもらえないから、あたしはその言葉を恨みと一緒に飲み込むしかなかった。
恋だってそう。
他の人たちはあたしを敬ってくれたけど、それはリーダーの娘としての畏怖。
男の人だってあたしに良くしてはくれるけど、距離を置いて決して手を出そうとしない。
普通の女の子らしい恋なんて、できっこなかった。
だからあたしは、そんな閉塞した日々を打ち破ってくれたあの人に惚れたんだ。
あたしの目の前に颯爽と現れて、一人でゾンビ共をバタバタなぎ倒してくれた、ワイルドでたくましい自由人。
あの人はあたしに、自由な生き方を教えてくれた。
父さんはゾンビと戦うのはできるだけ避けろっていうけど、倒す力があるなら逃げ隠れする必要なんてない。嗜好品だっておしゃれだって、自分の命に責任もってやれば別にやめる必要なんてない。
人には自立が必要だ、従うことしかできない人間はいつか死んでしまう。
とっても気が合う、素晴らしい人だった。
あたしは心の底からこの人が好きになり、二人で自由へと旅立とうとした。
子供はいつか親の手を離れるもの……あたしにもついにその時が来たんだって、誇らしくて嬉しくてたまらなかった。
でも、そんな娘の成長すら父さんは認めてくれなかった。
二人の生活に必要な物資をちょうだいと自立のために正当な要求をし、初めて自分の意志で戦うことすら辞さなかったあたしを、兄と弟と三人がかりで押さえつけて閉じ込めたんだ。
あれから、あたしは毎日泣いて過ごしている。
暗くて狭い部屋にわんわん声を響かせて、もう我慢なんかしない。
外で人の足音が聞こえたら、見せつけるようにひときわ大きな声で泣き喚いてやる。あんたらのリーダーは娘にもこんな思いをさせる鬼なんだって、思い知らせてやる。
それに、どんなに泣いても涙が後から後から湧いてくるんだから、どうしようもないじゃない。
いくら恨んでも、どうにもならない。
この泣き声と洗っても洗っても塩水に濡れるタオルは、あたしのせめてもの抵抗。困るなら勝手に困ってればいいわ。
でも、そんなある日、弟が一枚の紙を持って入ってきた。
「あのさあ姉ちゃん、僕らを恨むのは違うっていい加減分かってよ。
これ見たら、姉ちゃんも目が覚めると思うんだ」
そう言って弟が差し出したビラには、一組の男女の写真が写っている。
「姉ちゃんがついていこうとしてた男って、こいつだよな?」
写真の中の、見知らぬ女に仲良さげに寄り添う男は……間違いなく、あたしの運命のあの人。しかも、そのビラには『女をだます詐欺師に警戒せよ』の文字が……。
それは、他の集落から回ってきた警告文。
写真の男は、たくましい体と甘い言葉で女をたぶらかしては食料や物資をかすめ取る詐欺師。そいつのせいで、すでに何人もの女が命を落としている。警告文を出した子も引っかかりそうになったし、写真の女はそいつの犠牲者だということだ。
あたしは、愕然とした。
誰よりもあたしを理解してくれて、あたしと運命でつながってるんだと思ったあの人が、まさかこんな人間だったなんて。
でも、確かにあれからあの人は行方をくらましてしまった。それに、警告文によると、あの人が犠牲者の女と写っている写真はあたしと別れた後のものだ。
動かぬ証拠を突きつけられ、あたしは自分の間違いを認めるしかなかった。
程なくして、あたしは解放された。
自分が間違ってましたって、家族の前で避難所のみんなに頭を下げて謝ったから。
謝っている間も、それから一人で部屋に戻っても、今度はあの人への恨みで涙が止まらなかった。
だってあたしがこんな目に遭ったのは、間違いなくあいつのせいだ。あいつさえ来なければ、あたしはあたしが間違ってたなんてみんなに言わなくて済んだのに。
それにこれで、あの厳しすぎる看守のような家族に余計な借りを作ってしまった。
でも、この一件はこれでもう終わったことだ。
これからはまた元のように、ちょっとウザいけどしっかりした父さんの下で無難に生きていこう。
その時のあたしは、この一件がどれだけあたしの世界を変えたのかまだ分かっていなかった。
解放された後、あたしは幹部の役割を外されて兄の監視下に置かれた。こんな軽率な娘に重役を任せていいのかと、他の人から不満の声が上がったせいだ。
その時、いかにも頭の悪そうな女子高校生の言った言葉が忘れられない。
「なんで恋に狂って家族に手ぇ上げるような奴に、取り締まられなきゃいけないんですかぁ~?
ウチらは、そいつほど悪い事はな~んにもしてませんけどぉ~?」
言い返せなかった。だってこれは、事実だ。あたしはその批判を甘んじて受け入れるしかなかった。
男たちの反応も、変わった。
以前は礼儀正しくあたしを敬ってくれた男たちが、あたしをこれまでにないいやらしい目で見つめ、誘ってくる男まで現れ出したのだ。
「なあ、いいだろ?俺がたっぷり愛してやるからさあ」
下心丸出しの、自分の快楽のためだけの誘い。
あたしが断ると、男は失望したように怒鳴った。
「面のいい詐欺師にはすぐなびくくせに、何で罪もない俺のことを拒めるんだよ!!」
ああ……あたしは、ちょっとした欲のせいで大切なものを失ってしまった。
避難所のみんなは、もうあたしを信頼して敬ってくれない。下衆にコロッとなびく尻軽女として、完全になめられている。
家族ももう、あたしを一人前に扱ってくれない。幼児のように全てを管理されている。
あたしはようやく、父さんがこんなに厳しかった理由が分かった。長い間の積み重ねで築いてきた信頼や立場は、失うのは一瞬で、取り戻すのはとてつもなく大変だ。
父さんはその一瞬から家族を守るために心を鬼にしてくれていたのに、あたしは……。
失ってしまった大切なものを取り戻すまでに、一体いつまでかかるだろうか……。
それを思うと、あたしは馬鹿な自分を恨んで涙を流す事しかできなかった。




