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第八章 夢幻魔界とハーメルンの笛吹 1



 第八章 夢幻魔界とハーメルンの笛吹




   1


 慎二の体は落下した。

 さっきまでなにもない宇宙空間のようなところを漂っていたのに、めまいとともに自分が奈落の底に落ちていくような気がする。そんな中、黒死館の嘲笑だけが耳にまとわりつく。

 しっかりしろ。落ちていくのは気のせいだ。これが現実のわけがねえ。

 そう自分にいい聞かせた。その瞬間、どこまでも落ちる感覚は消え去り、慎二は泥沼のようなところに立っていた。

 ずぶずぶと慎二の足が地面に潜り込んでいく。膝まで沈んだころ、止まった。今度はコンクリートのように堅くなり、抜こうとしてもびくともしない。

「ひ~ひっひひひ。動けるかね? 試しにその化け物のような銃で地面を撃ち抜いてみたらどうだ?」

 黒死館は宙に浮き、慎二を見下ろしながら挑発している。

「ふん、ずいぶん強気じゃねえか。現実の世界じゃ勝てねえからって、夢の世界作り出してやりたい放題か? 若いころはさぞかし女にもてただろうぜ、この妄想野郎が」

 どんなに減らず口をたたこうが、実際ここでは黒死館のやりたい放題だ。なにせここは現実の世界じゃない。深層意識の奥底であり、不覚にもやつに支配されている。この中では黒死館こそが神であり、やつの思い通りにならないことはないし、逆に慎二の思い通りになることなどひとつだってありはしない。

「ふふん、子供のころ君みたいなやつがクラスにひとりはいたよ。粗野で乱暴で、私のような運動のできない子供をいじめて喜ぶどうしようもない糞野郎がね。そいつらの頭の中に入ってちょっと悪戯してやれば、すぐノイローゼになって学校に来なくなったものさ。楽しかったなぁ、くくくく」

 黒死館は心底楽しそうに不気味な笑みを浮かべる。

「でも君はそんなものではすまさないよ。さあて、どうやっていたぶってやろうかな? 頼むから殺してくれっていいたくなる責めを、続けてやるよ。だが残念ながら現実の世界と違って、どんな過酷な拷問を長時間続けても死ぬことはない。君さえその気なら、最高の拷問を半永久的に受けられるんだよ。すばらしいだろう?」

 真性のサディスト野郎め。その狂気にゆがんだ顔こそが、貴様の本性そのものってわけだな?

 慎二がここまで敵を憎悪するのははじめてだ。今までも何人か『楽園の種』のメンバーを追いつめたが、それはあくまでも仕事だ。

 テロリスト集団というのは、一般人には理解不能でも、彼らなりの正義を信じて戦うものだ。それは彼らの信じるイデオロギーなり宗教なりの正義と、社会一般で信じられる正義とにずれがあることによって生じる悲劇ともいえる。正義感の決定的なずれは、お互いの共存を許さない。

 だがこの男の中に自分なりの正義はあるのか? 『楽園の種』の目指す楽園とやらを信じて、その実現のために戦おうとしているのか?

 とてもそうは思えなかった。

 こいつは他人を傷つけ、苦しむのを見て喜ぶ変態野郎でしかない。

「彩花にはなにをやった? もてない男の妄想でも試したのか?」

「知りたいかね? まあ、死んでいった者の名誉を汚すようなことをいう必要もないだろう? つまり、虹村は女としてとても同僚にはいえないような目に会い続け、屍となった魂を救済されたんだよ、マリア様にね。生きる希望も意味も完全に失った虹村には、理想社会の種になるということが生きるためのただひとつの意義になったんだろうね?」

 黒死館は好色な笑みを浮かべ、思い出し笑いした。

「あ、そうそう思い出した。最初のころは君の名前を呼んでいたよ。泣き叫びながらね。くくく、でもそれも最初だけだ。途中からは君のことなど頭になかったようだなぁ」

「この糞野郎が! てめえだけはどんなことがあろうとも必ずぶち殺してやるからな」

 視界が赤くなった。血の涙を流しているらしい。それを見て、黒死館は下品な笑い声を立てまくる。

「おまえはどうなんだ?」

「なにが?」

「おまえもそのマリア様とやらに洗脳されたのか? それとも自分の意思でやってるのか?」

「私が洗脳されているだって? 馬鹿め、そんなことがあるわけないだろうが。私は自分自身の意志でマリア様に使えているのだ。マリア様ほど私のこの能力や研究を高く評価してくださる方はいない。そしてマリア様に使えている限り、この私でも正義になれるのだからな。それにおまえは私の力を過小評価しているようだからいっておこう。私は他人の精神に入れると同時に、他人が私の精神に入り込めないようにバリアを張ることができる。だからたとえマリア様といえど、勝手に私の精神の中に入り込むことはできない。もちろん今だって張っている。おまえの仲間にどんなやつがいるかわからないからな。つまり、この世界の中にはたとえ誰であろうと入れない。この中では私こそが唯一にして万能の神なのだ」

 そういって、黒死館は狂ったように笑った。

「つまり貴様は慈悲を掛ける必要もない、生まれついての悪党だってことだな?」

「いいや、私は正義だよ。君だって自分が正義の側にいるつもりなんだろう?」

「正義? そんなものは知ったことじゃねえ。俺は傭兵だ。依頼主につくだけ。もっとも貴様らのようなクソ野郎を依頼人にするのは死んでもいやだがな」

「ならば貴様は私以下だ。自分の信じる正義に殉じる気概もない」

「黙れ、死に神野郎」

 あまりの怒りに、無駄だということも忘れ、慎二は『龍の牙』を抜き、特殊マグナム弾をぶち込んだ。

 弾は黒死館の体の前でぴたりと止まる。そのまま塵と化した。

「まだそんな気力があるようだから、遠慮なくやらせてもらおう。もうおしゃべりもここまでだ。あとは君の悲鳴と命乞いしか聞きたくないな」

 そのとき、慎二は地面が妙に揺れていると感じた。

 地震? いや、違う。自分の体は揺れていない。

 地面は揺れているというより、蠢いている。

「うわああああっ」

 慎二はいつの間にか、地面だと思っていたものがネズミの大群であることに気づくと叫んでいた。

 ネズミの固まりが自分の膝の高さまで溜まっている。それは自分を中心に、おぞましい声で鳴き、不気味な波のような微妙な上下運動をしながら無限の彼方まで広がっている。

 ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。ネズミ。

 いったい何億、いや何百億、何千億のネズミがいるのだ?

 まさしく世界中のネズミをここに集めてきたのではないかと錯覚してしまう。

「いや、君の仲間も同じ目に合うだろうから自分の体で感じておいた方がいいだろうと思ってな」

 まさか、学校にもこれほどの数が集まっているのか?

 慎二はとっさに美咲がネズミに襲われる様子を思い描いてしまった。

「ほう。学校に行っているのは君の大事な人らしいな。妹か? ふん、くだらない。そんなものに価値観を置くとは、君もただの一般市民だったようだな? まあ、いい。そんな価値観などはすぐにでも崩してやる」

 ここでは思ったことはすべて筒抜けなのか? 深層意識を共有している以上、とうぜんといえばとうぜんだ。

 突然脚に激痛が走った。

 今まで様子を見ていたネズミたちがついにその牙を突きたてたらしい。

 ネズミの大地は大きくうねった。自分に向かって集中する津波のように、四方八方からおぞましい波が押し寄せてくる。

 黒い大地は黒い海に変わった。その波に飲み込まれ、しぶきがかかる。

 黒い波。襲いかかるネズミの固まり。

 黒いしぶき。飛びかかってくる単体のネズミ。

 そいつらがいっせいに慎二の体に牙を突きたてる。

 特殊戦闘服もまるで役に立たなかった。銃弾も刃物も通さないはずのプロテクターを無視し、つぎつぎと体を食い破ってくる。

 慎二は肺の空気がなくなるまで叫んでいた。

 やせ我慢などとてもできるものではない。ネズミたちは肉を食い破り、骨をかみ砕き、内蔵を屠る。すぐに肺を破られ、息すらできなくなった。

「君の妹はそれで死ぬだろうね。現実の世界に生きてるんだから。だけど、幸せなことに君は死なない」

 黒死館のいうとおり、慎二は生きている。体中に耐え難い激痛を感じ、それどころか体そのものが食い尽くされそうになっているのに死ななかった。

 頭蓋骨が食い破られ、一匹頭の中に進入した。

 もはや手で払いのけることも、首を振ることすらできない。脳を食い散らかされ、頭の中では最低の生き物が暴れ回っている。べつのやつも入り込んできた。

 それでも慎二は生きていた。

 これはしょせん、リアルな感覚を伴う夢でしかないのだから。

 痛みすら消え去り、肉体が完全に消滅したあと、すぐさま慎二の体は復元した。

 戦闘服や銃はなくなっていたが、体は完全に元通りになっている。

 逃げようとした。

 どこに? わからない。とにかく、足の向くまま、走ろうとした。

 ずぶり。

 足がぬかるみに捕らわれたかのように、地面にめり込む。

 さっきと同じだ。たちまち両脚の自由はなくなり、地面が不気味に振動した。

「うおおおおおおおおおおおおおお!」

 雄叫びを上げ、必死で足を抜こうとする。もう二度とあんな目に合うのはごめんだ。

「どこへ行く気だね? さっきのはただの一回目に過ぎない。これから君は永久的にあの苦しみを味わうんだよ。なあに、心配ない。恐怖を感じるのは、せいぜい最初の数十回だ。あとは魂が死んでしまうせいか、なにも感じなくなってしまうらしいんだな。痛みすら苦行の一部のように感じてしまうらしい」

 黒死館がやはり宙から慎二を見下ろしながらいった。

「じゃあ、そろそろ二回目行ってみようか」

 黒死館がそういうと、地面がふたたび海のようにうねりだした。

「その前に念のために聞いておこうか。私のいう言葉を復唱する気はあるかね。なあに、簡単な台詞だ。『私はマリア様の奴隷になります。どうか妹をネズミを使って噛み殺してください。虹村彩花の魂を穢していただいて、どうもありがとうございました』だ。簡単だろう?」

「死んでもいうか、……そんなこと」

「それが残念ながら死なないんだなぁ。楽しみだよ、何回目でその台詞をいうのか。信念だの正義感だのが強いやつほど、それが折れたときにはもろい。自己を否定し、なにかにすがりつき、まさに操り人形になる。くくくくく。ああ、ほんとうに楽しみだぁあああ」

「くくくくく」

「なにが可笑しい?」

「この程度のことで勝ち誇りやがって。たしかに少し取り乱しちまった。だがもう惑わない。これはしょせん夢よ。どんなにリアルな痛みや体感を伴おうが夢に過ぎない。夢ごときで俺を屈服できると信じているおまえが滑稽だ」

 慎二は大笑いした。それも本気で。そうすることによって、くじけそうな心を押さえ込み、恐怖を封印した。そして痛みに耐える覚悟を決めた。

「馬鹿め。わからないなら、わかるまでやってやろう。何回目で泣きつくか、ほんとうに楽しみだよ」

 のたうっている黒い波は円の中心である慎二に向かって打ち寄せてくる。

「来るなら来い。幻覚のネズミども。そんなものを恐れて堪るか」

 黒い固まりが体中をはい上がり、慎二の体を黒い海の中に引きずり込もうとした瞬間、異変が起こった。

 ネズミたちの動きが止まった。まるで凍り付いたように。

 なにが起こったのか理解できない。ぜんぶ死んだというならまだわかるが、そうではない。飛びついたやつは空中で制止したまま動かない。あたかもネズミたちの時間だけが止まったようだ。

「なんだよシン、情けない声でぴーぴー泣かねえのかよ。ちょっとだけ楽しみにしてたんだがな。つまんねえやつだ」

 慎二の側で、東平安名が黒死館同様宙に浮いていた。にやにや笑いながら慎二を見下ろしている。

「来んならもっと早く来いよ。イジメか?」

「くくく、泣きそうになったからってごまかすなよ、シン」

「な、なんだおまえは?」

 黒死館の声は明らかに動揺していた。

精神世界移動者サイコポーターさ。おまえと同じようにな」

「そ、そんな馬鹿な? 私の知らない間に、私の精神に進入しただと? そんなことができるわけがない。私は邪魔が入るのを嫌って、こいつの頭に入ると同時にバリアを張った。他のサイコポーターが入って来れないようにな。だから、たとえおまえが私より数段上のレベルのサイコポーターだとしてもそんなことは不可能だ」

「べつにおまえの精神の中にこっそり入りこんだわけじゃないさ。あたしはシンの精神に入り込んでいた。そこにあとから勝手に入ってきたのはおまえの方だ」

「ま、待ち伏せしたのか?」

「そうだ。まあ、深層意識の世界も広いから一回目は場所がわからなかった。でもこれ以上シンの頭をいじくらせはしないよ」

「どうして、私がこいつの頭に入ることがあらかじめわかったんだ?」

「どうしてだって? アヤカは薬も催眠も効かない。耐洗脳訓練も受けていた。アヤカを洗脳するには直接頭の中、それも意識のバリアの内側、深層意識の世界に入るしかない。そんなことができるのはサイコポーターだけだ。シンの話を聞いて、おまえこそがサイコポーターだとわかった。ならばシンがここを攻め込めばおまえは必ずシンの頭の中に入り込むに決まっている」

「なるほど、どうやら貴様、只者ではないらしいな。敵にまさかおまえのようなやつがいるとは考えてもいなかった。だが、しょせん同じ種類の能力を持っているというだけのこと。能力のレベルはどっちが上かな?」

 黒死館は東平安名を見据え、不敵に笑う。自分の能力には絶対の自信を持っているらしい。

 いや、それは根拠のないうぬぼれではない。慎二はそう思った。

 東平安名はこの化け物のような能力のおかげで、警察の上層部からは一目置かれると同時に忌み嫌われていたが、けっしてその力は万能ではない。

 まず、誰の頭にでも入れるわけじゃない。

 信頼関係がない人間の中には入れない。しかも基本的には相手の了解を得てはじめて可能なのだ。以前に入っている上、波長が合う場合は、例外的にするっと潜り込めることもあるらしい。慎二の場合がまさにそれだ。

 さらにこの能力を使うときには極度の集中が必要で、東平安名は誰かの精神に入るときには、外部刺激の一切を遮断する専用のリラックスルームに入る。それを慎二たちはおこもりと呼んでいた。

 そしてその間、肉体はまるっきりの無防備になるし、戻ったときの疲労感も相当のものらしい。

 だが黒死館は、敵である自分の精神になんの準備もなくあっという間に忍び込んだ。

 おそらくサイコポーターとしては、黒死館の方が数段上手なのではないか?

 慎二の心を読んだらしく、黒死館は勝ち誇る。

「小娘が粋がるな。おまえなど私の敵ではないわ」

 黒死館の一括とともに、東平安名の着ていた服はちぎれ飛んだ。

「くくく。地獄の苦痛に喘ぐ部下のために、せめて貴様の魅惑的な裸体を拝ませてやるがいいわ」

「ふん、おまえが見たいだけだろ? そんなに女の裸がめずらしいのか? この中年童貞めが」

 東平安名は胸や股間を隠すでもなく、黒死館をあざ笑った。

「黙れ、この恥知らずな牝犬が」

 凍った空間に固定されたネズミたちが動き出し、ふたたび慎二の体を這いずり上がる。

「ネズミども、そのくされ女の前で部下を食いちぎれ」

 だがもはやここは黒死館にとってなんでもありの世界ではなかった。ネズミたちが霧のように消えていく。慎二を中心にして、ネズミを気化し、霧散させる力が円形になってどんどん広がっていく。それは無限の彼方まで広がっていった。

 あれほど地にひしめき合い、蠢いていた悪魔の化身たちが、ほんの数秒で完全に消滅した。

「ば、ば……馬鹿な」

 黒死館はこの世の終わりのような顔をした。唯一信じられる自分の力を否定されたとき、きっと人間はこんな顔をするのだろう。

「これはなにかの間違いだ」

 もはや慎二など眼中にないらしい。黒死館は決死の形相を東平安名に向けると、腕を振りかざした。同時にブーメランのような刃が飛ぶ。

 東平安名の体が、肩口から脇腹にかけて袈裟懸けに切断された。刃は数回往復し、腕を脚を首をはねる。あっという間に、東平安名の体はバラバラになる。

「東平安名!」

 だが慎二の心配などどこ吹く風。東平安名の体は、あっという間に互いにつながり、復元した。

「く、くそ」

「なにがくそだ。実体を切られたわけじゃあるまいし、イメージなどいくらでも復元できるに決まっている。こんな攻撃で倒せないことはおまえ自身わかりきっているだろうが」

 悔しがる黒死館を、東平安名はせせら笑った。

「ならばおまえは私をどうやって倒す気だ? おまえ同様、私だってこの世界ではいくらでも復元できる」

「なら、もう一段深いところに入ってやる」

「な、なに?」

「おまえよりも心の深いところに入り込めば、おまえからは攻撃できないし、あたしの攻撃を防御することもできない」

「貴様、私の限界がもう一段だけだとでも思っているのか?」

「ならば、それよりももっと深いところに行くまでさ」

「ふん、この私と潜りっこをする気か? おもしろい。受けて立とうではないか。いちいち相手の了解を得なければ、精神に入り込めない三流のサイコポーターが!」

 東平安名と黒死館は同時に、慎二の目の前から消えた。



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