21
「新藤、覚悟しろよ」
乱条が一歩踏み出し、新藤も次の攻撃に備えたが…どこかで電子音が鳴り響いた。その音に反応した乱条は動きを止め、懐に手を入れた。
「もしもし。……え、屋敷の中ですか?」
どうやら、電話が乱条を呼び出す音だったらしい。
「いや、成瀬さん。これから、新藤のやつを叩きのめすところなんだよ。もうちょっと時間を…」
乱条は戦闘続行を荒々しく主張しようとしたが、少しずつ意気消沈して行く。
「わ、分かったから、怒らないでくれよ、成瀬さん。すぐ行くって…すぐ」
その様子を見て、茫然とする新藤だったが、電話を切った乱条から、憎々しいと言わんばかりの視線を受けて、背筋を伸ばした。
「新藤、てめぇ…覚えておけよ」
「成瀬さんからの呼び出してですか? 電話一本で大好きな喧嘩をやめて駆け付けようとするなんて…旦那に尽くす良妻のようですね」
「ば、馬鹿野郎! あたしはそういうんじゃねぇよ、馬鹿! 成瀬さんは上司で、その指示に従うのは当然のことだろうが、馬鹿。そうだろうが!」
「乱条さん、意外にエプロン姿も似合うかもしれませんよ」
良妻よりは、好きなバンドマンに気に入られるため、必死に言うことを聞く女にも見えなくもないが、新藤は言葉を選んで、乱条のモチベーションを上げようとした。
「誰が、え、エプロンなんて! そ、そんな新婚生活に浮かれた女みたいな真似を…でも、成瀬さんはそういうの、好きなのか?」
「本人に聞いてください。それより、早く行かないと怒られますよ?」
「そうだった! じゃあな、新藤!」
先程までは血に飢えた獣のような顔をしていた乱条だが、その闘志をいつの間にか忘れてしまったらしく、恋愛トークに浮かれた女子大生のような表情で立ち去ってしまった。
新藤に対する挨拶も、恋愛相談をしてもらったことで、不安が解消された後のようだ。新藤は彼女の背中に手を振って見送る。どういうつもりか、乱条もそれに答えるように手を振ってから走り去って行った。
孝弘は薬を飲み込んだ。
屋敷に入り込む警察たちを、片っ端から叩くつもりだったが、想定していたよりも数の差は覆せなかった。
仲間を一人助けようとすると、別の一人が捕らわれそうになる。その一人を助けようとすると、また別の一人が。この繰り返しに、仲間も自分も、少しずつ疲弊して行くばかりだった。
薬一つで時間制限ありの超人的な力を手に入れる孝弘だが、自分一人が強かったとしても、意味はなかったのだ。
「おい、お前ら! ちゃんとやっているか!」
そこに、あの金髪のチンピラにしか見えない女まで戻ってきた。イベント会場でも、あの女とはやり合ったが、決着が付かなかった。もし、同じ展開になったとしたら、仲間を全員助けるなんてことは不可能だ。
しかし、メシアを逃す時間は十分に稼いだはずである。だとしたら、自分はここで退いても仕方のないことだ。仲間には申し訳ないが…陽菜だけは連れて、ここを去ることにしよう。逃げることだけに力を使えば、何とかなるはずだ。
孝弘は次々と捕らえられていく仲間を尻目に、陽菜が眠る二階に上がった。薬の過剰摂取で、意識が朦朧としているだろう陽菜を運ぶのは、抵抗があることだが仕方がない。
「陽菜、ここを出るぞ」
部屋のドアを開け、ベッドで眠っている陽菜に声をかけたつもりだったが…そこには誰もいなかった。血の気が引いて行く感覚。もちろん、陽菜は一階にいなかった。
ならば、どこへ?
孝弘は窓から外の状況を見渡す。すると、イベント会場に現れた謎の男を見付けた。気弱そうに見えたが、なぜか殴り倒すことができなかった、あの男だ。やつは陽菜をどこかに連れ去ろうとしてた。まさか、気付かないうちに、今回も連れ去られていたのか…。しかし、謎の男も何やら混乱しているのか、辺りを見回し、誰かを探しているようだった。あそこには陽菜はいない。
孝弘は、イスヒスの力を視力と聴力に集中させ、陽菜を探す。警察と仲間たちが争う音が邪魔をするが、遠くで微かに陽菜の息遣いが聞こえた。
その方向に目を凝らすと、確かに陽菜がいた。陽菜はここから離れようとしている。ただ、意識はまだ朦朧としているのか、彼女の手を引く人物に従っているだけのようだ。ただ、その手を引く人物が、孝弘にとって感情を大きく揺さぶる存在だった。
芳次である。
自分の将来を奪った、あの男が…またも彼女を自分から引き離そうとする。これまでは、自分が彼女を強く引き止めなかったせいで、離れてしまった。
しかし、もう二度と彼女を離さないと決めたのだ。ましてや、芳次が相手ならば、決して退いてはいけない相手だ。取り戻す。何があっても、何が立ち塞がろうとも、孝弘は陽菜を追わなければならなかった。
孝弘は窓辺に足をかけ、咆哮と共に宙へ体を投げ出した。着地と同時に駆け出し、陽菜がいる方へ向かった。体が燃えるようだ。これは、自分の運動量によるものなのか。それも、感情の爆発によるものか。いや…薬の副作用かもしれない。しかし、どうでも良い。今は、一瞬でも早く、陽菜をこの手で掴むことだ。陽菜を補足する…が、その前に自分を遮るような影が見えた。
「孝弘くん!」
聞いたことがある声だが…分からない。今は、陽菜さえこの手にできれば、どうでも良いのだ。それを阻むのであれば、誰であろうが、壊してしまえば良い。
自分を阻む影は、突き飛ばして、跳ね除けるだけ。そう決意して、距離を詰めたが…その瞬間、陽菜がこちらを振り向いた。
「あれ、孝弘?」
彼女の目が自分を捉えていた。どうやら、薬の副作用が収まり、意識を取り戻したらしい。いつもの彼女の瞳がこちらを向いているの、と認識すると、孝弘は自分の中で、何かが鎮まるのを感じた。何もかも分からなくなるくらい、熱くなった心が、静けさを取り戻そうとしている。暴れ馬のように駆けていた足も、ゆっくりと、ペースを落とした。
昔から、そうなのだ。
陽菜がいれば、心が休まる。誰かに優しくしようと思えた。
彼女さえいれば、きっと自分はこれからの人生をやっていけるはずだ。だから、誰にも渡したくない。そう思っていた。それなのに…。
「あ、芳次くん!」
陽菜は自分から視線を離してしまった。それだけではない。自分の傍にいるべき人間は、その男こそが相応しいと言わんばかりに、芳次の名前を呼んだ。
今度は、芳次が振り返った。その表情が、どんなものだったのか、孝弘には認識できなかった。芳次の顔を見たとき、再び自分の内で、何かが燃え盛った。




