第四章 夢魔対女スパイ 2
2
虹村彩花は黒死館総合医学研究所の一般通院受付をすませ、中に入った。いくつかある研究所の建物の中でもここは医療センターであり、一般の病院と変わりはない。いわゆる、研究者たちが実験などをおこなっている部署は、敷地内のべつの建物にあるようだ。ここはまだ建てられて新しいらしく、掃除がいきとどいた白を基調とした室内は清潔なイメージだ。部屋数も多く、大学病院のような感じがする。
待合室には順番を待っている患者たちがごった返していた。学生、サラリーマン、主婦と統一感はないが、みな悲愴な顔をしている。おそらくほとんどすべて例のネズミに囓られ、妙な噂に心配でたまらなくなった人たちなのだろう。
彩花は空いた席を見つけて座る。誰もが無関心だった。人のことに興味を示す余裕などないらしい。
彩花のきょうの服装は、上品そうな白のブラウスに、膝下までのフレアスカート、少しだけ踵の高いパンプス、手には高級ブランドのハンドバッグ、髪から覗く耳にはダイヤのピアス、さらに胸元には百合を形取ったブローチと、どう見てもスパイには見えない。
お金持ちのお嬢様を意識して彩花自身がチョイスした。
衣服やメーキャップであらゆる類の女になりすますことができる。
ハンドバッグの中には隠しカメラ、ブローチは小型の録音機、ピアスは外で待機している慎二に通じる盗聴器だ。
拳銃などの武器は持っていない。万が一にも身分がばれないためだ。いざとなれば外にいる慎二が突入する段取りになっている。
慎二には絶対的な信頼を置いていた。男としても、相棒としても。
だからこそ、安心して丸腰で潜入できる。
もっとも今回はたとえバックアップがなくても、武装する必要はないと思っている。
患者としてきた自分に危険はないはず。強いていうならば洗脳されてしまう危険だが、それも心配していなかった。
彩花はだてにこの任務に選ばれたわけではない。ひとつは面が割れていないこと。さらに変装の名人でどう見てもスパイに見えない普通のお嬢様に化けれること。そして最大の理由は洗脳されにくいためだ。
どういうことかというと、まず彩花は薬に対する耐性がある。生まれつきあらゆる薬が効きにくい体質だ。通常の薬から、麻薬、毒、麻酔まで、とにかく常人に比べ効きが悪い。これは必ずしもよいことではなかった。この体質のせいで死にそうになったことも少なくはない。なにせ、必要な薬が効かないのだから。
さらに催眠術にはかかりやすい人とかかりにくい人がいるが、彩花は徹底的にかかりにくかった。そればかりか、彩花はアンチ洗脳プログラムを受けている。これはあらゆる洗脳の知識を持つことにより、相手がどんな手段で来てもそれが洗脳テクニックだと意識することで、防衛するテクニックだ。
彩花の任務は洗脳されたふりをしながら、この研究所が患者に洗脳をしている証拠を掴むことだ。
なにげなく、まわりの患者たちを観察する。ときおり呼ばれ、診察室の中に入っていくが、なかなかもどってこない。しかし次々に新しい患者が呼ばれ、べつの診察室に入っていく。よく見ると、診察室が異様に多い。いったい何人の医者がいるのだろうか?
徐々に待合室から患者の数が減ってきた。もう新規の患者はほとんど入ってこない。呼ばれ、診察室に入っていく患者の方が多いのだ。
彩花はハンドバッグに入っているケータイを使って、中の様子を何気なくメールで慎二に知らせておいた。
『虹村さん、第七診察室に入ってください』
放送で呼ばれ、彩花は奥にある診察室まで行くと、ドアをノックする。
「どうぞ」
低く、しゃがれた声で返事があった。彩花はドアを開け、中に入る。
簡易的なベッドがある小さな部屋。パソコンの置いてあるデスクの前に、白衣を着た男の医師が座っていた。長い髪をオールバックになでつけ、やせこけた顔に目だけがぎらついている見るからに陰気な感じの中年男だ。その脇に看護師らしき白衣姿の若い男が立っている。こっちの方は短髪で精悍な顔つきに、長身でがっしりした体格と、少なくとも見た目はスポーツマンタイプの好男子だ。
「お掛けください」
痩せた医師は彩花に椅子を勧めた。いわれるがままに座り、医師と向かい合う。
「虹村さんですね? 私は当研究所の所長、黒死館です。ふだんは研究の方をやってますが、急に患者さんが増えて、駆り出されましてね」
よくいう。増えたのはあんたたちの策略の癖に。
そう思ったが、もちろん顔には出さない。世間知らずのお嬢様の顔で笑った。
「こちらは研究所の方で私の助手をやっている中里くん。やはりナースが不足して引っ張ってきましてね。いや、心配には及びません。研究所員とはいえ、彼も医師の免許は持っていますから」
そういって、青白い顔で笑った。中里といわれた助手もさわやかに笑う。
「それでどうしました?」
黒死館は内心答えのわかりきっているはずのことを聞く。
「じつはきのう突然ネズミに噛まれまして。こんなことはじめてですし、ネットで調べるとなにか変な病気が流行っているとか。ネットではここに来るのがいいと書いてありましたので、診てもらおうと思いました」
彩花はそういって左手の傷を見せる。もちろん、ほんとうにネズミに噛まれたわけではない。それらしい傷を自分で作ったに過ぎない。
「なるほど、なるほど、きょうはそういう患者さんばかりですな。少し血を調べさせてもらいますよ」
中里が採血用の注射器を段取りする。彩花がいわれるがままに台の上に腕を出すと、二の腕をゴムホースで縛られた。中里は手慣れた手つきで静脈を探ると、針を突き刺した。一瞬ちくりとしただけで、あっという間に採血は終わった。中里はサンプルをラボに持って行く。
「傷を見せてもらいましょう」
黒死館はじっくりと傷を観察した。内心、嘘の傷であることがばれないだろうかと、ひやひやしたが考え過ぎだったようだ。
「ほっとくと化膿しますね。化膿止め軟膏を塗りましょう」
黒死館は傷を消毒すると、軟膏を塗った。
「検査結果はあしたでないとわからないので、念のため抗生物質を注射しておきましょう」 きた。
おそらく洗脳しやすいように、正常な判断力をなくする薬。麻薬の類だろう。
彩花は内心ほくそ笑んだ。
自分には効かないが、帰ったあと血液検査をすればばっちり証拠がでる。自分自身の体こそが生きた証拠になる。
ラボから戻ってきた中里が怪しげな薬を注射器で吸った。
「やっぱり、伝染病なんでしょうか?」
彩花は脅えた目で黒死館を見る。もちろん演技だ。
「心配ありません。あくまでも念のためですから」
「さあ、腕を出してください」
中里が注射器を手に、真っ白い歯をのぞかせ、にっこり笑った。
虹村はいわれるがままに、注射を打たせる。脅えたふりをしたが、逆に打ってもらわなければ困るのだ。
体内に薬液が入っても体にはなんの変化もなかった。そういう体質だからしかたがない。それでも強い薬だと、多少の変化はあるものだが、なにも感じないところを見ると、たいして強い薬は使っていないのだろう。目的はあくまでも洗脳であり、ヤク中にすることではない。
「それじゃあ、あしたまた来てください。検査の結果が出ているはずです。飲み薬も出しておきましょう。お大事に」
「え? これで終わりですか?」
彩花は思わずそういってしまった。これでは洗脳などおこなえるわけがない。
「ええ、終わりです。あした検査の結果、なにもなければそれ以上通院の必要もありません」
黒死館はとうぜんという顔でいった。
どういうこと? 見込み違いなの? それとも囮捜査だってことがばれた?
彩花は頭がパニックになった。失敗か? それともシロか? 判断が下せない。
しかしこれ以上ここにいるわけにはいかない。なにか仕掛けるのはひょっとしてあしたかもしれないのだ。ここでこれ以上の追求をするわけにはいかない。
「失礼します」
この場はおとなしく帰るしかない。そう判断し、ドアを開けようとした。
その瞬間、彩花は異空間にいた。
真っ暗でなにもない平原。足下は泥だ。彩花以外には誰もいない。いや、後ろにもうひとりいた。黒死館だった。
「こ、ここは?」
この男に瞬間移動させられたのか? いや、いくらなんでもそんなことはあり得ない。普通に考えれば幻覚だ。しかし……。
「虹村彩花。君は警察、いや警察官僚でもある東平安名警視が個人的に作った組織『鴉』の犬だね?」
「いったいなにをいっているの、あなた?」
「しらばっくれても無駄だよ。待合室にいるとき、君の心を読んだのだからね。盗聴器は諸刃の剣だよ。そんなものをつけてれば、スパイだっていいふらしているようなものだ」
黒死館は薄気味悪い笑みを浮かべる。
「君は薬に耐性がある。しかも催眠が効かない。洗脳に対する知識だってある。だからこそここに送り込まれた。君なら間違っても洗脳される心配はないからね。逆にいえば、洗脳して二重スパイにするには君ほどうってつけの人間はいない」
「不可能だわ」
「それはどうかな? たしかに通常の方法では難しいかもしれないな。しかしこの私は洗脳のスペシャリストだ。だから君は他の者に任せずに、私直々におこなうのだ。君の知らない洗脳方法だってあるのだよ」
「これから洗脳をすると宣言するなんて馬鹿げているわ。警戒して受け入れないに決まっている」
「だから君の知らない方法もあるといったのだよ。そもそもここはどこだと思うね? まさか体ごとどこかに飛ばされたとは思っていまい。君は幻覚を見ていると思っているだろう?」
たしかにそう思っていた。しかしそれはそれで不思議なことだ。催眠にかからないはずの自分がなぜ思うがままに幻覚を見せられているのか?
「ここは君の脳の中であると同時に、私の脳の中でもある。正確にいえば、私たちの共有する深層意識の中だ」
「いったい、なにを……」
「まあ、聞きたまえ。これは私の生まれ持った特殊な能力でね。自分の脳と他人の脳をつなげることができる。もちろん肉体的にではなく精神的にという意味でだがね。だから君の考えが読めるし、私の考えを君に伝えることもできるのだよ。君が催眠にかからないのは、極度の警戒心のためだ。しかしここは君の心理の奥底であり、私はすでにそこに入り込んでいるわけだ。なぜならここは私の脳でもあるからだ」
「そんなこと信じられない。もしほんとうならわたしの意志があなたの脳に影響を与えることもあるはずよ」
「君はそんな訓練をしていない。私は生まれつきそれができる上、訓練に訓練を重ねてきた。勝負にならんよ」
「そんなこと、やってみなくちゃわからない」
「そうかな。たとえば君は夢を見ているとき、それを自由にコントロールできるか? たとえ悪夢にうなされても流されるままだろう? コントロールするどころか、それが夢であることすら気づかないんじゃないのか?」
それはたしかにそうかもしれない。しかしそれがなにを意味するのか、いまひとつよくわからない。
「つまりは君はこの世界で私に対してなにもできないが、私はこういうことができるということだ」
その言葉とともに、彩花の服はちぎれ飛んだ。その魅力的な体を、この不気味な男に晒すしかなかった。
ま、まさか?
この世界の中では、すべてが黒死館の思いのままになる?
そんなことは認めたくなかった。
しかし、彩花の体は思うように動かせなかった。手で胸や股間を隠すことすらままならない。
「君はこれから地獄の苦しみを追う。えんえんと悪魔たちに犯され、拷問され続けるが死ぬことすらできない。まともな判断力なんてあっという間になくなる。それでも責めが止むことはない。そんなとき、君を救う者が現れたら忠誠を誓わずにいられるかな?」
「そんな時間的な余裕はないはず。もしあまりあたしの帰りが遅いときには……」
「表で張っている仲間が突っ込んでくるっていいたいのかい? いや、ただの仲間ではなく恋人かな? どっちにしろ無駄だね。君にとっては永遠に近い時間が流れるかもしれないが、実際の時間経過はほんの数十秒だ。今、君の頭は猛烈なスピードで回転している」
嘘だ。このあたしがみすみす洗脳される?
「洗脳が完了したら、潜在意識の共有を解いてあげるよ。洗脳が行われた証拠はなにひとつ残らない。怪しい会話はなにひとつしていない。君に打った薬はただの抗生物質だ。もちろん洗脳された君は、彼らに洗脳の事実を伝えることはあり得ない」
足下の泥からなにかが這い出てきた。それも一体ではない。
悪魔。ひとつとして同じ形はしていないが、まさに悪魔としかいいようのない形相をした醜い化け物たちが次から次へと出てくる。鬼のようなもの、山羊のようなもの、虫のようなもの、まさに千差万別だ。
「まあ、せいぜい無限に近い時間の中で、彼らに思う存分可愛がってもらうんだな。せめて苦痛だけでなく、積極的に快楽をむさぼるといいよ、虹村君」
その言葉とともに、黒死館は消えた。
複数の化け物に押し倒された。冷たい泥の中でのたうち回るが、あっという間に四方から体を押さえつけられた。必死で両膝をとじ合わせるが、悪魔の一匹が万力のような怪力でこじ開けていく。
「クキキキキ」
「ケヘヘヘヘヘ」
「キャキャキャキャキャ」
不気味な笑いがこだまする。
彩花は無防備な股間を、醜い化け物たちに晒すしかなかった。
そのとき、必死に堪えていた絶望の悲鳴が、口から漏れるのを押さえることはできなかった。




