第六章 黒死蝶 3
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非常にまずい。
篠原が死んだとき、黒い蝶が舞っていたという予備知識なしでもそう思っただろう。薫子のまわりをひらひらと飛ぶ蝶の群れは異様な雰囲気を持っていた。
いや、それは雰囲気などという曖昧なものではなかった。
千年桜を手にした薫子には、生物の霊体が見える。外で待ち伏せしている洗脳された生徒たちはもちろん、ここにいる藤枝も霊体の形ともいえるオーラを放っている。化け物じみていた香坂でさえそうだ。
しかし、この死を運ぶ黒い蝶からはそんなものは一切放たれていなかった。
作り物。
そうとしか思えない。どう見ても生きている蝶としか思えないが、これは機械だ。さらにいうならば兵器に違いない。
機械ならば、千年桜といえど攻撃を読むことはできない。機械は殺気など放たないからだ。
「只者じゃないとは思っていたけど、鳳凰院一族だったとはね」
「え? なにをいってんのよ、あんた」
「今さら隠したってしょうがないだろう? 顔色ひとつ変えずに人を殺して普通の女子高生だっていい張る気? っていうか、催眠中に自分ですっかり白状したよ。君が三月グループに雇われた鳳凰院薫子だってことはね」
あちゃ~っ。自分の正体や雇い主を敵に語るとは間抜けもいいところだ。鳳凰院失格。もうなにがなんでもこいつを倒すしかない。
「ふん。正体がばれたのはお互い様。あんたも『楽園の種』の化け物なんでしょう?」
「化け物? 君だって大差ないだろう? その化け物を倒したんだ」
「あたしはこれでも生身の人間。訓練のたまものってやつよ」
あえて霊剣の力を教える気はない。
「まあそんなことはどうでもいいさ。問題は君がいろんなことを知りすぎてしまったことだ。雇い主に報告される前に、篠原先生同様、死んでもらうよ。やっぱり心臓麻痺がいいかい?」
「若い女性がふたり続けて心臓麻痺なんて不自然すぎるって」
藤枝はその言葉を鼻で笑った。
同時にオーラの質が変わった。
体からゆらゆらと赤い炎のようにくすぶっていた霊体は、どす黒く濁り、投げ縄でも投げたかのように細い紐状になり、薫子の方に向かって飛んだ。それも一本ではなく、十数本の炎の紐だ。
攻撃的な霊体は薫子ではなく、まわりの蝶に当たった。蝶たちがそれを反射する。そしてそれらは薫子の頭部に集中した。
やばい。
これは藤枝の殺意。機械は殺意を放たなくても、それを操る人間はべつだ。
薫子はとっさにサイドステップで狙いを外す。だが蝶たちは豹のような薫子の動きに後れを取ることなく付いてきた。まるで黒い風が薫子に向かって吹いてくるようだった。
薫子は体術の限りを尽くし、蝶を振り切ろうとする。でたらめな方向に走り、急激にしゃがんだかと思えば、ジャンプして壁や天井を蹴った。
それで短期間、蝶を振り切ることはできた。しかしそれはほんのつかの間のこと。すぐに追いつかれた。
ただでさえ正体不明の薬を注入され、体がふらついているとき、これはつらい。瞬く間に、薫子の息は切れ、全身汗みどろになった。
それでも藤枝の放つどす黒い殺意のオーラが一瞬消えた。薫子は動きを止め、藤枝を見据える。
「さすがだね。僕の狙いがわかったのかい?」
「頭を狙った」
「はっはっはっは。いやあ、どうしてわかったのかな? やっぱり君だって化け物じゃないか? 僕と同類だよ、君は」
「いっしょにしないで。虫ずが走る」
薫子の怒りを、藤枝は鼻で笑って受け流した。
「まあ、正確にいえば、心臓麻痺がお気に召さないようだから、脳を焼こうとしたのさ。脳の内部をね。僕たち『楽園の種』には脳のどの部分が、どういう機能を備えているか正確に理解している。薫子さん、君はどこを破壊すればどうなるか、知ってるかい? どういう死に方が望みかな。体が動かせなくなって徐々に死ぬのがいいか、恐怖を感じないようになってから死ぬのがいいか、あるいは狂い死ぬかい?」
「好きにすればいい。ほんとうにそんなことができるならね」
「はっはっは、気が強いね。そうはいっても、ちょこまか逃げ回れると狙ったところを攻撃できない。じっとしていればご褒美として楽に殺してあげるよ。逃げ回れば、そこまでピンポイントで狙えないからね。どうなるか、保証はできないよ」
藤枝は楽しそうに話す。
「馬鹿にするのもいい加減に……」
いいかけて薫子は気づいた。蝶の数が増えている。それも大幅に。
この狭い保健室の空間は埋め尽くされていた。まるで黒い雲の中に入り込んだかのように、どこを見ても重なり合った蝶の姿が目に入る。
とくに逃げ口となる窓の周辺にいる数は尋常ではない。そしてもうひとつの逃げ口になるドアの付近には藤枝が立っていた。
「気づいたようだね。君があんまり跳んだりはねたりして面倒だから、数を増やさせてもらったよ。もうどこに逃げようと無駄だ。蝶は君を追う必要さえない。逃げ回って疲れ切って無様に殺されるのは惨めだよ、薫子さん。じつはもう事故死に見せかける必要なんてないんだ。これ以上逃げ回るなら肺を焼くよ。そうなれば地獄の苦しみだよ。呼吸ができなくなって、のたうち回って、胸を掻きむしりながら死んでいくんだ。いやだろ、そんなの? 剣を捨てて、僕の前に正座しなよ。降伏したと見なして、楽に殺してあげる。脳の一部を刺激してやるとたまらない幸福感を感じるよ。エクスタシーってやつだ。その絶頂の中で殺してあげる」
藤枝は天使のような笑みを浮かべ、優しくいった。
優しく殺されるために降伏するなどもとより考えてはいない。藤枝の勧告は薫子の怒りに火を注ぐだけだったが、今の一言の中に気になる台詞があった。
「事故死に見せかける必要はもうない?」
つまり事件は表面化していいってことだ。
「すでになにか起こってるってこと? 誰の目にも明らかななにかが」
「いやあ、するどいねえ。でもその通りさ。あしたの新聞の一面はこの学校が飾るよ、間違いなく。だってものすごい殺戮が起こるんだもの」
「いったいなにをするつもりなの?」
「ネズミの大群が生徒たちを襲うんだ。全身ネズミに噛まれて血まみれになった生徒たちの屍の山。絶対ニュースになるよ。日本全国震え上がるだろうね」
「いったいなにが目的なのよ、あんたたち! テロ? 国民を人質にして政府になにを要求する気なの?」
「テロ? 恐怖革命? 僕たちはそんなことを望んじゃいない。ラリった君の頭の中で香坂がいっただろう。僕たちの目的は地球をふたたび楽園にすることさ。僕たちは全世界の人間を幸せの元に統治する。恐怖で押さえつけた体制など、いずれ破綻するのは歴史上明らかだからね」
「じゃあ、いったいなにをするつもり?」
「人々を幸福にするにしても、いろいろやり方はあるってことさ。地球を破壊し、自分たちが滅亡に向かっているのにその自覚のない大衆に真実を教える必要がある。人間は自分たちの罪を自覚すべきなんだ。そのために最小限の犠牲を払うことはやむを得ない。この学校の生徒たちには悪いけど、自分たちの死が、それこそ楽園の種になるんだ。そう考えれば幸せだろう?」
「狂ってるの、あんた?」
「狂ってなんかいないさ。マリア様の考えを理解していないとそう見えるかもしれないけどね。いや、僕だってはっきりぜんぶ理解してるわけじゃないさ。だけど信じているからね、マリア様を。難しいことはマリア様に任せておけばいいのさ。それで世界は安泰だ」
そう語る藤枝の顔は陶酔していた。
「さあ、もう時間がない。まだネズミたちは学校のまわりをうろちょろしているころだけど、すぐになだれ込んでくるよ。そうなったら僕でも止められない。じゃあ、そろそろ聞かせてもらおうか、君の返答を。剣を置くか、向けるか。どっちがいい?」
考えるまでもない。薫子は剣を構えた。
「あんたたちは間違っている。自然の代弁者のような顔をして人間を殺しても、なんの解決にもならない。どんな大義名分を掲げても、あんたたちのやろうとしていることはたんなる世界征服。そんなやつらには絶対に屈しない」
「了解。快楽に身を包まれて死ぬより、苦しんで死ぬのが趣味ってことだね。いい趣味してるよ、薫子さん。真性マゾってやつ?」
藤枝の顔は狂気にゆがんだ。
「じゃあ、そんな薫子さんに特別ご褒美だ。肺を一部だけ機能を残して焼いてあげる。そうすれば死ぬほど苦しくてもなかなか死なないよ。ついでに脊髄を焼いて下半身の運動機能を破壊してあげる。のたうち回って絶望しながら、襲ってくるネズミたちに囓られるといいよ。いいだろ? 最高の死に方だろ? 想像しただけでイキそうだろ?」
なにが可笑しいのか、藤枝は涙を流しながら馬鹿笑いした。その顔は、カリスマを崇拝する信者などではなく、たんなる醜悪なサディストのものにしか見えなかった。




