第七章 魔剣『伯爵の牙』 3
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『美咲。ネズミが向かう先は、藤枝とかいうやつのところだ。そいつを押さえろ。俺もすぐ行く』
ヘルメットに付いている無線から発せられたらしく、聞き覚えのある声が美咲のヘルメットの耳元あたりからかすかに漏れるのを、薫子は聞き逃さなかった。
「兄貴?」
『どうした? 返答しろ』
だが美咲の返答は届かなかったらしい。
さっきの爆発でマイクがやられたに違いない。
美咲はそのまま黙り込んだ。どうすればいいか考えているのだろう。
それにしてもこの藤枝、蝶を操るだけでなくネズミまで引き寄せるらしい。
いずれにしろ、美咲にとって当面問題になるのはネズミではなく蝶だ。それは薫子にとっても同じであり、ふたりはいま無数の銃を突きつけられ両手を挙げているに等しい。ましてや薫子に至っては床に伏し、頑強な蜘蛛の巣状のワイヤーでがんじがらめに押さえつけられている。
「お兄様に応答したらどうだい? 必死に呼びかければもしかしたら通じるかもしれないよ」
藤枝が皮肉っぽく笑う。
「もっとも返答しなくても、お兄様はちゃんと助けに来てくれるらしいね。残念ながら間に合いっこないけどね」
「助けなんかいらないよ。あたしたちふたりで十分」
「へえ、君と薫子さんで? ふたりとも身動きひとつできない癖に。それとも左手で後ろに隠し持っているものがなにか切り札なのかな?」
そういわれれば美咲の左手は後ろに引いたままだ。薫子の位置からはなにも見えない。
「どんな秘密兵器があるのか見せてほしいな。いやなら今すぐ心臓を焼くよ」
美咲は無言で左手を突き出した。その手に握られていたのは、布袋に入った細長いもの。
『伯爵の牙』?
布袋に御札が付いていることからして間違いない。魔力に守られているせいか、さっきの爆発でも焦げ跡ひとつ付いていなかった。
おそらく薫子に必要だろうと、美咲が気を利かして持ってきたはいいが、渡すタイミングがなかったに違いない。
「渡してもらおうか」
美咲はなすすべもなく、藤枝に向かって放り投げた。藤枝は受け取ると、布袋をまくり上げる。
黒光りする木刀。もうかなり使い込まれているはずなのに傷ひとつない。薫子自身、抜き身の『伯爵の牙』を見るのははじめてだった。
「なんだこれは?」
「薫子の木刀。戦闘力の足しになるかと思ってね」
「ふん、くだらない。僕を倒したかったらバズーカ砲でも持ってくるんだね」
そうはいったものの、なぜこんなものを持ってきたのか、興味を示したようだ。
「いったいこいつになにができるっていうんだ?」
御札を貼った布袋から取り出せばどうなるか? それは薫子自身も知りたい謎だ。
なんの予備知識もない藤枝には、それを抜くことに対する恐れなど微塵もあるわけがない。ただの好奇心からだろう。藤枝はなんの躊躇も見せずに、柄を掴むと布袋を床に投げ捨てた。
とたんに部屋全体に妖気が充満した。
いや、比喩ではない。『千年桜』を通して霊体を見ることができる薫子には、『伯爵の牙』から真っ黒な霧状のものが吹き出し、あっという間に部屋全体に広がっていくのが見えた。そして藤枝の体を覆っていた炎状の霊体が黒い霧に吸い込まれて弱っていく。
藤枝の顔は、目に見えて蒼白になり、気のせいか頬が痩けたようにさえ見える。
「うわああああああ。なんだこれは?」
情けないほどに狼狽した藤枝は、悲鳴を上げつつ、魔剣を放り投げた。
床に落ちた魔剣『伯爵の牙』はころころと薫子の手元まで転がる。
柄の部分に血が付いていた。パニックになっている藤枝を見ると、握っていた手のひらが真っ赤に染まっている。
これは藤枝の血?
薫子が魔剣に付いた血を凝視すると、すうっと剣に吸い込まれるように消えていく。
血を吸った?
使い手の血を啜る魔剣。ほんとうに歴代の伝承者たちはこんなものを使いこなしてきたのか?
藤枝の生き血で力を得たのか、魔剣から吹き出す妖気はさらにまがまがしくなっていく。
これを手にすることは、藤枝と戦うことより恐ろしかった。
その反面、こうも思う。これを使えば勝てる。
それは根拠のない、直感的なものだった。
しかし、薫子は『伯爵の牙』を空いている左手で掴んだ。
まるで燃えたぎる鉄の棒でも掴んだかのような激痛が走る。同時にものすごい勢いで手の平から魔剣に向かってなにかが迸った。
生気? 霊力? いや、それだけじゃない。血液が音を立てて剣の中に流れ込んでいく。
急激に薫子の力は抜けていった。
藤枝のように、とっさに放り投げそうになった。
投げ捨てる? だめだ。それじゃあだめだ。
どんなに危険でも、藤枝に勝つにはこいつがいる。それはもう確信ともいえた。
さらに力一杯、『伯爵の牙』を握りしめる。
薫子の意識は飛んだ。
*
ここは?
薫子はまったくべつの場所にいた。
そのこと自体にはもはや驚かない。『千年桜』で体験済みだ。
だけど、それにしても、いったいここは?
室内だった。壁も床も天井も石が積み重ねられできている。夜らしく、ガラスも嵌っていない窓の外は漆黒の闇。部屋の中は、ところどころ壁に掛けられたランプの黄色がかったほのかな灯りで、薄ぼんやりと照らされている。あくまでも直感でいうならば、ここは欧州の古城の内部。
それだけでは驚くに値しない。問題は、ごつごつした石の床の上に、無造作に全裸の若い女たちが横たわっていることだ。
悪いことにどう見ても生きているようには見えない。いずれも白人なのだろう。肌は白いが、人間の肌の白さを通り越し、白蝋のようだ。それぞれブロンドの髪を振り乱したまま固まっている。その顔には恐怖と絶望、そして耐え難い苦悶の表情が刻まれ、首筋にはなにかで貫かれた穴が数センチの間隔を置いてふたつ。傷は新しいが血は一滴も流れ落ちていない。もはや体内にわずかたりとも残っていないことを象徴しているようだ。
そんな遺体が、薫子の足下をふくめ、そこら中にごろごろと転がっている。
だがそんなものよりも遙かにおぞましい光景が繰り広げられていた。
ちょうど部屋の中央あたりだろうか、まだ生きている女がいた。そう思ったのは白い腕が痙攣を起こしつつもかすかに動いていたからだ。
彼女の体の上に、なにか黒いものがのし掛かり、蠢いている。そいつは明らかに顔を女の首筋に密着させていた。
なにをしているか? 血を吸っているに決まっている。
雰囲気でいっているわけではない。ずずっと液体を吸い込む不気味な音が、静寂を破ったからだ。
宙を掻きむしるようにしていた女の腕が、ぱたりと床に落ちる。それでも血をすする音だけは止まらなかった。
しばらくして、ようやく血を吸い終えたのか、音は止んだ。
黒い魔物は女の首筋からようやく顔を上げる。薫子にはそのときはじめてそいつの顔が見えた。
伯爵? そんな生やさしいものじゃなかった。
それは貴族のものでも、紳士のものでもない。そもそも人間の顔ですらない。
肌の色は黒。それも黒人の肌の色とかそういうレベルではなかった。まさに一切の光を反射しないのではないかと思われるほどの真の闇を連想させた。そいつがいるところだけ、光という概念さえない異空間のような錯覚を起こすほどだ。つまり、人間の肌の色じゃない。
大きさは子供くらいで、どうやらなにも身につけていない。ただ背中に翼のようなものを折りたたんでいるのでなにかを着ているように見える。手足は枯れ木のように細く、細長い指先からは銀色の長い爪が伸びきっている。
顔もその体に劣らない異様さだ。
口は大きく開かれたというより、引き裂かれたように不気味に開き切り、すべての歯はナイフのように鋭利に尖っている。中でも上から二本だけ異様に長い牙が銀色の光沢を放っていた。鼻は暗黒の肌に紛れ、あるのかないのかすらわからない。銀色のざんばら髪は顔の前面に垂れ、目のあたりを覆っているが、その隙間からふたつの目らしきものから燐光のような妖しい光を放っている。
どう見ても悪魔だ。
しかしこれこそが、遠い昔にこの剣に封印された吸血鬼、『伯爵』なのだろう。
「ギギギギ」
伯爵は薫子を見ると、人間とは思えない声で鳴いた。
そしてついさっきまで生き血をむさぼり飲んでいた死体を放り投げると、薫子の方にのそのそと歩いてくる。
あまりの恐ろしさとおぞましさに全身鳥肌が立った。
そしてそのときはじめて、自分が身動きひとつとれない状態であることに気づいた。
足は閉じているが、両手は左右に大きく開き、とじ合わせることができない。逆に足は前に出ることも後ろに引くこともできなかった。体をまとっているものはなにひとつなく、健康的な肌を怪物の目に晒している。
そう、薫子は全裸のまま、十字架に磔にされていた。
手首と足首には鉄の枷が嵌められ、全身に黒く冷たい鎖が絡みついている。
それどころか、左の手首には深い傷がいつのまにかついていて、そこから絶え間なく血が流れ落ちている。
目の前の魔物の所業に心を奪われ、自分がこんな破滅的な状況にあることすら気づかなかったとは。
そしてその地獄の光景を見せつけた悪魔が、一歩一歩こちらに近づいてくる。
落ち着け。
薫子は必死で自分にいい聞かせた。
これは薫子の脳内のできごとなのだ。現実のことではない。
もしこれが現実ならば、藤枝と戦っている状況よりも悪いではないか。
伯爵は薫子の目の前で足を止め、「シャー」という威嚇音とともに口を目一杯に開き、悪魔の翼を左右に大きく広げた。
薫子は泣き叫びたいのを必死に堪えて、伯爵を睨み返した。
「おまえが新しい使い手か?」
伯爵は人間の言葉を喋った。低く、かすれた不気味な声だった。
「そうよ」
薫子はできる限りの威厳を持って答えた。
少なくとも伯爵は薫子をたんなる餌とは認識していないらしい。千年桜の精同様、薫子が自分の所有者にふさわしいかどうか調べようという気なのだろう。
そうとわかれば少しは余裕ができた。
「おまえのような小娘に、俺が使いこなせるものか」
「使いこなせないといけないのよ。そうしないと死んじゃう」
「ギギギギ、いいだろう。試してみるがいいさ。そのかわり失敗したら、おまえは餌だ。そこらに転がっている女と同じ運命が待ってるぞ」
それでもやるしかなかった。というより、今さらやめたといっても餌食になる状況は変わらないだろう。この化け物を飼い慣らすしか薫子が生き残る道はないってことだ。
「なにをすればいいの?」
「簡単だ。契約書にサインをすればいい。それだけだ」
伯爵は薫子の目の前に古びた羊皮紙を突きつけた。
「本来、英語なのだが、おまえのために特別に日本語にしておいてやった」
伯爵は恩着せがましくいう。
その羊皮紙にはこう書いてあった。
契約その一。
『伯爵の牙』を使用するさいには、素手で使用すること。その際、抜き身で握るだけで少しずつ血液をすすられることを承知すること。
契約その二。
最低一ヶ月に一回は、『伯爵の牙』に人間の生き血を目一杯吸わせること。
以上の契約を実行する限り、『伯爵の牙』は使い手のために魔力を貸すことを誓う。
薫子はそれを読んで唖然とした。まさに人間の血を吸うことで魔力をふるう魔剣。使い手の血をすすり、倒した相手からはまさに絶命するまでの吸血を欲する。
契約その一は自分が我慢すればいいだけだが、長時間使えないことを意味する。しかしそのことを理解していれば死ぬことはないだろう。
問題は契約その二だ。これは暗に薫子に月に一回殺人を犯せといっている。
それはとても無理だろう。
だがこの契約書には契約を破った場合のペナルティは書いてない。破れば薫子のためには魔力を使わなくなると暗に書いてあるだけだ。
ならば今回限りのために契約すればいい。
そこまで考えたとき、マイナスの考えが頭をよぎる。
『伯爵の牙』の魔力を使ったとして、藤枝をほんとうに倒せるのか?
あの絶体絶命の状態から逃れられるのか?
それができないのなら契約する意味はない。
「あんたずいぶんえらそうだけど、いったいどんな力が使えるのよ? 今のあたしの状況わかってる? あの機械化された蝶使いの化け物をやっつけられるの?」
「グギギギギ。もちろんさ。倒し方はわかるはずさ、契約できればな。そして俺にどんなことができるかは、おいおい教えてやる。必要に応じてな」
伯爵はそういうと、床に向かって手をかざした。
ゴゴゴゴと音を立て、三十センチ四方ほどの大きさの床石がせり上がってくる。高さ一メートル弱のところで止まった。ちょうど書き物をするのに都合のよい高さだ。
伯爵はその簡易机に契約書と羽根ペンを置いた。
「ギギギギ。俺を使いたければ、サインしろ」
「わかったわよ。契約する。だからこの枷を外して」
薫子は覚悟を決めていった。
「グギギギギギギ」
伯爵は薫子の頼みを無視し、けたたましく笑う。
「早くしないと、手首から流れる血液で気を失うぞ。そうなったらおまえは俺の餌だ」
そういうと、薫子の側までやってきてひざまずいた。
下を見ると、左の手首からしたたり落ちた血液がくぼみに溜まっている。伯爵は犬のように四つんばいになると、その血の池に顔をつっこみ、ぺちゃぺちゃと卑しい音を立てて舐めはじめた。
あまりのおぞましさに寒気がする。だが同時に理解した。
つまりこれこそが試練。この状態から契約書にサインする。これができないやつは自分を使いこなせない。だから素直に餌になれってことだ。
これは魔剣に封印された吸血鬼が見せる幻視に過ぎないはずだが、この中で殺されれば、現実の世界には二度と戻れないような気がする。
それはほとんど確信に近い。だからこの中で血を吸われて死ぬわけにはいかない。
だけどどうやってこの枷と鎖を外す?
「ね、ねえ。ヒントはないの?」
そういってみたが、伯爵は一心不乱に床の血を啜っていた。千年桜の精のようにどうすればいいか教えてくれる気はないらしい。
「なによ、教えてくれたっていいじゃない。けち」
伯爵は聞く耳を持たない。
だが考えてみれば、現実の状況と、今の状況は大差ない。現実には粘着質な堅いワイヤーに絡め取られ、ここでは鎖と枷で身動きがとれない。なにもしなければ死ぬってことも一緒だ。そして常識的に考えれば、薫子には両方とも戒めをとく手段がない。
なにか両者に共通する脱出方法があるのではないか? そしてそれこそが『伯爵の牙』のもつ魔力だ。
そこまで考えたが、ほんとうになにか方法があるのか?
今はなぜか剣を持っていない。呼べば来るのか? しかし、両手は手首で固定され、剣など振るえるわけもない。現実の世界では、多小腕は動くが、小さな動きでは頑強なワイヤーを断ち切れるとは思えないし、下手に動くとプログラムされた蝶たちがマイクロ波の雨を浴びせる。動けない。
そうだ、動けない。両者に共通することは動けないってことだ。つまり、動かずにやれっていうことだ。そしてそれを可能にするのが『伯爵の牙』の力だ。
つまり、超能力か? 遠くの物体を動かす精神動力。
いや、違う。
薫子の頭にあることがひらめいた。そしてそれはおそらく外れていない。
『千年桜』と『伯爵の牙』は対の剣だ。
なぜ対になっているのか? その意味は? それがわかった気がした。
まさに静と動。このふたつの剣は正反対の力を持っている。
『千年桜』は相手の霊体を感じる剣。受動的であり、防御のための剣でもある。
ならば『伯爵の牙』とは霊体に関して、能動的であり、攻撃を目的とした剣だ。
つまり『伯爵の牙』とは自分の霊体を操る剣に他ならない。
その考えにたどり着いたとき、薫子の足は一歩前に出た。さらに一歩。そして契約書が置かれた台の前にたどり着く。
振り返れば、薫子の肉体は磔にされたままだ。薫子は今、霊体だけ肉体から抜け出し、ここに来た。
「グギギギギ。わかったようだな。思ったほど馬鹿じゃない」
伯爵は血を舐め尽くしたのか、口から闇のような色の肌に血を滴らせながら振り返った。あとはサインするだけ。薫子はペンを手に取ろうとした。
つかめない。
「ギギギギ。おまえは霊体だ。物質は通過するぞ」
違う。そんなはずはない。もしそうならば、肉体から霊体を抜け出させることになんの意味がある?
薫子の考えでは、『伯爵の牙』とは、体から霊体として抜け出し、敵を攻撃するための剣だ。つまり、物質を攻撃することができる。ならば、ペンは掴めるはずだ。惑わされるな。
薫子は意識を指先に集中する。掴めると信じた。
案の定、今度はペンを握れる。
サインをしようにも、インクがないことに気づいた。
そうか。
薫子は一度自分の体の方に向かうと、ペン先を自分の手首からしたたり落ちる血に付けた。
「グギギギギギ、完璧だ。まさか俺を使いこなせるやつが現れるとはな。しかもこんな小娘が」
伯爵はなぜか楽しそうに笑った。いや、気のせいかもしれない。なにせ、顔全体が闇のように黒く、表情もなにもわかったものではないのだから。
薫子は、自分の血で契約書にサインした。
次の瞬間、この世界を包んでいた闇が砕け散った。




