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第四章 夢魔対女スパイ 5


   5


「やあ、お帰り、早かったね」

 薫子が、喫茶『ドラゴン』のドアをくぐると、三月がテーブルでのんびりコーヒーを飲んでいた。

「なによ、血相変えて。どうしたの、薫子?」

 美咲はカウンター内で読んでいたマンガ本から目をそらし、薫子に問う。

「美咲さん、あたしにもコーヒーちょうだい」

 そのまま三月のいるテーブルに駆け込む。

「また出た。あの大男」

 薫子は美咲に聞こえないようにささやいた。

「黒死館研究所の中にかい?」

「外よ、外。なんか知らないけど、車で待ち伏せしてたのよ」

「ふ~ん」

 三月はそういってしばらく考え込む。

「へい、お待ちぃ」

 美咲がコーヒーをだんとテーブルに置いた。

「なによぉ、いつもいつもこそこそ内緒話。たまにはあたしも混ぜてよね」

 少し不機嫌そうにいう。

「君には関係のない話だ」

 三月が一蹴する。

「ふ~んだ。薫子、どうでもいいけど、話が終わったら夕食の準備するのよ」

「でもお客さんいないじゃない。いっちゃ悪いけど、ここに来たとき、三月さん以外に客を見たことがないよ」

「ぐっ……たまたまよ、たまたま」

 美咲は頬を膨らませ、カウンターに戻る。

「で、どう思う?」

 薫子はコーヒーに砂糖を入れながら聞いた。

「可能性はふたつあるね。ひとつはそいつが敵の場合だ」

「うん。つまりあたしが来るのを知って待ち伏せしてたってことね」

「そういうことになるね。あるいは、敵じゃない場合、そいつは君と同様、黒死館を探ろうとしてたってことになる。つまり張り込みをしてたわけだ。あるいは仲間が中に潜入していたのかもしれない」

「ふ~ん?」

 薫子としては後者であってほしかった。あまり敵には回したくない男だ。まともに戦って勝つ自信があまりない。敵でないなら手を組むという選択肢すらある。

 でも顔を見るなりいきなり攻撃しちゃったからなぁ。たとえ敵じゃないとしても、あたしのことを憎んでいるような気も……。

 だが後手に回れば、こっちが瞬殺されそうな気がするからしょうがない。

「で、結局中は偵察できなかったんだね?」

「あたりまえじゃないの。逃げるので精いっぱいだって」

 ちょっと語気が強まった。美咲が興味津々な顔を向ける。

「まあ、仕方がないな。君はそいつに面が割れたようだから、そこの調査は誰か他のものにやらせる必要があるかもね。君は学園内の方に専念してもらおうか」

 正論だった。それに薫子自身そうした方がいいとも思う。

 だがまるで三月から「君は使えないな。他のやつに頼むか」といわれたような気がして我慢がならなかった。

「ちょっと待ってよ、三月さん。たとえ顔が割れたって……」

 いきなりケータイが鳴った。薫子は舌打ちして取る。

「はい、薫子」

『ねえねえ、薫子、聞いた? 篠原先生が死んだのよ』

 名乗らないが、その興奮した声は間違いなく七瀬だ。

「え?」

 耳を疑ってもう一度聞き直す。

「ほんとなの、それ?」

『もちろんよ。もう学校中その話題で持ちきりよ』

 七瀬はまだ学校に残っていたらしい。

「どうして死んだの?」

 例のネズミとなにか関係があるのか?

 早い話が、その件でなにか知ってはいけない秘密を知って、何者かに殺されたのではないかと、疑った。

『心臓麻痺だって』

「え?」

 七瀬の答えは意表を突いた。殺人でも事故でもなく、心臓麻痺?

『よくわからないけど、先生が職員室に真っ青な顔で駆け込んだんだって。その場でばったり倒れてそれっきりだそうよ』

「そ、それで、どうして職員室に駆け込んだの? なにかいってたの?」

『それがなにもいわないでばったり。うちの石岡先生の目の前で逝ったそうよ。先生の話では、とくにすぐ後ろを誰かが追っていたとかそういうこともないらしいんだけど』

 ほんとうに心臓麻痺なんだろうか?

 薫子はまずこのことを疑った。鳳凰院流の継承者なら暗殺の方法にはくわしい。

 たとえば、遠くから細い針のようなものを飛ばして、心臓を貫いたということはないだろうか?

 それに見えない糸のようなものを結びつけておけば、刺したあと引っ張って回収することもできるだろう。

 もっともそれをすれば、外傷が残る。点のようなもので気づきにくいかもしれないが、今回のような不審な死を遂げた場合、医者もそれなりに調べはするだろう。見落とすとは思えない。

 かといって毒殺ならば死体を調べればすぐにわかるはずだ。それに話を聞く限り、篠原はなにかから逃げていたような感じがする。毒殺とは矛盾する。

 あるいはスタンガンのようなものを使ったのかもしれない。高い電圧で心臓を直撃すれば心臓麻痺を起こすはずだ。しかしそれならば犯人はすぐ近くにいたはず。それにその方法だと火傷の跡が残りそうだ。

『なんでもそのとき蝶が飛んでいたそうよ』

「蝶?」

『黒いアゲハチョウ。カラスアゲハってやつ? 篠原先生が死ぬとき、それが何匹か職員室の中で舞っていたんだって。先生が死んだら、いつの間にかいなくなったそうよ』

 アゲハチョウ? いったいなんだそれは? だがそれが死因に関係あるとは思えない。アゲハは刺さないし、毒も持っていない。

「七瀬、そんなこと誰から聞いたの? 石岡先生?」

『直接聞いたわけじゃないけど、情報の発信源は偶然職員室の中にいた生徒だって。隣のクラスの佐々木って子らしいよ』

 佐々木? そういえば、きのう隣のクラスを尋ねたとき、ネズミに噛まれた前田っていう人のことを教えてくれたのはたしかその人じゃなかったか?

「その子まだ学校にいるの?」

『いや、かなりのショックだったらしくて、警察に事情を話したあと、帰ったみたいよ』

 そういうことなら、きょう事情を聞くのは無理だろう。

「ふ~ん、他になにか変わったことはないの?」

『今のところそれくらいねぇ。ま、なにかわかったら教えてあげる』

「お願い。なんでもいいから教えて」

『へえ、薫子ってけっこう野次馬根性旺盛なのね。まっかせといて』

 七瀬が同類発見とばかりに笑った。

 通話が切れた。たぶん他の友達にも連絡するので忙しいのだろう。

 薫子は今の電話のことを三月に報告する。

「……ふ~ん。やっぱり君には学園内の方に専念してもらった方がいいみたいだね。そっちの事件を追ってくれ」

「……わかった」

 事情が変わった。なにかとんでもないことが起こりはじめている。意地を張ってる場合じゃない。

「とりあえずあした、目撃者に事情を聞いてみる。きっと自然死に見せた暗殺よ」

 薫子は声を潜めた。

「まあ、警察には事件として扱ってもらって、徹底的に死体を調べるように頼んでみるよ。それくらいの圧力なら僕の家の力で掛けられる」


   *


「これでよかったんでしょうか?」

 七瀬はケータイを切ると、上目遣いで香坂に聞いた。

「ええ、十分よ。これで薫子は佐々木を通じて保健室にたどり着く。必ずあしたにでもやってくるわ。あたしのことを探りに」

 職員室に仕込んである隠しカメラとマイクのせいで、佐々木の訴えによって篠原が動いたことはわかっている。薫子が密かに事件のことを探っているのなら、必ず探りにやってくる。おそらく自分もネズミに噛まれたとかいって。自分が飛んだ火に入る夏の虫であることにも気づかずに

 そう思うと、こみ上げる笑いを止めることができない。

「さあ、お舐め」

 裸で四つんばいになっている七瀬の顔に裸足の足を突き出した。

 七瀬は舌を伸ばし、神妙な顔で指の間を舐める。隣にいる前田尚子と餌を争うかのようにして。

 このふたりの洗脳は思った以上に順調だ。完全に屈服するにはもう少し時間がかかるかと思ったが、もう二度と元に戻ることはないだろう。

「うふふ、心配しなくても、あなたの親友の薫子もすぐ同じになるわ。なにも自分で考えずに、『楽園の種』に従うことこそが唯一の幸福だと感じられるように。今のあなたたちみたいにね」

 香坂はそう考えただけでわくわくする。少しレズっ気のある彼女にしてみれば、薫子のようなボーイッシュな美少女を、今の七瀬のように裸にひん剥いて好きにできると思うとたまらない。それどころか、従順な奴隷になってしまうのだ。

「はい、香坂軍曹。あたしは『楽園の種』に従って、心から幸せです。早く薫子にもこの幸せを分けてあげたい」

 七瀬は陶酔した表情でいうと、むさぼるように足の指を舐めた。


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