第六章 黒死蝶 2
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ここはどこだ?
目を開け、はじめは霞がかかったようだった視界が戻ったとき、慎二はそう思った。
どうも自分はパンツ一丁の姿でベッドに横たわっていたらしい。頭には包帯が巻かれている。
「気がついたようだな」
ライオンのたてがみのように髭もじゃでぼさぼさの長髪の中年男が語りかけながら、ベッドの側にやってきた。東平安名の持ち駒のひとつ、医療および科学研究担当の黒森博士だった。
慎二は現場で気を失ったあと、『鴉』の地下治療室に運び込まれたことを理解した。
「それにしても丈夫な体だの。車がひしゃげるほどの衝撃を受けてもたいした怪我をしとらん。だてに鋼のような筋肉してらんな」
この白衣を着た肥満体の医学博士は、ダルマのような腹を揺すりながら「がはははは」と笑った。
「博士、……彩花は?」
一瞬の間ののち、黒森は真面目な顔になり首を横に振った。
わかっていた答えだった。しかしいざ聞くと、激しい衝撃が襲う。
彩花を洗脳したやつ。そして焼き殺したやつはこの手でぶち殺してやる。それがこの俺にできるせめてものはなむけ。
慎二は爪が食い込むほど拳を握りしめた。
「……博士、彩花は脳はいじられたり、機械のようなものを埋め込まれたりしていたのか?」
慎二は上体を起こすと、荒ぶる心に鞭打って質問する。敵を倒すには正確な情報が必要だ。
「機械などはなかった。脳の一部が削除されたなんてこともない」
「じゃあ、あいつはどうして洗脳されたんだ? 薬も催眠も効かないやつなのに。しかも洗脳されるかもしれないと身構えていたのに。ありとあらゆる洗脳の手段を知っているはずの彩花がどうして抵抗できなかったんだよ!」
「それは俺にもわからんよ。薬も催眠も使わずに、深層意識の中に入り込む手段を持っているのかもしれん。『楽園の種』のやつらはな」
いったいやつらはなんなんだ? それほどまでの洗脳技術を持っていて、いったいなにをしようとしているんだ?
それに薬も催眠も使わずに、深層意識の中に入り込むだって? それじゃあ、まるで……。
「シン、起こったことをすべて報告しろ」
いきなりドアが開いたかと思うと、東平安名が入るなり命令した。その顔は悲しみを押し隠すかのように無表情だった。
慎二は盗聴していたが洗脳を行った形跡などなかったこと、彩花の様子には直前まで変わったことがなかったこと、そして慎二を殺そうとしたことなどすべて話した。
「アヤカがおまえを撃った? しかも運転中のおまえを」
「そうだ」
東平安名は唇を噛んだ。目が血走っている。本気で怒っている。
「やつらの命令でアヤカはおまえと一緒に死ぬ気だったんだな?」
握りしめる拳は震えていた。
「やろう、ぶち殺してやる」
「おいおい、東平安名さんよ、穏やかじゃないな。いったい誰に怒りをぶつける気だ?」
「黒森博士、そんなこと決まってるだろうが。アヤカを洗脳し、そんな命令を下したやつだ。黒幕は黒死館とかいうやつに決まっている。シン、今から研究所に乗り込んで、やつをぶち殺せ!」
「いわれるまでもねえ」
「おい、馬鹿なことをいうな、ふたりとも。なんの証拠もないんだぞ」
黒森は呆れ顔でいう。
「証拠? そんなものはいらないね。あたしが責任を取る」
「いいんだな。捜査じゃなくて、叩き潰していいんだな?」
全身に血がたぎってくる。敵を殲滅させる龍王院の皆殺しモードの血が。
「そうだ、戦争だ。一切躊躇する必要はない。戦闘準備にかかれ」
「いや、しかし……」
博士が無駄な説得をしようとしたとき、部屋にセットされたスピーカーから放送が聞こえた。緑川が司令室からマイクを通して話しているのだ。
『隊長、情報屋から情報が入りました。都内に大量のネズミ発生。まるでハーメルンの笛吹に先導されるかのように行列を作って集まろうとしています』
「なにい? どこだ。ネズミはどこに集まろうとしているんだ?」
東平安名は壁のインターホンのスイッチを押し、叫んだ。
『シミュレーションの結果、曙学園高校と思われます』
「なんだって?」
「ふん。知ったことか。俺はもう止まらないぜ。そっちはべつの誰かをやってくれ」
もうネズミなんかとじゃれてる暇はない。
「かまわん。なおさら研究所を叩く必要がある。ネズミをコントロールしているのはとうぜん黒死館に決まっている。コントロールシステムを潰せ。狂ったネズミを止めるにはたぶんそれしかない。学校のほうにはどっちにしろ誰かを送り込む気でいた。篠原教師の件があったからな」
「篠原教師の件?」
「篠原教師はただの心臓麻痺じゃなかった。殺されたんだ」
黒森が口を挟む。
「心臓の内側の一部にかすかに火傷のあとがあった。それで心臓麻痺を起こしたんだな」
「心臓の内側? それ以外は火傷していないってことか? どう考えてもそんなことは不可能だろうが」
「電磁波だ」
「電磁波? つまり電子レンジなんかで使うマイクロ波みたいなやつのことか? 体全体がゆであがるならともかく、どうして心臓の内側だけが……」
「電子レンジで使うマイクロ波と同じものかどうかはわからないが、たぶん大差はないだろう。ただちがうのは四方八方からレーザーのように絞り込んだ電磁波を放って一カ所に集中させることができる。そうすると通過しただけのところはたいして温度も上がらないが、集中したところだけが急激に温度が上がる」
「そ、そんなことが……」
「できるんだろう、やつらには。篠原教師の場合、心臓の内側に集中させた。血液を沸騰させるまでもない。急激に温度を上げれば簡単に心臓麻痺を起こす」
そういえば、事故があったとき篠原のまわりには蝶が飛んでいたという話だ。
つまりその蝶が電磁波を出す武器だ。それを操るやつが学園の中にいる。
「心配するな、シン。『二号』は、敵の武器が蝶であることもわかっている」
おいおい、よりによって送り込むのはあいつかよ。
「そっちは『二号』にまかせろ。おまえは一刻も早く黒死館研究所に向かい、ネズミのコントロールを阻止しろ。もちろんやつをぶち殺すことを忘れるな」
「途中で中止命令なんかよこしたらおまえからぶっ殺すぞ」
「誰が止めるか、馬鹿」
ちなみに二号とは『ハンター二号』の略。『ハンター』とは『楽園の種』のテロリストを狩るハンターの意味で、一号はもちろん慎二。二号は慎二の妹だ。
慎二はベッドから立ち上がるとそのまま治療室を出る。この地下にはさらに、普段東平安名や緑川がいる司令室の他、研究室、武器庫などいくつかの部屋がある。慎二はそのうちの小さな一室のドアの前に立った。ここは慎二専用の更衣室だ。
慎二はドアに付いているのぞき穴のようなものを覗き込んだ。機械が慎二の網膜をスキャンする。もちろん本人確認のためだ。ドアはロックが解除された。
中に入ると、今度はロッカー扉に付いている指紋照合スキャナーにひとさし指を合わせる。横一本の光の線が指の腹をなぞるように移動すると、ピピッという電子音とともにロックが解除された。ロッカーを開けると、身につけていたただ一枚のトランクスを脱ぎ捨て、ハンガーにかかっていた黒い全身レオタードのようなものに足を通す。
薄く柔軟な素材でできているが、衝撃を大幅に緩和することができる耐衝撃スーツだ。防弾性能まではないが刃物で斬りつけても簡単に切れることはない。さらに電流をも絶縁する。
その上から股間にファールチップ、さらに腹と胸にプロテクターを着ける。これらはどんな銃弾でも通さない。
さらに黒の革パンツと革ジャンを身につける。肘、膝、肩にはプロテクターが付いているタイプだ。靴はブーツタイプの安全靴。皮のグローブには拳の部分に鋼鉄製のナックルガードが装備されていた。さらに顔の半分を覆うスキーに使うようなゴーグルは、サングラスのように黒いがこれは敵が急な発光で目くらましすることに対応してのことだ。もちろん防弾仕様になっている。その上からやはり黒いヘルメットを被った。頭部だけでなく両耳を覆うタイプのもので、マグナム弾だろうとライフル弾だろうとはじき返すのはいうまでもない。
二挺拳銃用のガンベルトを閉める。ロッカーの中にさらにある金庫の上のテンキーに暗証番号を打ち込んで扉を開けると、中から大型の銃を二挺取りだした。
日本はもちろん、世界中のどこでも市販はされていない特別仕様の拳銃。
スミス&ウエッソン社で開発した、通常のマグナム弾を遙かにしのぐ破壊力を持つ500S&Wマグナム弾を撃てるオートマティック仕様になっていて、マガジンには十二発装填できる。全身真っ黒で銃身もグリップも異様に長い無骨な銃、通称『龍の牙』。黒森博士の自信作だ。
慎二は『龍の牙』を二挺ともガンベルトに入れた。
これが慎二の戦闘服だ。これを着るときは、『楽園の種』のテロリストどもを追い、仕留めるとき。つまり『ハンター』だ。
廊下に出ると黒森博士、おまけに緑川までが出迎えていた。
「シンさん、虹村さんの敵討ちをお願いします」
「ふん、まかせておけよ。……隊長さまはどうした?」
「おこもりしました。トラップを仕掛けるって」
「マジかよ?」
おこもり。東平安名にしか使えない特殊能力を今こそ使う気らしい。
逆にいえば、使わなければ黒死館を倒せないと判断したということだ。
心強い限りだぜ。
慎二は大きく頷くと一歩前に出て、目の前のドアに向かっていった。
「開け」
慎二の声に反応してドアが開く。
中には大型のバイクが置かれてあった。これは慎二の戦闘用バイク、『飛龍』。この部屋は『飛龍』の専用ガレージだ。
慎二は『飛龍』にまたがり、エンジンをかけた。とたんに爆音がとどろく。
ターンテーブルがまわり、目の前にトンネルの入り口が来た時点で止まった。これは緩やかなスロープになっていて、地上に向かう長い長い通路だ。出口はここからかなり離れ、しかも一見わからないようにカモフラージュされている。
「うおおおおお」
慎二の雄叫びともに、『飛龍』はロケットのような勢いで飛び出していった。




