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第八章 夢幻魔界とハーメルンの笛吹 4


   4


「おいおい、君はなんともないのか? その剣を掴んで」

 藤枝が不気味なものを見るよう目を薫子に向ける。

「この剣は、持つものの血を啜り、精気を吸い取る」

 薫子は相変わらず、鋼製の蜘蛛の糸で床に貼り付けになった状態でいう。

「そんなものを掴んでどうする? 実際顔色が悪いよ。真っ青だ」

「おまえは掴んだ瞬間に離したからわからない。あのまま我慢して持っていれば面白いことが起こったのにね」

「ふん、なんだいそれは?」

「悪魔との契約」

 薫子はそういいながら、口元が緩んでしまう自分が可笑しかった。

「悪魔だって? そいつと契約すれば、その状態でワイヤーを断ち切れるのか? 逃げようとして四方から高出力電磁波を浴びてもかわせるのか?」

「そんなことはできない」

「ならば僕の勝ちは動かない」

「そう?」

 薫子は立ち上がった。いや、体は相変わらず床に押さえつけられ、ほとんど身動きすらできない状態だ。だが、立ち上がることができた。

 もちろん立ち上がったのは薫子の霊体だ。

 今薫子は身になにも身につけていない。魅惑的な裸身を敵に晒している。ただし手ぶらではなかった。右手に『千年桜』、左手に『伯爵の牙』のそれぞれの霊体。そういうしかない。なぜなら『千年桜』も『伯爵の牙』も、その実体は相変わらず薫子の肉体が握ったままだからだ。

「おまえは……いったい?」

「薫子?」

 驚愕の表情で叫ぶ藤枝と美咲。彼らにも薫子の霊体が見えるらしい。

 しかしまわりを舞い狂う蝶たちはしょせん機械に過ぎなかった。薫子が立ち上がったのに、肉体がそのままというだけで攻撃を開始しない。

 薫子は、蝶のうち、まず藤枝の意思で動く遊撃隊を瞬時にたたき落とした。続いて自分を中心に竜巻のように回る黒い固まりに向かって、二本の剣を振るう。

 まるで自分の剣とは思えないほどの速さだった。

 肉体を脱ぎ捨てたとき、自分はこんなにも早く動ける。

 薫子はちょっとだけ感動した。

 気分を良くし、そのまままるで踊るかのように両手の剣を続けざまに振るう。

「おおおおおお」

 藤枝がおののいている。無理もない。自分の切り札であるはずの黒い蝶たちがまるで枯れ葉のようにつぎつぎと床に舞い落ちていくのだから。

 ぜんぶたたき落とすのに、ほんの数秒しかかからなかった。仮に藤枝があわてて蝶の自動攻撃プログラムを解除し、コントロールを取り戻しても、攻撃は間に合わなかったろう。

 薫子はそのまま剣を二、三振りすると、自分の肉体を拘束しているワイヤーをすべて断ち切った。

「まて、動くな。この女を焼き殺すぞ」

 藤枝が叫ぶ。美咲を人質に取ったということは、本格的に危機を感じたのだろう。

「半分は自動攻撃プログラムにしていたが、解除した。ぜんぶ僕の意志で攻撃する。この数なら一瞬で焼き殺せるぞ。さっきはあっけにとられて攻撃し損ねたが、同じ失敗はしない。いくらおまえが化け物でも一瞬でこの数の蝶は打ち落とせないはずだ」

「やれば?」

「なにぃ?」

「たかだか神のふりをした不格好なからくり人形が、悪魔の力に勝てるとでも思ってるの?」

「舐めるな!」

 藤枝の体から邪悪で攻撃的なオーラが飛ぶ。それは藤枝の胸のあたりから発し、幾筋もの線に別れ、飛んでいる蝶に反射し、美咲の心臓に向かっていた。

 それこそは実際の攻撃に一瞬先だって見える藤枝の霊体の動きであり、攻撃の意志。『千年桜』を通してみる殺気だ。

 薫子は藤枝の元に飛んだ。

 実際には走って間合いを詰めたのだが、肉体の枷のない薫子のスピードではまさに飛んだといった方がいい。三メートルほどの距離の移動など、まさに瞬間的なことだった。

 薫子は『伯爵の牙』を、藤枝が邪悪な気を発している胸の部分に突きたてた。

 こここそが、あの蝶のコントローラーに違いないからだ。

「ば、……馬鹿な?」

 藤枝は信じられないといった顔だ。

 コントローラーの場所を探し当てられたのが信じられないのか?

 それとも、銃弾すらはじき返す外部の装甲を貫いたことが不思議なのか?

 べつに不思議でもなんでもなかった。

『伯爵の牙』は外部の堅い装甲は霊体としてそのまま素通りした。そして問題の蝶を操る機械だけを物理的に破壊した。

 これこそが『伯爵の牙』の真の力。今の薫子は霊体として物質を素通りすることも、掴んだり打撃を与えたりすることも自由自在。

 美咲のまわりを舞い踊っていた蝶たちは、まるで美咲から興味をなくしたかのようにふわふわと周辺に散っていった。

「き、貴様!」

 藤枝はとっさに薫子の首を絞めようとした。しかし藤枝には霊体である薫子を掴むことすらできない。すかすかと薫子の霊体を突き抜けるばかり。

「こ、こんな馬鹿なことがあってたまるか!」

「ほうら、だからいったでしょう? 神の奇跡を気取った機械の力じゃ、本物の悪魔にはぜったいに勝てない。偽物の神の使いは人間界にはいらない。地獄にでも行けばいい。地獄の鬼どもをだまして、地獄を楽園にするのね」

 あとはこのまま『伯爵の牙』を藤枝の頭部めがけて振り抜くだけだ。体がどれだけ機械化されているかは知らないが、脳だけは生身のはず。そうすればたとえどんな堅い人工頭蓋骨でプロテクトされていようと、『伯爵の牙』はスルーして内部の脳だけ破壊できる。

「待て! 俺を殺せば、ネズミはとんでもないことになるぞ」

 勝ち目がないと悟ったか、藤枝は口早に絶叫する。

「どういうこと?」

 薫子は、剣を振り上げようとするのをとめた。

「気づかないのか? この部屋のまわりをネズミの大群が取り巻いていることを」

「わっ、ほんとだ。い、いつのまに……」

 美咲が廊下を見て叫んだ。

 少し意識を藤枝に集中しすぎた。薫子が『千年桜』の意識を広げると、まわり中から膨大なおぞましい殺意が薫子たちに向かって放出されている。ひとつひとつは取るに足らないものかもしれないが、もはやそれらはひとつに統合され、人間に対する憎悪の塊と化していた。それはもう巨大な化け物となんら変わらない。

「どうして襲ってこない?」

「一種のバリアを張っているからだ。ネズミたちは僕の出すある種の波動に集まる。そのままじゃあ、真っ先に餌食になるのはこの僕だ。だから一定の距離以上は近づけないように別種の波動のバリアを張っているのさ。僕を殺せば、そのバリアも消えるぞ」

「だけどおまえが死ねば、ネズミを集める波動も止まるんだろう?」

「止まらない。僕が自分の意志で止めることもできない。そういう風にセットされている。だから僕が死ねば、ネズミたちはいっせいにここになだれ込む。真っ先に牙を突きたてるのは僕の死体だろうが、僕の体はネズミごときには食い破られないからね。そうなれば、やつらが次に狙うのは君たちだ」

 藤枝は、口元に薄ら笑いを浮かべた。

「薫子、はったりかも」

 美咲の声が聞こえる。そうかもしれない。だけど、もし藤枝のいうことがほんとうだとすると、絶対に助からない。

 見なくても、薫子にはどれだけの数のネズミがまわりにいるかわかる。そしてそいつらがどんな感情を向けているかも。

 こいつらがいっせいになだれ込んでくれば、『千年桜』と『伯爵の牙』の両方を使っても無駄だ。数分で間違いなく喰い殺されるだろう。

「美咲さん、こいつを連れて学校から出よう。どこか人気のないところまでネズミを誘導するのよ」

「わかった」

 その瞬間、背筋の凍るような不気味な笑い声がした。

「グギギギギギギ」

 薫子の足下に、伯爵がたたずんでいた。

「なにをかったるいことをいっている。さっさとこいつの血を吸わせろ」

「だめよ、伯爵。そんなことをしたら……」

 だが伯爵はおとなしく薫子のいうことを聞いているような生やさしい魔物ではなかった。藤枝の体に異変が起こる。

「ぐはぁああ」

 藤枝の顔がみるみるうちにやせ細り、ミイラのようになっていく。

 胸にささった『伯爵の牙』の霊体を通して、藤枝の血が流れ出していく。血は霧散するように消えていった。

「な、なにやってるのよ、薫子?」

「と、止まらない。止められない。美咲さん、ドアを閉めて。窓もよ」

 美咲は廊下から部屋に入り込むと、ドアを閉め、鍵を掛ける。

 その間、『伯爵の牙』は完全に藤枝の血を吸い尽くした。その時点で、『伯爵の牙』の霊体は、ようやく藤枝の体から抜ける。

「グギギギギ、おまえのいうとおり、あいつは地獄に送っておいてやった。感謝しろ」

 伯爵はそれだけいうと、消えた。

「感謝しろ? 冗談じゃない。おかげで絶体絶命よ」

 いなくなった伯爵をののしりながら、薫子は自分の肉体に戻った。

 ワイヤーのない今、自由になったはずなのに、異様な怠さを感じ、うまく体が動かせない。

 身軽な霊体の動きに慣れたから? それもあるだろうが、少しずつ『伯爵の牙』に手の平から血と精気を吸い取られ続けたせいだ。生体エネルギーが極端に減っている。

 これ以上素手で掴んでいるわけにはいかなかった。落ちていた布袋を拾うと、『伯爵の牙』を入れて封印する。そのころ、美咲は窓を必死に閉めようとしていた。

 だが少し遅かった。すでに窓からネズミはなだれ込んできている。美咲は必死で閉じて鍵を閉めたが、すでに数十匹、中に入り込んでしまった。

「ぎゃああああああ」

 窓の外から悲鳴が聞こえる。

 見ると香坂に洗脳され、藤枝の手先と化した生徒たちがネズミに襲われている。

「七瀬!」

 この学校ではじめて友達になった七瀬も例外ではなかった。あっという間に体中に黒だかりができた。そのままネズミの海に引きずり込まれる。

 彼らは黒い海の中で溺れていた。

 必死に両手をばたつかせ、黒い海に飲み込まれないように。

 七瀬もその中のひとりに過ぎない。必死な顔で絶叫しつつ逃れようとしている。

「どうして、どうして? マリア様は……ひいぃいいいいい」

 七瀬の顔にネズミが襲いかかった。鮮血が飛び、肉を食いちぎられ、マスクでもしたかのように毛むくじゃらな生き物で顔を覆われる。ばたばた振り回す両腕にもネズミは群がり、そのまま黒いうねりの中に飲み込まれていく。

 薫子にはなにもできない。唖然としてその光景を見ているしかなかった。

「薫子、なにぼさっとしてるの!」

 美咲の檄が飛ぶ。美咲はなだれ込んだネズミを必死で蹴散らしていた。

 薫子もそれにならって、ふらついた体で木刀を振るう。

 残った少数が部屋の隅に逃げ回ったころ、廊下からかりかりと不気味な音が鳴り響く。

「ドアを囓ってる」

 美咲が震えながらいった。

 いつの間にか廊下の炎は下火になってしまったのだろう。しょせんコンクリートの校舎。バイクのガソリンが燃え尽きればあとはほとんど燃えるものがない。藤枝に狂わされたネズミたちは、その程度の火にはひるまないらしい。

 しかもドアは木製だった。あの数のネズミならば、食い破られるのは時間の問題だろう。

 さらにガラスのひび割れる音がした。

 窓ガラスだ。外のネズミたちはキーキーわめきながら組み体操のように背に乗り、山を築き上げるとガラス面に顔をこすりつけて群がっている。そのプレッシャーで窓に蜘蛛の巣のような亀裂が走りだしたのだ。

 びしっ。びし、びし。

 絶望の音が耳に響く。

 ついにそのうちの一匹がネズミの山の頂上に駆け上り、その勢いのまま体当たりする。

 ガラスは全面、ほど同時に砕け散り、滝のようにネズミが窓から流れ落ちてくる。

 ネズミたち一匹一匹が放つ、どす黒い殺気の炎は、薫子の体全体に向かう。

 中に入り込んだやつからだけではない。外にいるやつらも壁を通して、燃えさかる毒蛇のように細長い殺気を放つ。

 その数、およそ数万。いや、もっと多いかもしれない。

 薫子は殺気の炎に体を焼かれたような錯覚を起こしていた。

 窓からなだれ込んでくるネズミの群れは、まるで船の底に開いた大穴から入る海水のような勢いだ。

 薫子はふたつの剣で必死にたたき落とす。もちろん美咲も龍王院の技でたたきつぶしていくが、ふたりでなんとかなる数ではない。

「薫子、藤枝の体の中の機械を壊すのよ!」

 美咲が叫んだ。ネズミを呼ぶ装置を破壊しろということだ。

「でも、そんなことをしたら……」

 制御不可能になったネズミたちが学校中に散らばる。

 今はネズミたちは、この部屋の中にしか興味がないらしいが、それは藤枝の放つ音波だか電波だかに引きよせられているせいだ。それを絶てば、そこら中の人間を襲うに決まっている。

 そもそも藤枝の体にはネズミが群がり、黒い固まりは団子のようにふくれあがっていた。なまじ体が頑丈にできている分、ネズミたちも食い破れず、覆い被さることしかできない。そしてあとから来るやつがそんなことかまわずに、次から次へと上にのし掛かっていくからそうなる。そいつらを掻き分けて藤枝の体になにかしようとするのは、自殺行為に他ならない。

 ある意味、薫子たちが襲ってくるネズミたちをかろうじて裁けるのは、ネズミの大半が藤枝のところへ行くからだ。

 でもなんとかしないと。このままじゃ殺られる。

 なにしろ相手はほとんど尽きることがなく襲ってくる。こっちには体力に限界がある。ただでさえ貧血でふらふらなのだ。しかも逃げるにも逃げ場なんてない。どこもかしこもネズミだらけなのだから。

 今、薫子も美咲も壁を背に前面から襲ってくるはぐれネズミたちをなんとかしのいでいる。もし藤枝の体に牙が通らないことに業を煮やしたネズミたちが標的を変更し、いっせいに襲いかかってきたら防ぎようがない。

 薫子の焦りは限界に達していた。体力は当に限界を通り越し、気力だけで動いている。美咲だってたぶん同じだろう。

 入り口の木製ドアがめきめきと生木を裂くような音をたてだした。見ると下の方の蝶番の部分が囓り取られ、外から押し寄せるネズミの圧力でドアの下端が内側に押されている。

 ついにドアがはじけ飛んだ。

 廊下にいたネズミたちが波となって押し寄せる。

 それだけじゃなかった。いきなり天井が崩れ落ちた。

 知らない間に天井裏にも大量に入り込んでいたらしい。ネズミたちが台風のときの雨のように頭上から降り注ぐ。

 もうだめだ。

 ついに薫子があきらめかけたとき、廊下を太陽のような炎が流星のごとくこちらに向かって飛んでくるのを感じた。

 薫子は、それがほんとうの光景かと一瞬錯覚したが、すぐに『千年桜』で感じる霊体の動きだと理解した。

 その霊体には見覚えがある。

 黒い固まりが爆音とともにドアから飛び込んできた。

 バイクに乗った黒ずくめの男だった。

 薫子の全身に牙を立てようとしていたネズミたちも、男が放つ激流のような気に反応したのか、薫子の体から離れ警戒態勢を取る。

「美咲、生きてんだろうな?」

 男は叫ぶ。

 顔はヘルメットで隠れていたが、その霊体は、薫子が二度にわたって剣と拳をかわした男。

「おまえは?」

「兄貴」

 ふたりは同時に叫ぶ。

 兄貴? 美咲さんはあの男の……。

 あの大男はふたりの姿を確認すると、なにやらバイクのハンドルのあたりのレバーを操作した。

「壁を爆破する。美咲、物陰に隠れてろ。鳳凰院、めいっぱい息を吸ってとめろ」

 一瞬判断できずに立ちつくしていると、美咲が体当たりをかませ、ベッドの物陰に倒れ込んだ。薫子はなにが起こるのかよくわからなかったが、美咲に身を任せた。

 バイクの前面からなにかが飛び出す。それは外に面したコンクリートの壁にぶち当たると激しい爆音とともに炎を発した。

 ミサイル?

 それはまさに小型のミサイルだった。壁は吹き飛び、一瞬煙でなにも見えなくなる。

 だがネズミたちがその瞬間、いっせいに物陰に隠れるのがわかった。

「乗れ!」

 その声に薫子と美咲は動いた。とにかく今の一撃で、ネズミたちは非難した。こいつらがふたたび動き出す前に逃げ出すしかない。

 ふたりはバイクの後ろに飛び乗る。まだ煙で視界が悪かったが、霊体が見える薫子にしてみれば問題ではなかったし、美咲も似たような能力を持っているらしい。

 爆煙が外に流されるころ、ネズミたちは様子をうかがいながらじりじりと薫子たちに近づいてくる。

 側には藤枝の死体が転がっている。制服は囓られ、全裸を晒しているが機械化された体のため、骨にはなっていない。かわりにロボットのような装甲がむき出しになっていた。

 バイクの後ろの部分からなにかが飛び出した。分銅の付いたワイヤーだった。それは藤枝の体にくっつく。磁石になっているのかもしれない。なにせ藤枝の体は機械化されている。

「なにする気なのよ? デカブツ」

「だ、誰がデカブツだ? ネズミを誘導するに決まってるだろうが」

 恐る恐る様子をうかがっていたネズミの一匹が飛びかかってきた。それを合図に、一定の距離を置いて囲んでいたネズミたちがいっせいに動く。

 まるで黒いつむじ風が舞い上がり、自分たちに向かって吹き荒れるようだ。

 悪魔の風が自分たちを包む前に、バイクは飛び出した。

 たった今ぶち開けた外壁の穴を通り、外に着地するなり猛スピードで走り出した。少し距離を置いてワイヤーに固定された藤枝の体が地面にバウンドする。

 ネズミたちは我先にと藤枝に集まろうとする。しかしバイクの方が速い。バイクは藤枝を引きずりながら走り、ネズミの大群がそれを追う。

「どこ行く気よ?」

 薫子がそう聞いたときには、バイクはすでにプールの側まで来ていた。

 そうか。プールに入れる気か。

 しかし、藤枝をプールに下ろす余裕があるか? ネズミはすぐそこまで追ってきている。

「どうやって藤枝の体をプールに入れる気?」

「ふん」

 男がバイクを急旋回させると、反動で藤枝の体が宙に舞う。

 分銅の電磁石を切ったのか、藤枝の体はワイヤーの拘束から解放され空高く舞った。そのままプールの中にざぶんと落ちる。

 もはや薫子たちなど眼中にないようだ。外部のフェンスに瞬く間にネズミたちが群がる。そのまま次から次へと、プールの中になだれ込んでいった。

 プールの水がフェンスの隙間からあふれ出す。だがネズミたちはそんなものをものともせずにプールの中に駆け込んでいった。

 高校では珍しい五十メートルプールはあっという間にネズミで埋まった。プールの中だけでは収容しきれずに、プールサイドにも広がり、さらにはネズミの群れの上に次々とのしかかり、山を築き上げていく。下の方のネズミはもう勝手に溺れてるかもしれない。

 それは異様に不気味な光景だった。

 学校中のネズミが集まったのか、ついにはプールに駆け込むネズミがいなくなった。

「い、いったい、何匹いるのよ、これ?」

「知るか」

 男が面倒くさそうに吐き捨てる。

「おい、降りろ」

 さらに薫子と美咲にいった。

「プールに集めたはいいけど、いったいどうやってあれを始末する気なのよ?」

 薫子は男のえらそうな態度に腹を立てつつ降りると、突っかかった。

「ああ? こうやるに決まってるだろうが!」

 男はバイクのハンドルに突いているスイッチを押すと、さっきまで薫子が座っていた後ろの座席の部分が左右に開いた。中にはなにか丸い穴がいくつも空いている。

 そこからぽんぽんと連続していくつも飛び出したものは、いったん上空へ登ると虹のように弧を描いて急降下し始めた。

「ま、まさか、あれ……」

「ナパームだ」

 そしてそれはプールに落ちると、真っ赤な炎を含む黒煙がまるで噴火でもしたかのように天高く舞い上がる。むせかえるようなガソリンの匂いとともに熱風が吹き荒れる。思わず吸い込むと、強烈な匂いと熱さで鼻腔が焼けるような気がして、鼻を押さえ、咳き込んだ。目には涙が堪っている。

「ちょ、ちょっと、そういうことは先にいってよね。準備ってもんが……」

「はっ、それくらい予期しろ。想定内だろうが」

「呆れた。まるで戦争屋ね、あんた」

「あたりまえだ。これは戦争だ。知らなかったのか?」

「あたしたちの本来の姿は目立たず、人知れず任務遂行でしょう? たとえ戦争中だろうとね」

「ほう? 鳳凰院はそうなのか? だがそんなことは知ったこっちゃねえ。俺たちのやり方には口を出すな。みみっちいのはまっぴらごめんだ」

「ごめんねえ、薫子。こういう野蛮人な兄貴でさ」

「やかましい」

 ネズミたちは断末魔の叫び声を上げながら、炎の中を狂ったように踊った。花火のように、燃えながらあたりに飛び散るネズミたち。だがそれはつかの間のことだった。プールからこぼれ落ちた大量の水はグランドの土と混じり泥水になっている。ネズミたちはその泥の中でのたうち回り、すぐに動かなくなった。

 学校の内と外から大歓声が鳴り響く。

 終わった。

 ナパーム独特の異臭に混じった肉の焼ける匂いを嗅ぐと、薫子はようやく不気味なネズミたちの最後を感じ、安心した。

「ところで、……どうしてあたしを助けたのよ?」

「知るか。命令だ。俺を殺そうとした女をそうでなきゃ誰が助けるか」

「あたしたちの上層部が手を組んだみたいよ。つまりあたしたちは仲間になったわけ」

 美咲がフォローした。

「っていうか、美咲さん、あなたスパイだったわけ?」

「もう、薫子ったらすんだことをうじうじと。仲間になったんだから気にしない、気にしない」

 薫子の首に腕を巻き付け、もう片方の拳で頭をぐりぐりする。

「まあ、……一応礼はいっておくよ」

 頬を膨らませながらそういうと、美咲はけらけら笑った。

「ところでふたりともどうして保健室のことがわかったのよ?」

 薫子はふと疑問に思ったことを口にした。ふたりとも起こっているできごとがわかっているかのように一直線に自分のところに駆け込んできたのが不思議だった。

「おめえだいぶ感情が高まっていただろう? 思念波が強烈に出ていた。まあ、他からもいろんな生徒が出していたが、おめえと美咲の思念波の形は良く覚えているんだよ」

「思念波? なにそれ?」

「それは龍王院の秘密だ。誰がてめえなんかに教えるか」

「ふん」

 よくわからないが、薫子が霊体を見られるのと同じように、他の人間には感じられないその人間の固有のものを読み取る力があるのだろう。

 ようやくそのころ、危機が回避できたと思ったのか学校の中から教師や生徒たちが恐る恐る出てきた。さらには学校の外から報道陣が警官の包囲を振り切って押し寄せてくる。いや、そもそも事情を知らない制服警官がこっちに向かって走ってくる。それも「いったいこいつは何者だ? 逮捕してやる」とでもいった顔つきのまま。

「じゃあな。俺たちのことは誰にもいうんじゃねえぞ」

 龍王院の男は小馬鹿にするような口調で薫子にいった。バイクの後ろにはいつの間にか美咲が座っている。

「木刀貸して。部屋に戻しといてあげるよ。警察の事情聴取がはじまるから、そんなもの持ってたら面倒でしょう?」

 美咲はそういって、薫子から木刀二本を奪った。

『千年桜』だけなら一瞬で戻せるが、御札で封印している『伯爵の牙』はどうかわからなかったから素直に渡した。

「わかってると思うけど、そっちの剣は袋から出しちゃだめよ」

「わかってるって。さっき見てたからね。じゃあねえ」

 龍王院の男はそのままアクセルをふかすと、武装バイクを猛スピードで走らせる。

「ま、待て貴様。さっきの武器、いや兵器はなんだ? おい」

 あわてふためく警察官たちが銃を抜いて叫ぶ。

「止まれ。止まらないと撃つぞ」

 しかし制止命令を出したころ、ふたりの姿は遙かに遠くにあった。

 押し寄せる警官隊をかわし、正門でひしめき合うマスコミを尻目に、化け物バイクはジャンプすると塀を軽々と跳び越えた。

 もう目では追えないが、薫子には彼らが猛スピードでここから立ち去っていくのが感じられた。



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