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その日、文香は眠りに付けず、長い夜を過ごしていた。夫の帰りが遅いから、というわけではない。それは良くあることだから、今更どうこう思わないのだが…ただ、本当に何となく、眠りに付けなかったのだ。


そんな日もあるだろう、と自室で数カ月も手を加え続けている作品と向き合っていると、


コツンッと音が聞こえた。


最初は外の音が聞こえたのだろう、と思ったが、


続けてコツンッ、コツンッと音が聞こえると、家の中で誰かが歩いているのでは、と不安になった。


夫が帰ってきた様子はない。だったら、泥棒だろうか。いや、勘違いかもしれない。気持ちを落ち着かせ、何とか自室のドアを開けて、家の中に自分以外の人間が歩くような気配がないか、確認してみた。


コツンッ、コツンッ、コツンッ。


確かに聞こえる。やはり、家の中を誰かが歩いていた。


ドアの鍵を閉め、夫に電話をかけるが、応答はない。どうしよう、と頭はパニック状態に陥っているのに、それを煽るように足音は彼女の部屋に近付いていた。


コツンッ。


足音がドアの前で止まる。


彼女は何か自衛に使えるものはないか、と真っ白になってしまった頭で考えるが、結局手に取ったのは、短い筆だった。


ドンっ、と誰かが扉を叩いた。物盗りであれば、音を立てないよう注意するだろう。だとしたら、目的はなんだのだ。自分の命なのだろうか。


恐ろしさのあまり、震えた手の中から筆が落ちてしまったとき、夫が帰ってきた。同時に、扉の向こうにあった気配も消えていた。


「気のせいだろう」


文香の話を聞いても、夫は信じてくれなかった。彼が確認したところ、誰かが家の中に入ったような痕跡は、何一つ見つからなかった、ということだ。


「疲れているんじゃないか。最近、根を詰めて取り組んでいる、と君自身が言っていたじゃないか」


これ以上、夫は取り合ってくれない。そう理解した文香は引き下がったが、次の日の夜も、謎の足音は彼女の部屋を訪ねた。しかし、何者かが侵入した痕跡はなく、その正体は分からないままだった。


「だから、疲れているのだろう」


信じてくれないのなら、今日は早く帰ってきてほしい、と主張すると夫は言った。


「分かったよ。霊能力者でも呼んで見てもらおう。そうすれば君だって満足だろう」


信じてくれないらしい。旦那は面倒だと言わんばかりの態度だった。ただ、旦那は高額な料金を支払い、霊能力者に除霊の依頼を出してくれたのだが…その意味はなかった。


「駄目だ。私には手に負えないほど、強力な悪霊。料金は九割返すから、勘弁してくれ」


その界隈では一流として知られる霊能力者を雇ったが、泣き言を残して帰ってしまうのだった。


「デモンストレーションでも良いから、儀式らしいものでもやってから帰ればいいのに。頭が悪いのだろうか」


夫はそうコメントすると、既に解決としたと判断したのか、それ以上は動いてくれなかった。だから、文香はホテル生活を始めることにした。流石に例の足音がホテルまで現れることはなかったが、家に帰れないことはストレスだった。


あの足音は何者なのだろうか。常にそんなことを考えると、次第にノイローゼ気味になり、ついに彼女は倒れてしまうのだった。




そんな話を聞いた瀬崎は思った。これはあの探偵事務所に相談するしかない、と。

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