第七章 魔剣『伯爵の牙』
第七章 魔剣『伯爵の牙』
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狭い保健室に、朝の満員電車でひしめき合うサラリーマンのごとく密集して舞う黒死蝶たち。その中で馬鹿笑いする制服姿の美少年、藤枝。不思議な光景だった。
不気味ともいえるが、ある意味美しく、ある意味のどかですらある。
しかし薫子にとっては屈強なやくざやマフィアの男たちに囲まれ、マシンガンを突きつけられているのと状況は変わらない。いや、それどころか、藤枝は薫子を拷問して殺すと宣言までしている。
考えろ。まだ方法はあるはず。
薫子は必死で解決策を探った。だが頭が働かない。香坂の爪から注入された薬のせいもあるかもしれない。あるいはこの藤枝の高笑いが神経を逆なでするのがいけないのか?
いっそ香坂を倒したときのように、なにも考えず藤枝の元に飛び込み、一刀両断のもとに斬り捨てるか?
成功の確率は低い。距離にして三メートルほど。さっきの香坂のときよりも遠い。いつもの薫子なら一瞬で間合いを詰められるが、今は薬のせいで足下がふらついている。それもさっきよりひどくなったような気がする。仮に上手く飛び込めても、藤枝は瞬時に電磁波の雨を薫子に浴びせるはず。よくて相打ちだろう。そもそも藤枝が蝶に頼らない場合の戦闘力が未知数だ。他にどんな武器があるかわからない以上、うかつに飛び込むべきではない。今、笑って隙を見せているのも、罠なのかもしれない。
ならば壁を壊して逃げるか?
薫子の腕と千年桜なら外壁のコンクリートはともかく、中の間仕切り壁を砕くことは可能だろうが、砕いてその穴から逃げるのはどう考えても藤枝に斬りかかるよりも時間がかかる。逃げ出すより先に体を焼かれるのはほぼ間違いない。却下だ。
電光石火の動きで藤枝を幻惑し、ドア、もしくは窓から逃げる?
絶対に無理だ。どう考えても逃げ切れない。
それ以上いいアイデアは浮かびそうになかった。ならばもっとも可能性の高いのは、藤枝の元に飛び込み、千年桜をふるう。
もっとも単純にしてストレート。愚策にも思えるが、今はそれがベストのような気がする。というか、それしかない。
勝負は一瞬。西部劇の早撃ち対決に似ている。しかも分は限りなく悪い。
だが覚悟は決まった。
薫子の気の変化を察したのか、藤枝は馬鹿笑いをやめた。かわりにその美しい顔に冷笑を浮かべる。
藤枝の体から出る、黒い炎を形取った霊体が静かに揺らめく。
「一か八かの勝負に出るつもりなんだろう?」
やはり、藤枝は薫子の行動を読んでいた。それでいてこの自信。自分が負けるかもしれないなどとは、ほんのわずかも思いつかないらしい。
「どうかな? 僕の力が蝶を操るだけだと思ってるなら大間違いだよ。近づきさえすればなんとかなるほど甘くはない」
まるで薫子の心を読んだかのような台詞をいう。
いや、もちろん実際にそんなことはできないのだろう。だが薫子の性格と、状況を考えるとそう考えるのがもっとも自然。というか、それ以外にない。
「おまえのほうこそあたしを、いや、鳳凰院を舐めている。鳳凰院にとって、この程度のことはピンチでもなんでもないさ」
「ほう?」
藤枝の体から発した無数の炎をかたどった霊体の糸が、蝶たちを経由して薫子の胸のあたりに集まる。
千年桜を通して見た藤枝の殺気。一瞬遅れて本物の攻撃が来る。蝶から発せられたレーザーにも似た、目に見えない超高出力電磁波の集中砲火が。
薫子は反射的に前に出た。さいわい足がもつれることもなく、一瞬で間合いを詰めることができた。
勝った。
香坂のとき同様、剣の切っ先で心臓を狙い、体ごとつっこんだ段階で、薫子は思った。
藤枝の狙いを示す、黒い炎のオーラの先が、薫子の動きに追いついてこれなかったからだ。
突然、藤枝の腹からなにかが飛び出すと、薫子の目の前で炸裂した。
「な?」
それは細いワイヤーだった。蜘蛛の巣のように放射状に広がると薫子の体を絡める。強力な接着剤でも塗っているのか、ワイヤーは完全に薫子の衣服に張りついた。先端には杭のようなものがついているらしく、壁や床に突き刺さり、薫子はあっという間に床に貼り付けになり、身動きがとれなくなった。とうぜん、剣を当てることもできない。
「ど、どうして?」
薫子には相手の攻撃が予知できるはず。どんなに殺気を押し殺そうと、『千年桜』の目をごまかすことはできない。
なのに、薫子には今の攻撃が予期できなかった。というか、藤枝は明らかに今の攻撃を意識して行っていなかった。
「機械の心までは読めない」
藤枝はそういって、勝ち誇った。
「原理はよく知らないけど、君は相手の攻撃を事前に察知できるんだろう? そうとしか思えない。機械からの、蝶からの見えない攻撃すらかわす。だけどそれは操っていた僕の殺気でも読んだんだろう? 完全にプログラムされた機械の動きはわからないはずだ。違うかい?」
返事はしなかったが、まさにその通りだった。
「だから僕はあらかじめプログラムしておいたんだよ。僕の体の中にある機械にね。君がある距離以上に近づいた場合、勝手に今の捕獲ネットが飛び出すようにね」
そんな手があったなんて。
『千年桜』は薫子が思っているほど万能ではなかった。人間や動物相手ならともかく、半分体を機械化した『楽園の種』のような相手には、必ずしも絶対の防御にはなり得ない。今はじめてそのことがわかった。
蝶たちが動いた。
網に絡め取られ、身動きとれずに地べたに仰向けに押さえつけられた薫子のまわりを、天井から床近くまで渦を巻いて回る。
まるで黒い竜巻の中に閉じこめられたような感じだ。
藤枝のオーラはもはや薫子を狙いはしなかった。
「もう僕は狙わないよ。蝶たちはプログラムで動くようにした。君ならそのワイヤーを断ち切ることだってできるような気がするしね。もし君が不自然に動いた場合、容赦なくマイクロ波を全身に浴びせるようにしておいたよ。もう、たとえ僕が死んでもプログラムは止まらない。蝶たちは壊されるまで永久に君を狙う」
不自然に動いた場合もなにも、今の薫子はほとんど身動きすらできなかった。
「馬鹿じゃないの、あんた? じゃあ、あたしがこのまま寝そべっていれば、あんたは攻撃できないってことじゃない」
「それもそうだね」
蝶の壁の後ろから藤枝がいう。
「じゃあ、こうしよう。蝶はこれだけいるんだ。べつに全部プログラム制御にする必要もないさ。たった数匹だけ僕がコントロールできるようにしておけばいい」
渦を巻き、円筒の黒い壁を作っている蝶の群れの中から数匹が中に入り込んできた。
それだけがべつの動きをする。薫子のすぐ上で、ひらひらと舞い踊る。
「君を殺すのにはそれだけいればいい。約束通り、なぶり殺してあげるよ」
藤枝の冷酷な声が響く。
「何度も王手を外してくれたけど、今度こそ詰みだ」
藤枝は蝶の回転で作られた壁からぬっと顔だけを出し、薫子をのぞき込む。
藤枝の出す何本もの糸状のオーラが浮遊する蝶を中継して薫子の胸に集中した。
肺を焼く気だ。
「最後にもう一度聞くけど、もしかして泣いて命乞いをする気はない? 恐怖に顔を引きつらせ、小便でも漏らしながらさ。ひょっとしたら僕の気が変わるかも。なにせ本来なら女の子に優しい王子様だからね」
藤枝はにやけきった顔で勝ちほこる。
「あ、……ああ、聞いて……あたしずっと思ってた」
「ふふふ、なにをだい?」
「王子様気取りで、取り巻き引き連れてるときのあんたの顔って、ナルシスト入ってるうえ、鼻の下伸ばして恥ずかしいったらありゃしないって。ひょっとして本人気がついてないのかなって」
「い、いいたいことはそれだけかぁ!」
「誰がおまえなんかに命乞いするか。そんな屈辱的なことをするくらいなら、丸一日素っ裸で授業受ける方がまだましよ」
「な……なら、死ねよ、糞女ぁ!」
死を覚悟した瞬間、雷鳴に似た音が轟いた。続いて激しくぶつかり合う金属音。最後に堅いものがコンクリートにぶつかるような音が響く。
「あはははは~っ、大当たりぃ」
聞き覚えのある脳天気な声がした。
「み、美咲さん?」
さっきの声は間違いなく美咲の声だ。
だけど、どうしてここに?
薫子のまわりを渦巻いていた蝶の壁が薄くなった。藤枝が新たな敵に対し、半数ほどを攻撃に回す気なのだろう。そのせいで状況がようやく目で確認できる。
藤枝は外に面した壁際に上半身を寄っかからせて倒れていた。制服の胸のあたりには大きな穴が開き、その周辺は焼けこげている。ただ藤枝の皮膚自体は傷ついていなかった。
コンクリートの壁には、まるで藤枝がものすごい勢いで体当たりでもしたかのように、大きなクラックが入っている。
保健室の入り口には案の定、ひとりの女がいた。まるでウエットスーツのように体の線がはっきりわかる一体物の黒いスーツを着ていた。腰には大型の拳銃。足には膝下まである堅そうなブーツ。頭部は口元だけが覗く黒いヘルメットで、目の部分はやはり黒いスキーゴーグルのようなもので覆われていたので顔は見えないが、千年桜で感じる霊体からして、この女が美咲なのは間違いない。
美咲はバイクにまたがっていた。その先端のライトの両脇には後部から伸びる長い銃口のようなものが突き出ている。その片っ方の先端から煙が出ていることから、今の衝撃はそこから発射されたのだろう。
それにしても藤枝に気を取られすぎ、彼女の存在にはまったく気づかなかった。
「やっぱり『楽園の種』の機械化テロリストか」
美咲は値踏みするように藤枝を見下ろし、吐き捨てるようにいった。
「貴様、『鴉』の犬か?」
藤枝はゆっくりと立ち上がると、薄ら笑いを浮かべる。
「そ、パートタイム・ディティクティブってやつ。『ハンター二号』ってあたしのことよ」
ど、どういうこと?
薫子が動揺したのは、藤枝以上だろう。『鴉』ってなんだ? どうして……。
「どうして、美咲さんが?」
「こらこら、気軽に敵の前で名前を呼ぶんじゃないよ、薫子。まあ、共通の敵の前、仲良くやろうよ。兄貴が世話を掛けたみたいだし」
共通の敵? 兄貴が世話を掛けた?
意味不明だが、自分を助けに来たことはどうやら確からしい。
「ふ、パートタイム・ディティクティブだと。つまりバイトくんか? 因果なバイトを選んだね。君、気づいている? 君のまわりを黒い蝶が飛んでるよ」
藤枝のいうとおり、薫子のまわりを回っていた殺人兵器の半分はいつのまにか美咲を囲って踊っている。
「『鴉』の犬ならすでに知ってるだろう? そいつの恐ろしさを」
「知ってるよ。たかが電子レンジだろう? ちょっと高出力過ぎるかもしれないけどさ」
「電子レンジか、なるほどね。君は料理が好きならしいな。だが……」
爆音が鳴り響き、なにかいいかけた藤枝の頭が大きく揺れる。美咲が二発目を藤枝の頭にぶち込んだのだ。
「そ、あたし、料理大好き」
嘘をつけ。嘘を。
「君は気が短いな。学校じゃ人の話は最後まで聞けって教わらなかったのか? 残念だがそんなものじゃ僕は倒せないよ」
藤枝のこめかみから、一筋の血が流れ落ちた。体は少しふらついたが今度は倒れない。だがえぐれた肉の下から見える頭蓋骨らしきものは人間の骨の色をしていなかった。
「へえ、丈夫なんだね、あんた。戦車の装甲だってぶち抜く弾なのに」
「じゃなきゃ、とっとと丸焼きにしてるよ。電子レンジでね。強者の余裕ってやつ?」
藤枝はへらへらと笑った。
「美咲さん、バイクから離れて!」
薫子は叫んだ。藤枝の攻撃が霊体を通して察知されたからだ。
バイクが爆発した。藤枝は美咲本人ではなく、バイクの燃料タンクを加熱したのだ。
炎を伴った爆風が部屋の中に入り込む。ドアの近くの薬だなから瓶が飛び、床にたたきつけられた。さいわい炎は一瞬で部屋の外に戻り、ベッドなどの可燃物を焼くことはなかった。美咲の正面に立っていた藤枝の制服だけが燃えたが、藤枝は顔色ひとつ帰るでもなく、燃える上着を脱ぎ捨て、足で踏み消した。
廊下は火の海となったが、美咲は爆煙の中で体を炎に包みながら何事もなかったかのように起きあがった。薫子の一言で、とっさにバイクを飛び降り、床に伏せたらしい。
「この格好をしているときは、あんたほどじゃないけど、不死身なのよ」
美咲は強がった。そのまま腰の拳銃を抜くと、藤枝に向かって乱射する。
「へえ、でも逃げるための脚を失ったね。もうすぐここにネズミの大群が押し寄せてくるよ。どうする?」
藤枝が弾丸を体に浴びながら、余裕をかます。
それもとうぜんだろう。戦車をぶち抜く銃弾でも倒れない男なのだ。
ならば薫子の攻撃を恐れなかったのも無理はない。いくら薫子が千年桜で攻撃したとしても、戦車の装甲は破れない。つまり剣技ではこいつは倒せない。香坂は体の一部が機械化されていただけだったが、こいつは体全体が機械化され、戦闘用の装甲をまとっているのだろう。いわばこいつ自体が戦場用に作り上げられた兵器だ。
弾が尽きたころ、さっきの爆発から逃げていた機械の蝶たちがふたたび美咲の頭上に舞い戻った。
「さっきみたく薫子さんが攻撃場所を教えるかもしれないからね。先手を打たせてもらったよ。飛んでる蝶の半分にはプログラムを与えてロックした。だからもう僕の意志を離れて勝手に攻撃する。さあて、攻撃は何秒後かな? ついでにいっておくと、半数はまだ僕のコントロール下だ。だからこれ以上下手な攻撃をするんじゃないよ。何秒かでも長生きしたければね」
薫子に続いて美咲までまさに絶体絶命だ。
そんな中、藤枝はひとり楽しそうに問いかける。
「さあて、薫子さんだけに聞くのも不公平だろう? 一応君のオーダーも聞いておこうか。君はどうやって死にたい?」




