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第八章 夢幻魔界とハーメルンの笛吹 2


   2


 薄汚い精神だ。

 東平安名は黒死館の魂の奥底に向かって泳ぎながら思った。

 まるで夜にヘドロの海へ潜っているような気になる。

 真っ暗な中に、有象無象の化け物どもがまるで深海魚のように蠢いている。

 こいつらは黒死館の歪んだ欲望を具現化したものなのだろう。

 隣では黒死館が平行して泳いでいる。こいつの行き先こそが深層意識の底だ。

「なかなかやるじゃないか。だがどこまでついてこれるかな?」

 黒死館は相手を見下した顔で笑う。

「ふん、底に近づけば近づくほどおぞましい世界になっていく。人間の底が割れたな」

「黙れ。きれいごとをいうな。どんなに善人ぶった人間でも、魂の奥底は似たようなものに過ぎん。おまえだって何人もの人間の魂を共有しているのならわかるはずだ」

「あいにくあたしは相手を選んでるからね。そんな経験はないのさ」

「ふん。違うな。そこまで深く入り込んだことがないだけだ」

 黒死館は勝ち誇る。

「見ろ、あれが私の魂の根源だ。貴様はこれ以上近づくことはできまい」

 黒死館が指さした方向にはほのかな灯りが見えた。

 だが東平安名は容赦なくその光に寄っていく。

 すぐ間近まで来たとき、その発光体が胎児であることに気づいた。いや、胎児というには少し成長しすぎている。三歳くらいの女の子だ。しかし胎児のように体を縮こめ、臍の緒が繋がっている。

「マリア様」

 黒死館の口からその名が漏れた。

「……なぜ、なぜここにあなたが?」

 胎児は黒死館の問いに答えず、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「これがおまえの魂の奥底か? ふふん、知らず知らずのうちにマリアに洗脳されていたようだな、黒死館」

「ち、違う。私は洗脳などされていない。私は自分の意思で……」

 東平安名はさらにマリアに近づいた。だが黒死館はそれ以上中に入ることができなかった。まるで見えない壁に遮られているかのように。

「そこから入って来れないのはまさに洗脳されているからだろう?」

 東平安名は動揺する黒死館をあざ笑う。

「違う。私はただ、マリア様に敬意を払っているだけだ。洗脳などされていない」

「ふふん。この虚像を消せば、ひょっとしておまえの洗脳は解けるのかな? それとも死ぬのかな? どっちにしろやる価値はあるな」

「よせ。やめろ。そんなことをしても無駄だ。私は死なないし、そもそも洗脳などされていない」

「おまえが必死になって止めようとすればするほど、あたしはやりたくなる」

 知らず知らずのうちに口元が笑っている。サディスティックな笑いがこみ上げてくる。

「忘れてるんじゃないのか? おまえはアヤカの精神をレイプした。あげくに操り人形にして、殺した。そんなおまえの頼みをあたしが聞くとでも思っているのか?」

「頼むからやめてくれぇえええ!」

「あははははははははははははは」

 東平安名は見えない刃で胎児をずたずたに引き裂いた。

「ぎゃあああああああああああ!」

 響き渡る断末魔の叫び。しかしそれは引き裂かれた胎児ではなく、黒死館の口から出た。

 切り刻まれた胎児は霧散して消える。同時に黒死館のイメージも消え失せた。


   *


 体が本物の液体に浸かっている感触。

 東平安名は帰ってきたことを実感した。

 ここはサイコポートするときに使用するカプセル。中には液体を満たし、それに浸かることで究極のリラックス状態になり、他人の心に入りやすくする。

 手の側にあるボタンを操作すると、カプセルのふたは開いた。

 東平安名はカプセルから出ると用意しておいたバスタオルで裸の肉体を拭う。

「誰だ?」

 暗がりの中に誰かの気配を感じた。誰もいるはずのない部屋に。

 とっさにカプセルの手元のスイッチを入れ、照明を点ける。部屋の中にはくたびれたスーツを着た若い男がいた。

「三月陽介」

「久しぶりだね。龍香さん」

 三月は癒し系の顔に笑顔を浮かべた。

「どうやってここに……、いや、それは聞くまい。おまえならそれくらいのことはできても驚かない。鳳凰院出身の男だからな」

 東平安名はどうどうとカプセルの側に置いておいた着替えに袖を通しつついった。

 鳳凰院は表の権力と結びつくために、一世代前に一族の者を三月グループに嫁がせた。その息子が三月陽介であり、三月グループの跡継ぎであると同時に、鳳凰院の隠れた一族でもある特殊な人間として育てられた。それは鳳凰院一族の人間でも首領以外は知らないはず。

 それが情報屋を使い、何年も掛けて集めた情報だ。

「そういうあなたこそ、龍王院出身じゃない?」

「ふん、知っていたのか? シンですら知らないことなのにな」

 自分が同様に龍王院と東平安名の隠れたハイブリッドであることはお見通しらしい。

 一族が生き残るには、いつの時代だって金と権力の後ろ盾がいる。戦後の平和な世の中において、龍王院は日本を代表する企業グループと、警察という国家の力と結びついた。鳳凰院が企業複合体やマスコミと手を組んだように。

 互いに同じようなことをやっている。狐と狸の化かし合い。しかも味方すら欺いている。

「あなたが僕を監視し続けたように、僕の方でもずっと見てきたからね」

「美咲がスパイだってことは知ってたのか?」

「まあね、逆に利用することだってできるし」

「曙学園の情報はわざと流したのか、あたしを動かすために」

「お気に召さなかったかな?」

「べつに。お互い出し抜き合うのがあたしたちの宿命だ」

 互いに笑った。べつに可笑しくもないのに。

「それで用件は? まさかあたしを殺しに来たわけでもあるまい」

「手を組まない? 少なくとも相手が『楽園の種』の場合は」

「自分とこだけじゃ手に余るってか?」

「そっちだってそう思ってる癖に」

 ふたたび互いに笑った。たしかにこの男のいうとおり、強力な味方は多ければ多いほどいい。それほど敵は手強い。

「それでシンを助けたのか?」

「そう。手見上げがわりにね。虹村さんは間に合わなくて残念だったけど」

「まあいいさ。こっちもその気だ。だから薫子には美咲を救援に送った」

「じゃあ、取引成立っていうことで」

 東平安名はケータイを取ると、慎二の番号を呼び出した。



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