第六章 黒死蝶 1
第六章 黒死蝶
1
『待ちなさい』
まさに薫子が、マリアの手を取らんとしたとき、べつの声が頭に響いた。
かぐわしい香りとともに、大量の桜の花びらが風に舞った。
千年桜の精?
薫子は直感的に声の主を悟った。
『目で見てはだめ。耳で聞いてもだめ。甘い花の匂いも、心地よい風の感触も錯覚かもしれない。もうひとつの目で見て判断するのです』
もうひとつの目?
いつの間にか、薫子の右手には木刀が握られていた。
千年桜の精は、自分を使えといっている。自分を使って、彼女たちの霊体を見ろと。
薫子の体は、とっさにあのときの感覚を思い出した。
五感をすべて絶ち、千年桜の力だけで霊体を見たときのことを。
そのとたん世界は激変した。
無限に敷き詰められていたはずの草花の霊体など、ただのひとつも感じられなかった。
それどころかあれほど神々しいオーラを放っていたように思えたマリアの霊体など存在しなかった。
マリアが浮かんでいたところにはなにもない。完全な虚無だ。
では香坂は?
彼女の霊体は存在した。霊体は目の前で彼女自身の体を形作りながら、ゆらゆらとどす黒い炎がその体を包んでいる。
その炎の一端は細長い糸状に伸び、薫子の頭部に入り込んでいた。
幻覚。すべてはこの女が作り出した幻覚だ。
あの無限の楽園も、それを蝕む人間と文明も、それを元に戻した神の子のようなマリアも。すべて幻影。香坂の霊体が作り出した夢幻のごとき物語に過ぎない。
そう悟ったとき、薫子はすべてを思い出した。
この女は、あたしに薬液を注入した。
薬のせいだ。それにこの女の催眠暗示。
幻覚を見たのも、その幻覚に心を奪われ、従おうとしてしまったことも。
おぞましい。
薫子は心底そう思った。
これ以上、心をいじくり回されてたまるか。その汚らわしい霊体を断ち切ってやる。
薫子は千年桜をふるった。
香坂と薫子を結んでいたどす黒い霊体の糸は簡単に断ち切れる。
次の瞬間、薫子の見える世界はもう一度激変した。
*
香坂の顔が目の前にあった。
しかしその顔は、ちょっと冷たいながらも美しい香坂のものとは思えなかった。
理知的なはずの口元は淫らに歪み、知性の輝きを持った目は、もはや人間のものというより獣のそれに近かった。
薫子は、豹変した香坂にのしかかられ、喉にその爪を突きたてられていた。そればかりか髪の毛の一部がまるでゴルゴンの蛇のように蠢き、その針のように細い先端が薫子の頭部に数本、浅く刺さっている。おそらくこれを通してあの幻影を頭に送りつけたのだ。
「ば、馬鹿な……、なぜ、効かない?」
香坂ははき出すようにいう。
薫子は無意識のうちに、はじき飛ばされた千年桜を、ふたたびアポートで取り寄せていたらしい。しっかり右手に握られていた。香坂もそれに気づいたようだ。もう一度、剣を奪おうとする。
二度とこれを手放すわけにはいかない。
のしかかられた状態のまま、薫子は剣を振るう。千年桜はうなりを上げて、敵の体を砕かんとばかりにせまった。
香坂は喉から手を離し跳躍すると、その一撃をかわし、ひらりと両手両足で着地した。まるで猫科の猛獣のように。
薫子は跳ね起きると同時に、剣先を香坂に向け、構える。
少し体がふらついた。きっと爪から注入された薬のせいだ。薫子はそれをさとられないように、必死で剣先の揺れを押さえつつ、香坂を睨み付けた。
香坂はその状態を嫌ってか、横に走りながら薫子に向かって手の平を突き出した。
そこから放射状に広がるどす黒い霊体が見える。
なにかやばい。
相手の攻撃が正確には読めなかったが、おそらく機械的な攻撃。それも広範囲に被害を及ぼす武器だ。
薫子は派手なサイドステップで大げさにかわす。
香坂の手の平からは霧が吹き出した。
完全にはかわしきれず、一部が制服の袖にかかると、布地がぶすぶすと音を立て焼けただれる。
溶解液の霧?
薫子の後ろにあったベッドのカーテンにはまともにかかったらしく、もはや原形をとどめていなかった。プラスティックの溶ける異臭を放ちながら、ぼろぼろになっていく。
今度は香坂は、両手を突き出した。しかも手の平は薫子のほんの一メートル先。おまけに今いる場所は部屋の隅。後ろは壁だ。
霊体が示す攻撃範囲はきわめて広い。横にも後ろにも逃げ切れない。
薫子はかいくぐるようにして、香坂の懐に飛び込んだ。
まさに超高速の体当たりに似た攻撃。しかし敵にぶち当てるのは肩や肘ではなく、体と一体化するようにしっかり握り込んだ『千年桜』の切っ先。それには薫子の全体重と飛び込んだ勢いが乗っている。
鳳凰院流奥義十二形剣の中でも強大な威力を誇る突き技、砲牛角。
その威力は、木剣といえど、人間の肉体をも貫通させる。ましてや今薫子が持っている剣は霊剣『千年桜』。とうぜんのように香坂の体を貫いた。
しかもその場所は心臓。
さすがに即死だったらしく、香坂は断末魔の叫び声すら上げず、動かなくなった。
しまった。
敵とはいえ、校内で保険医を殺すのはまずすぎる。
殺したこと自体を後悔したわけじゃない。実際に経験したのははじめてだが、任務で敵を殺すことは子供のころから覚悟してきた。ましてや相手はどうしようもない悪党。
だがやるときは十分計画を立てておこなうべき。初任務の上、計画外のできごと。このままではどんな証拠を残すか知れたものではない。暗殺剣が本来の姿である鳳凰院流の継承者とは思えないミスだ。
しかもこの女からは聞くべきことがたくさんあったはずなのに。
しかしやってしまったことをあれこれ悔やんでもしょうがない。
とりあえず、返り血だけは浴びるわけにはいかない。薫子はベッドのシーツを香坂の胸に当てると、血が飛ばないように注意しながら霊剣を抜いた。
「本気で世直しをする気だったの? 自分を化け物にしてまで? 薬と催眠で生徒を洗脳することが正しいことだとでも?」
薫子は霊剣の血を拭いながら、自分の精神を犯そうとした女を見下ろし、問いかける。
もちろん香坂は答えない。死に顔には後悔や懺悔の色はなく、ただ無念の相のみが浮かんでいた。
「ふふ、校内で人殺しかい、薫子さん?」
保健室のドアが開いている。廊下から薫子のやった一部始終を見ていたらしい男がいた。それも天使のように美しい顔に、いやらしい笑いを浮かべながら。
いうまでもなく、藤枝だった。思った通り、こいつらはグルだ。
「べつに心配しなくたって誰にもチクらないよ。こっちだって困るからね」
それは香坂の死体を調べられると困るということだろう。どう考えても普通の人間ではない。
だがこの死体をいったいどうやってごまかす気だ?
薫子がそういおうとしたとき、異変が起こった。
香坂の死体が溶け出した。まるで濃硫酸の海にでもつっこんだかのように異臭を放ちながら崩壊していく。流れ落ちた内蔵の中に、小型のポンプと人工の管のようなものが混じっていた。その管は両手の中に通っている。
「こ、これが……」
これが機械化テロリストというやつか?
体内に変な薬剤や溶解液を仕込んであったことからまともな体ではないと思っていたが、ちょっと武器を仕込んでいるといったレベルではない。まるで改造人間だ。こんなことが現代科学の力で可能なのだろうか?
おそらく体が溶け出したのも、仕込んだ溶解液の入った管が破け、体内で流出したのだ。
香坂だったものは腐ったような異臭を放ち、泡立ちながら完全に液状化していく。溶解液は骨すらも溶かし、わずかに機械の部品が残るだけ。証拠として取り上げた注射器はいつの間にか床の上で割れていた。そして洗脳をしていた実行犯である香坂が消えた以上、『楽園の種』の陰謀の証拠は一切なくなる。
いや、ある。自分の血液に入れられたあの得体のしれない薬。三月に調べてもらえばやつらの洗脳計画が明るみに出るはず。
一時引こう。
藤枝の能力がわからない。しかも薬のせいで体がふらついている。今は戦うべきじゃない。
薫子は窓に向かった。窓を開け、外に飛び出そうとしたとき、はじめて自分が囲まれていることに気づいた。
藤枝の取り巻き連中。その中に見知った顔が混じっていた。
「七瀬?」
やはり、七瀬はすでに洗脳されていた。あの人なつっこい笑顔ではなく、刺すような視線で薫子を見つめる。
七瀬を含む、彼らは全員で六人。男がひとり、女が五人。全員が無表情のまま、手にはサイレンサー付きのオートマティック拳銃を持っていた。
「戻るのよ、薫子。逃げるなら撃つ」
七瀬が声を荒げる。
問題ない。
おそらく彼らはたんに洗脳されているだけ。香坂のような得体のしれない機械を埋め込まれた化け物ではないはず。ならば多少体調が悪くても、拳銃を持った素人六人などものの数ではない。よほどの射撃訓練を受けない限り、動く的になど当てられるものではないのだ。七瀬を倒すのはちょっと気が引けたが、手加減する余裕はあるはず。
薫子は窓の下枠に足をかける。
そのときはじめて気づいた。目の前を数匹の蝶が飛んでいる。真っ黒な蝶。カラスアゲハ。
薫子は隣のクラスの担任、篠原が死んだときのことを瞬時に思い出した。
心臓麻痺で死んだとき、まわりに舞っていたといわれているのがこいつらだ。
直感的に、素人の向ける銃口よりもはるかに危険だと思った。
薫子は外に出るのを躊躇し、振り返る。
室内にもいた。薫子は知らないうちに、十数匹の蝶に囲まれている。
そういえば香坂が溶け出したとき、そっちに目を奪われていたが、こいつらが香坂のまわりを飛んでいたのかもしれない。
香坂が溶け出したのは体内に仕込んだ溶解液のせいかもしれないが、薫子が突いたのは心臓だ。そのせいで溶解液が流れ出したとも思えない。
おそらくやったのは藤枝だ。そして攻撃の鍵は飛んでいる蝶にある。篠原が死んだときと同様に。
「篠原先生を殺したのはあんたね? しかも武器はこの蝶」
薫子の問いに、藤枝はにっこり笑って答える。
「ピンポーン。大正解」




