第645話 農村の夜
「とは言え視察は、明日にするか」
気がつけば、窓の外は太陽が山際に沈み、日が暮れようとしている。
部屋の中で互いの顔が見えなくなるほど暗くなるまでに時間がない。
「とりあえず部屋の灯りをつけてもらえるか」
全員で手分けして、邸宅の各所に灯りをつけて回る。
壁掛け式のランタンは、街から持ってきたものを加えて元からあった設備の倍ほどにも増やしてある。
夜間の明るい照明は、あまり贅沢をしない俺の、ささやかな贅沢だ。
「ケンジって、変なところに拘るのよね。工房は油が安く手に入るからいいけど」
火口でランタンに火を灯しながら、サラが少しだけ口を尖らせる。
革通りで商売をしていると、怪物由来の油は安く手に入る。
もちろん、獣脂の一種なので煙は出るし、匂いも良くない。
「怪物の脂だけど、ハーブをつけてあるの。少しは匂いが良くなった?」
言われてみれば、という程度に少しはマシになったような気もする。
「いい発想じゃないか。貴族様が買ってくれるかもな」
「うーん。でも、お金持ちなら、最初から植物油を使うんじゃないかなあ」
なるほど、たしかに。
そもそも油の値段を気にするような家なら、さっさと明るいうちに仕事済ませて寝てしまうだろう。
「それにしても、農村って暗かったのね。昔は、それが当たり前だと思ってたんだけど」
窓の外から農村があるはずの場所を見ても、灯りをつけている家は見当たらない。
どの家も、日が沈むと同時に休むのだろう。
暖炉に数少ない薪をくべ、肩を寄せ合って日が昇るのを震えながら待つのだろうか。
「この領地を離れる頃には、窓から灯りが見えるようにしてやりたいものだな」
「変なこと言うのね。夜に灯りがあっても、やることないじゃない」
「やることがなくても、起きていられるようにしたいのさ」
「ふーん」
このあたりの認識は、どうも噛み合わない部分がある。
仕事のためなら夜遅くまで灯りをつけるのは理解できるが、理由もなく起きているのは単なる無駄に思えるらしい。
「いや、貴族街は夜でも灯りがついてますぜ。兵団も周囲に街灯をつけてますな。何しろ、街は物騒ですから」
街中で最も物騒な連中が言っても説得力はないが、キリクの言うように教会や有力者の家などは夜でも灯りをつけている。1等街区や2等街区の一部では街灯まであって、夕方になると雇われた人が、身長よりも長いカギ棒で街灯のランタンを掛けて回る光景を目にすることができる。
「そのうち、革通りでも出入り口には街灯をつけた方がいいと思いますがね」
「ああ、それはいいな」
襲撃がある、と事前情報があったときには篝火を焚くようにしているが、元から街灯をつけておいた方が治安も良くなるし、結果的に経費も安くなるだろう。
街灯をつける仕事を駆け出し冒険者の子供たちに割り当てれば、多少は彼らに小遣いをやることもできる。
油は革通りから安価で調達するわけだし、ある種の地域貢献、公共工事にもなる。
「それに、明るいと飯も美味くなりますからね。今日の飯は何ですか?」
「ああ、サラ、なんだっけ?」
台所にいるサラに声をかけると
「今日はね、麦粥、ハーブと塩、お肉はちょっとだけ!」
という返事が返ってきた。
「小団長、いや代官様。代官様ってのはお貴族様なんですから、もう少し、いいものを食ってもバチはあたりませんぜ」
あからさまにテンションの下がったキリクが抗議する。
もともと剣牙の兵団で良い物を食っていたせいか、キリクは食事の質には敏感だ。
「まあ、金がないというより人手だな。募集をしようと思ったが、村人が怖がって応募してこないんだ」
ここにいる4人の中では、俺とサラがそこそこ料理ができて、キリクとパペリーノは全くできない組である。
だが、サラは領地の統治に必要な人材であるし、領地の問題解決や議論には加わってもらう必要がある。
結果として、今日のように議論が白熱すると、飯の準備にかけられる時間が減り、貧しい食事を取る羽目になる。
「とりあえず農村の連中とは一刻も早く和解しなけりゃ、こちらが餓え死にしちまいますよ」
麦粥の入った木皿を匙で掬いながら、キリクが眉間に皺を寄せる。
小麦も塩も大量に持ってきてあるから餓死することはないと思うが、ごついキリクの珍しく必死な顔が可笑しかったので「そうだな」と頷くだけに留めておいた。
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