第四章 夢魔対女スパイ 1
第四章 夢魔対女スパイ
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「失礼しま~す」
七瀬は保健室のドアを開け、中に入った。すでに先客がいる。きのう教室でやはりネズミに噛まれた前田という女生徒だった。保健医の香坂に見守られるようにしてベッドに寝ている
「座って」
クールビューティーの香坂女医にいわれるがままに、七瀬は香坂と向かい合うような体勢で椅子に腰掛けた。
いつ見てもこの人はかっこいいと思う。そろそろ三十になるらしいが、働く女性の代名詞って感じで、男子からも女子からも人気がある。さらさらの黒髪をボブカットにし、白衣を着ているといかにも知性的な理系美人って感じだ。七瀬とて、この大人の魅力にはあこがれてしまう。
「熱やめまい、吐き気なんかは感じない?」
香坂が切れ長の目で七瀬を見つめ、聞いた。
「いいえ、快調そのものです」
じっさい七瀬は調子がよかった。ネズミに噛まれる前より、体調がいいとさえいえる。きのう、ネズミに噛まれた直後は、気分が悪かったし、精神的にも落ち込んでいたが、ここで抗生物質といわれた注射を打たれて、一時間ほどぐっすり眠ったら完全に復活したのだった。
「念のために、きょうも抗生物質を打っておくわ」
香坂は注射器で薬剤を吸いあげ、針を上にすると、ぴゅっと余分な空気を押し出しながら、機械的にいう。
べつにもういらないのに、と思ったが、別段注射嫌いでもないので素直に腕をまくる。
腕にちくっとした痛みが走った。
「三十分だけ、ベッドで休んで行きなさい」
「もうだいじょうぶです。部活にも顔を出さないと……」
「きょうはだめ。あしたからにしなさい」
七瀬は冷徹な香坂に反抗しようとしたが、みょうにテンションが下がっていく。なんかどうでもよくなっていった。
「さあ、寝るのよ」
逆らってはいけないような気になった。七瀬はおとなしく、いわれるがままにベッドに横になる。
「あたしがきのういったことを覚えている?」
香坂は寝ている七瀬の顔を覗き込むようにしながらいった。
「きのういったこと?」
七瀬はきのう、注射を打たれてベッドに寝てからのことは記憶にない。しかしなにか大事なことをいわれたような気もする。
必死に思い出そうとした。だけど思い出せない。
正直にそういった。
「いいのよ、それで。思い出せないようにあたしが暗示を掛けておいたから、しょうがないの」
意味がわからなかった。いったいこの先生はあたしになにをしたのだろう?
良く覚えていないが、なにかとても大事なことを聞かされた気がする。いや、聞かされただけじゃなくて……なにか誓ったような気も。
七瀬はその疑問を口にした。
「あなたはマリア様に忠誠を誓ったのよ」
「マリア様?」
とても神々しい響きを持つ名。しかしいったいそれは誰だっただろう?
「そう、全知全能の神、マリア様。まだ生まれ落ちてすらいないのに、世界のすべてを知り、世界のすべてを動かせる女神、マリア様。あなたは彼女に忠誠を誓ったでしょう? 思い出した?」
七瀬は頭にマリアを描いた。胎児にして、全能。そして至高の美を持つ少女。
それだけで、七瀬はとてつもなく幸せな気分になった。
「……思い出しました」
「マリア様がほほ笑めば嬉しいでしょう?」
香坂が優しく問いかける。
それを想像すると、心の底から幸福感が湧いてきた。
なんというか、ふわふわと天にまで昇っていきそうな不思議な感覚が全身を包む。
「はい。とても……とても、幸せになります」
「じゃあ、マリア様に敵対するとどうなる?」
今度は低い声で挑むようにささやく。
それを想像しただけで、気分が悪くなった。頭が割れそうに痛み、猛烈な吐き気が襲う。
目に見えるものが、どす黒く変色しながらどろどろと溶けていくような錯覚。七瀬はその中で溺れそうになった。
「生きたまま地獄に堕ちます。あたしはけっして逆らいません」
血を吐くようにそういった。
「そう、地獄で悪魔の責めを受け、のたうち回る。でもだいじょうぶ。あなたは決してマリア様に逆らわないから。だって、あなたはマリア様に選ばれた民だもの」
その言葉で、目に見える光景は元に戻り、さらにかすかに光り輝いていく。七瀬はふたたびうっとりした気分になった。そればかりか、体中に甘く蕩けそうな快感が走る。
「さあ、もう一度、マリア様に忠誠を誓いなさい」
「はい。あたしはマリア様に忠誠を誓います」
「どう? マリア様に忠誠を誓えるのは誇らしいでしょう?」
「はい。とても誇らしい気分です」
「では、もう一度。自分の名前をいってから絶対の忠誠を誓うの」
「あたし二階堂七瀬は、マリア様に絶対の忠誠を誓います」
「もう一度」
「あたし二階堂七瀬は……」
香坂にいわれるがままに、何度も何度も繰り返した。
その言葉を口にするたび、どんどん気持ちよくなっていった。はっきりいってそれは性的エクスタシーに似ていた。
そうなると、もう止まらない。
高坂にうながされるまでもなく、七瀬は取り憑かれたように忠誠の言葉をくり返す。
「あなたがほんとうにマリア様に選ばれた民なら、忠誠を誓うだけで快楽に溺れる」
その一言に、七瀬はイった。
その瞬間、絶頂の快楽と同時に、強烈な誇りが全身に芽生える。
「あなたはマリア様に選ばれた民。『楽園の種』の正式メンバーに選ばれたことを認める。たった今から、おまえはただの二階堂七瀬ではない。『楽園の種』の二階堂七瀬二等兵よ」
「ああ、とても嬉しいです」
視界がうれし涙で霞んだ。正式な階級までもらい、これで心おきなくマリア様のために戦える。
「ところできのうおまえが友達になった転校生が、おまえになにかいっていなかったか?」
薫子のことらしい。七瀬は知っていることをぜんぶ話した。
「なるほど、おまえの友達の鳥島薫子は、国家にだまされているらしい。今の腐りきった体制は一度破壊し、マリア様の手で作られた新しい世界をわれわれ『楽園の種』のメンバーで運営することが必要なのだ。つまり今の国家体制は悪。おまえの友達は知らず知らずのうちに悪に荷担していることになる。おまえは彼女の間違いを正さなくてはならない」
そうだ。あたしは薫子を悪の道から救い出さなくてはならないのだ。
「だからおまえは薫子にこれからもまとわりつき、情報を流すのだ。それは薫子を救うことにもなる。そうだな?」
「はい、その通りです」
「よし、二階堂二等兵。これからわたしたちの小隊の隊長を紹介する。彼の命令はマリア様の命令と同じだ。忠誠を誓うがいい」
保健室にひとりの男が入ってきた。
*
三月グループが黒死館総合医学研究所にたどり着くのは思ったよりも早かったな。しかも囮捜査員まで送る段取りになっていたとは。
香坂は七瀬の報告を聞いてそう思った。
もちろん香坂はきのう、きょうと同じように七瀬に抗生物質と偽って、ある薬品を注入した。いわば深い催眠状態になるような薬だ。それを使えば、強い暗示が掛けられる。
とはいえ、洗脳はほんらい相手を閉じこめて、集中的に教義を判断能力をなくした脳にたたき込むのが一番だ。それはさすがに難しい。数日とはいえ、複数の生徒が失踪するのは大ごとになりすぎる。だから治療という名目で回数をわけておこなうしかない。
ことを大きくせず、いつの間にか洗脳されている。本人も、まわりの人間も、いつの間に洗脳されたのかすらわからない。
それが今回のネズミを使った大規模洗脳計画のそもそもの目的だ。
この学校で生徒相手におこなったのは、たんに東京全域でおこなう前の予備実験、小規模シミュレーションに過ぎなかったのだが、面白いものが釣れた。
鳥島薫子。まあ、どうせ偽名だろうが。どうやら三月グループの犬で、事件のことを嗅ぎ回っているらしい。しかも只者ではない。
学校のあちこちに仕込んだ監視カメラの、昨夜の映像が物語っている。微量の光でも撮影できる暗視カメラの記録には、薫子の超人的な体術が写し込まれていた。薫子とかち合った大男の方は正体が不明だが、べつのグループがやはり秘密を探っているのかもしれない。こっちも要注意だ。
いずれにしろ薫子は放っておくわけにはいかない。
二階堂七瀬は、薫子に貼り付けるスパイ役としてうってつけだった。
七瀬の洗脳はあと数回に分けておこなうつもりだが、二回目のきょうで、かなり深まったはずだ。一回目は記憶に残らない潜在意識に、マリア様に従う幸福感と、逆らう恐怖を植え付ける。二回目の今回、マリア様へ忠誠を誓うことの快楽と、『楽園の種』のメンバーであることを意識させた。あとはそれを数回にわたって、確認、強化していく。それで完了だ。一度洗脳が完了すれば、元に戻すのは不可能に近い。七瀬は一生、『楽園の種』の奴隷になる。そしてそれが究極の幸せだと感じるようになる。自分のように。
七瀬は今、前田とともに小隊長の前にひざまずき、忠誠を誓っている。
もっとはっきりいえば、全裸で犬のように小隊長の前にひざまずき、命令されるがままに小隊長の体を舐めている。
この行為も洗脳効果を高める一手段だ。自分が犬であり、絶対に逆らえない命令者がいることを思い知らせるためだ。しかも今の七瀬は自らの脳内麻薬とあらかじめ打っておいた薬のせいでその行為を快感に溺れながらやっているはず。そうなればもう命令にしたがうこと自体が快楽であると思えてしまうのだ。それは自分で物を考るということを放棄させる。
ベッドに置きっぱなしになっていた前田のケータイが鳴った。放っておいてもよかったが、小隊長に忠誠を誓っている最中に電話が鳴って、注意がそっちに行くのもまずい。かわりに出た。
「はい、前田です」
『あ、前田さん? あたし、鳥島薫子っていいます。とつぜんごめんね。あの、留守電聞いたかな?』
「いえ」
『ええっとね、じつはネットの掲示板で、ネズミに噛まれた人が発病するっていうデマが流れているんだけど、嘘っぱちだから。黒死館総合医学研究所っていうところに行かせるための罠だから、絶対にそこには行かないでね』
香坂は笑いそうになった。
すでにわかっていることとはいえ、ご丁寧に確認の電話までよこすとは。
「ありがとう、そうします」
香坂は、できるだけ明るい声を作っていった。
『じゃあ、そういうことで』
電話は切れた




