第四章 夢魔対女スパイ 4
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二年B組担任篠原律子は、放課後に職員室にやってきた自分のクラスの女生徒から相談を受けていた。黒いままの髪を三つ編みにした、少し地味な優等生タイプの生徒で佐々木淳子という。
「鈴木君の様子が変なんです」
それが佐々木の言い分だ。鈴木とはやはりB組の男子生徒で、はっきりとは口にしないが、佐々木のボーイフレンドのようだ。
鈴木孝は生真面目で正義感の強いタイプで、体はあまり大きくないが、学校の生徒が街で他校の不良に絡まれていたとき、助けたという武勇伝を持っているらしい。
「鈴木君、急に藤枝さんを崇拝しだして……。絶対変なんです」
彼女がいうには、鈴木はむしろ生徒会長の藤枝を嫌っていたそうだ。おもて面はよくてもなにか裏がありそうな感じがするといって。
ああ、めんどくさい。
もちろん口にはしないが、本音をいえば、そんなことを持ち込んでほしくなかった。
ただでさえ、何者かに教室を荒らされ、天井と壁が壊されていたという面倒が起きたばかりなのに。
篠原にとってはむしろそっちの方が重要だ。夜中に教室に忍び込んで、荒らすなんて誰がやったか知らないが許しがたいし、同時に怖くもあった。
「まあ、彼が藤枝君を嫌っていたのはたんなる誤解だったんじゃないの? その誤解が解けたとか……」
「そんなんじゃありません」
佐々木は篠原をきっと睨みつける。
「上手くいえないんですが。なんていうか、今の鈴木君はカリスマに魂を奪われた抜け殻みたいです」
そういわれると、篠原も少し気になった。話を聞いてみると、まるでカルト宗教にはまった信者のように思える。しかし崇拝するカリスマが藤枝というのはどうも変だ。篠原が見る限り、藤枝にそういうカルト宗教とのつながりは一切ない。
ただそういえば、彼のまわりにはいつも生徒が群がっている。女生徒ばかりだからたんにもてる生徒なのだと思っていた。なにせ、王子様タイプのルックスだし、成績優秀、スポーツ万能、そして生徒会長だ。もてないはずがない。
ただ男子生徒までそういう女性ファンにまじって彼を崇拝するのは、やはりすこし異常な気がする。もちろんそんな男子もいないとはいえないが、鈴木はそういうタイプからかけ離れているように見える。
「う~ん、鈴木君が変わったきっかけみたいなものはなにかあるわけ?」
「そういえば、二、三日前に学校のトイレでネズミに噛まれたとか……」
少し気になった。もちろんネズミに噛まれたことと、藤枝を崇拝するようになったこととは無関係だろうが、生徒がネズミに噛まれる事件は、きのう自分のクラスで起こったばかりだ。しかもどうやら鈴木のほうが最初に噛まれたらしい。しかもそのことを隠していた。
「どうしてそのことをいわなかったんだろう?」
「かっこ悪かったから誰にもいうつもりはないっていってました。ただ保健室には行ったから、保健の先生は知っていたかも」
保健医の香坂はそんなことをいっていなかったが。
「その直後からおかしくなりだしたわけ?」
「そうです」
佐々木はきっぱりといいきった。
「わかった。わたしの方からあとで香坂先生にそれとなく聞いてみるわ。なにか知っているかも」
「お願いします。あたしも一緒に行きます」
佐々木の目には希望の光が宿っていたる。
「あなたはこないほうがいい。あまり事を荒立てたくないの。わたしにまかせてあなたは帰りなさい」
「あたしが行ってまずいんだったら、ここで待ってます。報告してください」
佐々木は不満げな顔で職員室に居座った。
ちょっとうんざりした。彼女に「まかせて」とはいったものの、なにも期待はしていなかった。それでなにかがわかったり、ましてや解決するはずもない。だがこうして相談された以上、なにもしないわけにもいかない。
そうでなくても篠原は香坂のことを苦手としていた。同じくらいの年齢、ツンとすましたところも似ている。ただ容姿という点では香坂の方がはるかに上であることがコンプレックスを抱かせる。もっとはっきりいえば、嫌っていた。だが子供ではないので、そういう感情を露わにし、表だって喧嘩することはない。
篠原は気が進まないまでも香坂に話を聞くために、一階にある保健室に向かう。
どうもその前に保健室に向かう一行がいた。当の藤枝と、鈴木を含む取り巻き軍団だ。篠原が声を掛ける前に藤枝が保健室に入る。残りのメンバーは外に待機した。
どうも引っかかる。
藤枝。鈴木。保健室。
ついさっき、佐々木から聞いたばかりのキーワードが連なる。偶然とは思えない。
佐々木から頼まれたということもあるが、謎が篠原を刺激した。何気なく彼らに近寄り、鈴木に声を掛ける。
「こんなところでなにしてるの?」
「いえ、なんでもありません」
鈴木は明らかに、篠原を邪魔者を見る目で見た。態度もよそよそしい。佐々木の心配はあながち大げさともいえない。他の生徒たちも同様に様子が変だ。
「保健室に用があるの?」
「べつに……」
歯切れが悪い。
「保健室に行くつもりだけど、一緒に来る?」
カマを掛けてみたつもりだ。反応を見たかった。
案の定、彼らは警戒心をあらわにした。そして鈴木は大声でいう。
「先生、保健室に入るんですか?」
まるで中の藤枝に聞こえるようにいっているような気がする。
「気が変わったわ」
篠原自身、大声でいった。そして保健室をあとにする。
絶対なにかある。
もはやそれは確信といってよかった。なにかよくわからないが、ネズミと保健室と藤枝はなにか関係がある。鈴木が変になったのも。
なぜかは知らないが、彼らは明らかに保健室を見張っている。まるで今中を覗かれると困るかのように。
そう思うと、篠原は逆に覗かずにはいられなくなった。ひょっとしたら香坂の弱みを握れるかもしれない。そう思うと、少しだけどきどきした。
いったん校舎の外に出ると、外から保健室に回った。気づかれないように注意して、窓から中を覗く。
思わず声を上げそうになり、手で口を押さえた。
保健室にはふたりの女生徒がいた。ひとりは自分のクラスの前田尚子。もうひとりはたしか隣のクラスの二階堂七瀬。そしてとうぜん保険医の香坂と、今入った藤枝もいる。
それだけならなんでもないが、女生徒ふたりは制服を脱ぎだした。香坂の前でだけならばともかく、男子生徒の藤枝が見ているというのに。
全裸になったふたりは犬のように藤枝の前で四つんばいになる。
「さあ、あなたたちの上官にご奉仕しなさい」
とんでもない命令を下しているのは香坂だ。
二階堂が藤枝のズボンとパンツを下ろした。
「さあ、舐めなさい、ふたりとも。忠誠を示すのよ、上官に。そしてすべてを統治するマリア様に」
異常だ。まるでポルノ小説のような出来事が学校内でおこなわれている。
篠原はショックで卒倒しそうになった。
香坂は携帯電話で話しはじめたが、その間も、ふたりの奴隷のように見える行為は続いた。
なにかわからないけど、とんでもないことが起きている。ただの校内での不純異性交遊なんて単純なことじゃない。
篠原はそう感じた。
とにかくこのことを校長に報告しなければ。
「なにをやってるんですか、先生?」
ぎょっとして振り向いた。ついさっき保健室前にいた鈴木。彼がにやついた目で自分を見ている。
なんでかはわからないけれど、この子も中の子と同じように、藤枝に忠誠を誓ったに違いない。
篠原は自分を捕まえようとした鈴木を振り払い、走った。
逃げなければ。どこへ? 外? いや、中だ。人がたくさんいるところだ。
篠原は玄関から靴も履き替えずに校舎の中に飛び込んだ。そのまま職員室に向かう。
死にものぐるいで走った。ケータイで助けを呼ぶ余裕もなかった。
ようやく職員室のドアの前までたどり着く。ドアの前に、蝶が乱舞していた。黒いカラスアゲハが十匹ほど。
普段ならば珍しがるところだが、今はそれどころではない。むしろ、猛烈な違和感に襲われ、後ろを振り返った。
十数メートルほど離れて藤枝が立っていた。追ってきたらしい。にやりと笑って、開いた右手を前に突き出した。
なにか危険だ。
とっさにそう思った篠原は、職員室のドアを開ける。あとはこの中に逃げ込めばだいじょうぶだ。
篠原はそのまま中に飛び込んだ。そのとき蝶も何匹か中に入ってきたが、そんことはどうでもよかった。
目の前で蝶が羽ばたく。
「どうしたんですか、篠原先生? 息を切らして。おまけに顔色がさえんですよ。鋼鉄の女、篠原先生ともあろうお方が」
からかうようにいったのは、隣のクラスの担任、石岡だった。がさつで下品でそりの合わない男。しかしそんなことは今はどうでもいい。
助けて。
そういいたかったが、声にならなかった。胸が急激に熱くなる。
比喩ではなかった。ほんとうに燃えるようだった。それも体の外はなんともないのに、体の芯だけが燃えるような感じだ。それもちょうど心臓のあたりが。
篠原はもはや立っていることができなかった。
床に崩れ落ち、石岡の声がかすかに聞こえる。
「篠原先生?」
それが篠原が聞いた最後の言葉だった。




