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第五章 傀儡師と人形 3

   3


「失礼します」

 薫子は放課後、保健室のドアを開けた。

「どうしたの?」

 保険医の香坂は、まじめくさった顔で聞いた。

「ネズミに噛まれたんです」

 そういって、右手の甲の傷を見せる。もちろん自分でつけたものだ。

「ちょっと心配なんで、七瀬にしたように抗生物質を打ってほしいんですけど」

「そう、わかったわ。そこのベッドに腰掛けて待ってて」

 香坂はそういうと、薬剤を置いてある棚を開けた。薫子はいわれるがままにベッドに腰を下ろす。

「あ、ごめんなさい。ちょっと一本電話を入れさせてね」

 香坂はそう断るとケータイを取り出し、登録している番号を呼び出して掛けた。

「東京新製薬さんでしょうか? いつもお世話になっております。例の薬なんですが、突然切れてしまったので、大至急発注したいのですが」

 薫子にはこの電話の意味が察せられた。暗号だ。

 例の娘が突然来たから大至急来い。たぶんそんな意味だ。

 電話の相手は十中八九藤枝。ほんとうに薬剤の発注なら机の電話を使うはず。

 香坂は注射器で薬剤を吸い上げた。

「さあ、腕を出してちょうだい」

 薫子は右袖をまくった。その腕に針が刺さらんとしたとき、薫子は香坂の手首を掴む。「なにをするの? そんなことをしたら注射できないじゃない」

 香坂は必死で抵抗しようとする。薫子はかまわず、香坂の腕をねじ上げると、注射器を奪い取った。

「先生。悪いけどこの中の薬を調べさせてもらうよ」

「な、なにをいってるの、あなた?」

「とぼけたってだめ。もうみ~んなわかってるんだから。『楽園の種』の手先め」

 硬そうな表情をしていた香坂はくすくすと笑い出した。

「してやったりと思ってるわけ? ほんとうに可愛い子ねぇ。でも罠に落ちたのはあなたの方かもよ」

 薫子はかまわず出口に向かう。

「出られると思ってるの?」

 香坂はそう叫ぶと、前に立ちはだかった。

 千年桜を呼ぶまでもない。素手で十分だと思った。

 剣のかわりに、手刀を首筋にたたき込む。香坂は宙で一回転し、背中から落ちた。

 とくに体を鍛えていない一般女性ならば、これで意識を失うはず。しかし香坂はなにごともなかったかのように起きあがった。

 なに、こいつ?

 薫子はとまどった。打ち込みが浅かっただろうか? そんなことはないはず。一瞬、やりすぎたかと反省したくらい、強い手応えがあった。

 香坂のパンプスを履いたつま先が、薫子の下腹部に向かってまっすぐ飛ぶ。前蹴り、それも空手の高段者並みのハイスピード。

 薫子は相手の外側に回り込むようにしてかわすと、掌底で顎を下から突き上げた。

 香坂はまたもや宙に舞い、今度は後頭部をコンクリートの床に直撃した。

 やりすぎた。

 今度こそそう思った。普通の人間ならば死にかねない。

 だが香坂はほんの三秒ほどで、立ち上がりだした。多少頭を振っていたが、さしてダメージを負っているようには見えない。

 薫子ははじめて香坂が普通の人間でないことを悟った。

 普通でなければなんなのか?

 おそらく三月がいっていた、機械化テロリスト。

「千年桜、来い」

 薫子は念じる。自室に保管してある千年桜が、時空を超えて薫子の手に現れた。

 だが一瞬の隙を突かれたらしい。霊剣を手にした瞬間、香坂は薫子に飛びついていた。

 高速の手刀で剣をはじき飛ばされ、馬乗りになった香坂に薫子は首を締め付けられる。

 ま、まずい。

 その力は人間離れしていた。

 爪が喉に食い込む。

 それだけではなかった。爪から体内になにかが注入されていく。

 薫子はそれをふりほどこうと手首をつかむ。しかしびくとも動かない。

 香坂の唇の端が、きゅうっとねじ上がる。

 笑っている。可笑しくてたまらないとでもいいたげに。

「うふふ、今注入したのは、あなたが持っている注射器に入っているものと同じ」

 しまった。

 まさかそういう方法で注入できるというのは想定外だ。

「可愛い子猫ちゃん、ちょ~っと我慢しててね。すぐにあたしのペットにしてあげるから。あなたのお友達の七瀬ちゃんと同じようにね」

 香坂は淫蕩な表情で舌なめずりする。

 ふ、ふざけんなぁ。誰があんたなんかの……。

 だが、そんなことを考えていられたのはほんのつかの間。薫子の思考は急激に鈍っていった。


   *


 ここは?

 薫子はいつの間にかお花畑の中に横たわっていた。

 体にはなにも身につけていない。衣服はもちろんのこと、手に持っているものもない。生まれたままの姿で、花の中に埋もれていた。

 空は澄み切った青の中に、真っ白な雲がいくつかぽっかりと浮かんでいる。太陽はほぼ真上に位置し、灼熱の輝きを放っている。風はゆるやかで暖かく、春の匂いを薫子に運んだ。

 上体を起こしてみると、あたり一面花しか見えなかった。なんの障害物もなく、視界の広がる限り、三百六十度、ただひたすらに花園。萌える緑に混じって、赤、黄、緑、オレンジと原色の花びらが咲き乱れている。その上をモンシロチョウやモンキチョウ、アゲハなどの様々な色の蝶たちが乱舞している。

 誰もいない。

 そんな楽園のような光景の中、薫子の他には誰もいなかった。

 まるでこの美しい世界が、薫子ただひとりのものであるかのように。

 なにか大事なことをしようとしていたような気がするが、思い出せなかった。どうでもいいような気がした。

 そんな中、無限に広い絨毯のように敷き詰められた花の下でなにかが蠢きだした。あっちでもこっちでも。まるで、野ねずみが駆けめぐっているかのように。

 なに?

 不吉な予感がした。この平和な楽園を汚す、なにかが現れたような気がしたのだ。

 さらに地面からなにかが生えてくる。タケノコが生えてくる様をハイスピードで再生した映像のように。

 それは無数の高層ビルだった。といっても、高さ数十メートルのものがいきなり生えてきたわけではない。高さはせいぜい薫子の背丈ほど、怪獣映画の撮影に使うミニチュアの建物のようなものだ。

 あっという間に薫子のまわりに都市ができあがっていく。薫子自身が巨人になったかのような錯覚を起こす。だがそんなことより、都市ができていくことにより、花園が消えていくことが悲しかった。

 同時に心地よい風が運ぶ花の匂いが不快なものに変わっていく。きっと建物と同時にできた高速道路を走るミニカーのような車が出す排気ガスのせいだ。

 薫子のまわりに、灰色の霧のようにガスが漂う。上を見上げればあれほど晴れやかだった青空がどす黒く変色していく。

 薫子の心の中に、文明に対する憎しみが芽生えた。

 美しく平和な楽園が、醜いものに作り替えられていくのが許せなかった。

 さらにわずかに残った花園から火が発せられる。

 いったいなにが起こったのか?

 よく見ると、指先ほどしかない大きさの人間が花を焼いている。

 軍服を着たちっぽけな人間が、火炎放射器のようなもので炎をまき散らせながら。

 さっき花の下で蠢いていたネズミのようなやつらはこいつらか?

 だがそいつらの暴挙はとどまることを知らない。彼らは互いに炎を向け、殺し合いだした。断末魔の叫び声と、肉の燃える匂いをまき散らせながら。

 さらには銃声が響く。銃を撃ち合いだし、互いにばたばたと倒れていく。

 いつの間にか、戦車が現れた。ネズミほどの大きさのそいつらはキャタピラで残った貴重な花を踏みつぶしていく。空中にはいつの間にか、蝶のかわりにラジコン模型のような戦闘機が飛んでいた。

 そいつらは花を焼くと同時に、建物も破壊し、焼き尽くしていく。

 都市は砕け、焼かれ、廃墟と化していく。

 花園にかわって都市が現れたときは、それなりにべつの美しさもあったが、戦火は都市を無惨な残骸に変えていく。

 砕け散ったコンクリート。黒煙を上げて燃える花たち。

 炎が風の向きと勢いを変え、熱風が薫子にまとわりつく。

 焦げ臭さと火薬の匂いに混じって、血の匂いがする風を、薫子はいやおうなしに吸い込まされた。

 それでもミニチュアの軍人たちは戦闘をやめない。

「いいかげんにして!」

 だが薫子の叫び声は無視された。いや、薫子の存在そのものが無視されている。

 誰も薫子の姿を見ない。薫子の声に耳を傾けない。

「世界を破壊するのをいますぐやめるのよ、このすっとこどっこいども」

 薫子の叫びは、むなしく響くだけだった。なぜなら、誰も聞いていない。

『無理よ』

 いや、薫子の声に反応した者がいた。女の声だ。

 誰?

 姿は見えない。まわりにいるのは、言葉らしきものを発せず、奇声と悲鳴だけを上げながら殺し合う、玩具のような兵士だけ。彼らが語りかけてくるはずがない。

『人間はこういう生物なのよ。自然を破壊し文明を作る。それだけでは飽きたらず、互いに殺し合い、自分たちの作った文明までも破壊してしまうどうしようもない生き物。それが人間なのよ。これは人間が生まれながら持った宿命といってもいいわ』

「誰?」

 薫子は、きょろきょろとあたりを見回しながらいう。声の主は姿を現さなかった。

『どうしてこうなると思う?』

 声の主は薫子に問いかける。わからなかった。

『人間の欲には限りがないから。満足な暮らしがしたい。だから、お金が欲しい。高い地位が欲しい。名声が欲しい。権力が欲しい。どんな人間でも多かれ少なかれ持っている欲望。ひとつ満足すれば、次の高みを目指さずにはいられないわ。たとえ他人を蹴落とし、ときには他国を侵略してでも。人間はそういう風に出来ているのよ』

「たしかにそれは人間の性なのかもしれない。だけど、社会の中で生きていく以上、自分の欲望だけを優先するわけにはいかないはずよ」

『社会? 社会は人間が自分の欲望を叶えるために努力することを容認しているわ。資本主義社会という名において。つまり、現代社会の中では、他人を蹴落とす権利があるのよ』

 完全なる資本主義批判。ならばこの謎の声の主は、共産主義者なのか?

『ならば共産主義のように、自由競争を否定し、私有財産すら否定し、国家がすべてをコントロールすれば解決するのかしら? ことはそれほど単純じゃないの。まず、具体的な方法論なくしては、それはたんなる理想の世界に過ぎず、実現は限りなく不可能に近いわ。そして仮にそんな世界が実現したところで、人間はそんな世界では生きられない。なぜなら人間はそういうふうにはできていないから』

「どういうこと?」

『それは人間のあらゆる本能に逆らうことになるからよ。さっきもいったように、より高い幸せを目指すのは人間の本能。生まれつきDNAに組み込まれたプログラム。それをすべて否定するシステムを人間が許容できるはずもないわ。必ず管理される側は管理する側に対して反乱を起こす。それを革命と呼ぼうが戦争と呼ぼうがどうでもいいことだわ』

 きっとそれは正しいのだろう。人間はロボットのように管理されては生きていけない。

『けっきょく、人間は欲望に忠実でいても、管理され欲望を抑えつけられても戦争を起こす。自然を破壊し、汚し、最後には地球を滅ぼす。薫子、あなたにはそんなことが許せるの?』

「でも、それは……、それこそ人間が生まれ持っている原罪なんでしょう? どうしようもないじゃない」

 人間は生きているだけで、自然を破壊する。他の動植物を食べ、資源を使い、廃棄物を捨て、開発を広げる。その結果、空気も海も汚れ、かつての美しさを失っていく。地球の立場から見れば、人間はガン細胞に過ぎない。

 人間が生きていくということは、そういうことなのだ。

 だがほんとうにそうなのだろうか? ほんとうに人間にはそんなことが許されるのだろうか?

 このまわりを見てみよ。ついさっきまでこの世のものとは思えない楽園だった花園が、瓦礫と燃え尽きた草木と、血に染まった人間の死体でいっぱいだ。空気はどす黒く汚れ、不浄な匂いで満たされている。

 こんなことが許されるのか?

 かといって、自然を守るために、人類は滅亡した方がいいなどというのは、人間が出す意見ではない。

「どうすればいいっていうのよ?」

 薫子は、姿の見えない声に向かって叫んだ。

「姿を現しなさい。これ以上、隠れている人と議論をする気はないわ」

『簡単なことよ。わたしたちに従えばいいの』

 声の主は目の前に姿を現した。

 白衣を着た若い女性。保険医の香坂だ。彼女は天使の微笑みを薫子に投げかける。

「わたしたち?」

『「楽園の種」のことよ』

「楽園の種?」

 聞き覚えがあるような気がしたが、どうしても思い出せない。

『そう。この地球はかつては楽園だったわ。人類の誕生と発展に伴って、今まさに滅びようとしているけどね。わたしたちは地球に種を植えるの。かつての楽園を取り戻すための種をね』

「どうやって?」

『そんなことあなたが考える必要はないわ。信じればいいのよ』

「無理よ、そんなことできるはずがない」

『できるのよ』

 香坂は断言した。

『わたしには無理でも、マリア様にならね』

「マリア様?」

『この方よ』

 香坂は天空を指さした。そこには胎児のように目をつぶり、体を縮こめた裸の幼女が浮いていた。

 いや、これは胎児のようではなく、ほんとうの胎児なのではないか?

 彼女は三歳児ほどの体をし、黒髪を生やしていたが、臍からは緒が伸びている。

「胎児?」

『そう、まだお生まれになってはいないわ。マリア様が誕生するときこそ、世界が再生するとき。わたしたちはそれまで、マリア様の命令に従い、準備を進めなくてはならない』「で、でも、彼女はまだ……」

『胎児? 子供? なにもできない? そんなことはないわ。マリア様は生まれる前からして神の力を持っている。神の奇跡をいつでも起こせるのよ』

「神の奇跡? それで人間も地球も救うというの?」

『そう、理屈はいらない。あなたはマリア様をただ信じればいいだけ』

 そういう香坂の顔には、微塵の疑いすら浮かんではいなかった。

 たしかに理屈ではない。薫子は宙に浮いているマリアになぜか心を動かされた。

 この子ならば、世界をなんとかしてくれるのではないかという期待が芽生える。

 なんの根拠もないのに。

『半信半疑のようですね、鳥島薫子。いえ、鳳凰院薫子』

 べつの声がした。まだ幼い声だが、大人のようなしゃべり方だ。

「どうしてあたしの本名を?」

『わたしにはすべてお見通しです。隠しごとはできません。ついでにわたしの力をもう少しだけ見せましょう』

 マリアは微笑んだ。口こそ開いていないが、この胎児が自分に語りかけているのは明白だった。

 マリアのまわりに立ちこめていた真っ黒な暗雲が、たちまち四散した。天空を支配していた闇は割れ、太陽の光が廃墟と化した地上に優しく降り注ぐ。

 神の起こした光に溶けるように、コンクリートの瓦礫や死体は消え去っていく。

 かわりに焼き尽くされた草花が、見る見る復活していく。

 もはや血と硝煙の匂いは消え去り、かぐわしい花の匂いでいっぱいになった。

 まわりを見ると、地獄のような光景はもうどこにもない。はじめに薫子が見た、無限に広がる花園があった。

 見渡す限り、花、花、花。その上を蝶が乱舞し、さわやかな風が心地よい。

 最初と違うのは、薫子はここにひとりではなく、香坂とマリアとともにいることだ。

『わたしにとっては簡単なことです』

 マリアはふたたび微笑んだ。

「でも、……どうやって?」

『薫子、世界の再生の理論は単純なものではありません。ただひとことで簡単にいうならば、警告するのです。行きすぎた文明と、それに伴う自然破壊がどれほど地球にダメージを与えるか、それによって自然からどんなしっぺ返しを喰らうか、教えてあげるのです。それが第一歩になります。第二歩目をどうするかは、残念ながら今のあなたに説明したところで理解できないでしょう。だから、ただ信じてください、このわたしを。あなたは選ばれたのです』

「選ばれた? あなたに?」

『いえ、わたしの上の方に。宇宙を創造した、本物の神に』

 あたしが神に選ばれた?

『そうです。あなたは選ばれました。わたしに協力する仲間として。この世をふたたび楽園に帰すためには、あなたの力が必要なのです』

 あたしが必要?

『わたしたちと一緒に、この地球に楽園の種を植え付けましょう。そのためにはあなたにしかできないこともあるのです。わたしだけではできません。たとえ、奇跡の力があろうとも。あなたの協力なくしては、楽園の復活はあり得ないのです』

 よくわからないが、この胎児はほんとうに神の使いなのではないかと思った。

 そうでなければ、このカリスマ性は理解できない。

 薫子の心は、惹きつけられ、幻惑された。

 この胎児のいうことさえ聞いていれば、ほんとうに世界が救われるような気がする。

 現に薫子のまわりを奇跡の力で変えたではないか。地獄化した現実の世を、世界が始まったときの楽園に戻したではないか。

 どうやって?

 そんなことはどうでもいい。どうせ、自分には理解できないことなのだ。

 ただ信じればいい。

 なんて楽なんだろう。ただ信じれば救われる。

 いや、信じるだけではだめだ。マリア様を信じて、尽くすことが必要だ。

 なぜならマリア様がそういっている。

 あたしは選ばれたと。そしてあたしの力なくしては楽園の復活はないと。

『さあ、一緒にやりましょう。世界を楽園に変える、いえ、戻すのです。薫子、あなたの力が必要です。一歩前に出て、わたしの手に口づけを。そしてわれら「楽園の種」と共に生きる永遠の誓いを』

 薫子は中空に浮かぶマリアに向かって、ふらりと一歩前に踏み出した。

 空に浮かぶ幼いカリスマに忠誠を誓うために。



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