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第四章 夢魔対女スパイ 3


   3


 慎二は黒死館総合医学研究所からいくぶん離れた通りに止めたワゴン車の中で、盗聴器の受信機から聞こえる音に意識を集中していた。

 とりあえず変わった動きはない。待合室のざわめきが聞こえるだけだ。彩花も意味のある言葉は発しない。

 ほんとうにだいじょうぶなのか?

 よからぬ胸騒ぎがした。

 たしかに正体がばれることはないだろう。スパイとして拉致されたり殺されたりする危険は少ない。

 問題は、やつらが集めた患者になにをする気かということだ。

 東平安名は洗脳といったが、いったいどういう方法でやるのだ?

 彩花が薬や催眠に耐性があることは知っていたが、絶対とはいいきれない。

 あの『楽園の種』の洗脳がそう甘いものではないことは容易に想像が付く。果たしてほんとうに彩花が洗脳を乗り切れるかどうか? そう考えると気が気ではない。

 こういう感情は龍王院の任務を背負っているものとしては持つべきではない。仕事に私情を挟むとろくなことはない。それがこの世界の常識だ。だが慎二は機械にはなりきれなかった。

 一度寝た女にはどうしても情が絡む。たんに肉欲の解消のためだけに女を抱くことのできない男だった。

 考えすぎだ。危険はない。

 洗脳をおこなうにはどうしてもある程度以上の時間が必要になり、危険があると判断された時点で救出に行けば問題ない。そしてそのために、こうして自分が張り込んでいる。

 ケータイが鳴った。彩花からのメールだ。


『患者の数は多いわ。診察室は第一から第七まであって、かなりの数の医師をそろえている模様。中に呼ばれていった患者がなかなか帰らないことから、こちらの読み通り洗脳が行われている可能性大ね』


 やはりそうか。

 そう思ったとき、彩花を呼ぶ放送が盗聴器を通じて聞こえる。

 彩花の足音。ノック音。ドアを開ける音。彩花が中に入った。

 慎二は意識を耳に集中する。

 会話から読み取れる情報。彩花を診察しているのは黒死館博士、この研究所の所長だ。さらに助手の中里という医師がいる。ふだんは研究所の方にこもっているが、患者の数が多いため、医療部門の方に駆り出されたといっている。

 検査と称して、彩花は血を採られた。とりあえず、不審なことではない。さらに傷の治療を行ったようだ。

『検査結果はあしたでないとわからないので、念のため抗生物質を注射しておきましょう』

 きた。

 おそらく洗脳しやすいようにする薬だ。

 慎二は手応えと感じると同時に、心配もした。

 ほんとうにだいじょうぶなんだろうな?

『やっぱり、伝染病なんでしょうか?』

 虹村の脅えた声が聞こえる。もちろん演技だ。黒死館と中里は心配しないようにいって促す。

 音だけではわからないが、注射させたはずだ。

 さあ、ここからどういう行動に出るか?

 ここからが本番。洗脳がおこなわれているという決定的な証拠はこれからだ。

 慎二は耳を澄ますと同時に、彩花のいる建物のあたりの思念波に神経を集中した。

 やつがなにか仕掛けようとすれば必ず普通ではない思念波が生じる。もちろん、彩花の体や心になんらかの異常が生じた場合もそうだ。距離があるから小さな思念波は感じられないが、大きな感情の変化があればわかるだろう。

 そのとき、真後ろからべつの思念波をかすかに感じた。それ自体はどうということはない。だれかが近づいてきているに過ぎない。ただ、その波形には覚えがあった。

 反射的に振り向く。

 そこには青いブレザーの制服を着た女子高生が歩いていた。

 わりと小柄で、ふんわりした栗色のショートカットをした美少女。そいつは慎二の顔を見ると、顔つきが変わった。戦闘のプロの顔に。

 同時にその急激な心理変化が、爆発のような思念波を生み出す。

 その尋常じゃない思念波。もはや間違いない。夜中、学校でかち合った女だ。

 いつの間にか、そいつの手には木刀が握られていた。

 やばい。

 慎二はとっさに思う。車の中では身動きが取れない上、急発進も間に合わない。

 木刀の切っ先がサイドウインドウを貫いた。

 とっさにそれをかわし、せまる刀身を掴む。

 手刀で木刀を叩きおろうとしたが、びくともしなかった。

 ただの木刀じゃねえな、こりゃ。

 手にしびれを感じつつ、思う。普通の木刀ならどんな高級品だろうと、一発で折れる。

 慎二はサイドウインドウを拳でたたき割った。そのまま木刀ごと少女を引き寄せ、襟首を掴もうとする。

 そうなればこっちのもの。

 だが少女は掴もうとした腕を片手ではじいた。そのまま指先が慎二の目を狙う。

「くそっ」

 払われた手で顔面をガードする。

 少女は木刀を手放し、少し車から離れた。

「鳳凰院か?」、「龍王院か?」

 同時にいう。

「雇い主は『楽園の種』か?」

 ハモった。

 慎二は混乱する。こいつは『楽園の種』の手先じゃないのか?

 いずれにしろ聞きたいことは山ほどある。逃がすわけにはいかない。

 そう思ったとき、握っていた木刀が消えた。

 猛スピードで引き抜かれたとかそういうことではなく、文字通り煙のように瞬間的に消え失せた。だが次の瞬間、消えたはずの木刀は少女の手に握られている。

「なんだ?」

 少女はそれ以上しかけず、背を向けると風のように駈け去っていく。追いたかったが、ここを離れるわけにはいかない。

「くそっ」

 仕方がない。あいつのことはとりあえず、不肖の妹に任せてある。それより彩花の方が心配だ。

 鳳凰院のことは頭から振り払い、ふたたび盗聴器と建物から発せられる思念波に意識を向けた。

 とりあえず、変わった思念波は発声していない。音声はすでに診察室から出たのか、黒死館の声はすでにしなかった。

『虹村さん』

 彩花を呼ぶ女の声が聞こえた。彩花の返事が聞こえたから、少なくとも無事であることは間違いない。

 女は会計らしく、かかった金額を請求した。彩花はそれを澄ますと、外に向かったようだ。

 しばらくすると、彩花は慎二のことろまで歩いてきた。

「なにこれ? なにがあったの?」

 割れたガラスを見て、ぽかんとした顔でいう。

「おそらく鳳凰院と思われる女と遭遇した」

「鳳凰院?」

「龍王院のようなものだ。伊賀に対する甲賀っていうのが一番わかりやすいだろうな」

「ふ~ん? まるで時代劇ね。で、あいてはどんな忍者なの?」

「制服着た女子高生だ。可愛い顔をして木刀を振り回す。しかも手品みたいに木刀を出したり消したりする。曙学園で夜中にがちあったのもそいつだ」

「なにそれ?」

 彩花はあきれ顔で聞いてはいたが、とりあえずはそれで納得したようだ。

「こっちの方は、怪しい動きはなにもなかったわ」

 彩花は窓のないドアを開けて乗り込むと、病院の中のことを慎二に報告する。たしかに音を聞く限り、怪しい点はなにもなかった。彩花の様子にも変わったところはない。

「あるいは正体が見破られたのかもしれないな。盗聴器の電波を感知でもされたか?」

「それはわからない。あしたも通うようにいわれたから案外そのときが勝負なのかもしれないけどね」

「わかった。とにかく一度戻るぞ。もらった薬と、おまえの血液を調べないとな」

 慎二はそういって、車を出した。

 なにか釈然としないものを感じながら。



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